皆さんは、テロに関して、どう思われますか?
 
私が2千以上のメールを米国の友人らに送り、大反対したアフガン侵攻(2001年~)、イラク戦争(2003年~2011年)以降、世界中でテロが拡大し、止まりません。
 
私が、2010年~2012年末まで仕事をしていたケニアでも毎月のように、テロ爆発がありました。
 
毎回爆発があると、真夜中でも、ケニア滞在中の私達に日本の政府機関から安全確認の「無事でしょうか?」の電話がありました。

政府機関にしても、企業にしても、私たちのような小さな個人にしても、個別に起こる「テロ爆発」に対して有効な対策はありません。
 
神道や仏教の考え方の影響が大きい日本に住む我々が、考えるとすれば、テロ対策としては、大規模デモではないと思います。

相手は、「死」を前提としてテロをしているのです。
 
戦争(War against terrorism)でもないでしょう。

戦争は、国家間であるのに対し、テロは、現状への不満と現生における未来への失望感を持った個人の集合体がしているに過ぎないのです。
 
9.11(2001年)以来、米国では、宗教、人種を超えて、数多くの熟議が持たれました。それらは、互いの理解を深めようとするものでした。
 
しかし、
そのような熟議は、未だに制度化されていません。
 
テロの解決策は、選挙がある度に、希望する者全員が熟議のできる制度を、世界中の国々で作ることと思います。
 
考えてみれは、日本的経営の良いところも、様々の経験、部門、上下階層、性別、年齢、学歴差などを超えての全員参加の熟議です。
 
いわゆるQCC (Quality Control Circle:品質管理のための小集団活動)も異なった経験・知識、意見の人々が集まり、時間をかけ課題を議論することです。

日本人は、肯定・否定の単語が、文章の最後に来る日本語のお蔭で、たいていの人たちが、忍耐強く、相手の言葉に耳を傾けます。
 


そのような「小さな会議」では、必要に応じて、外部専門家や研究者に手順を教えてもらい、彼らの見解をも参考にできるでしょう。
 
それにより、納得性を求め、全員参加、ボトムアップ、「小さな会議」(理想として4、5人の会議こそが、理解を深め、具体策を生む。)と「大きな会議」(セレモニーとしての)などのイベントをします。

(「小さな会議」とは、参加者皆が自由に、質問したり、応えたりできる会議のことを指します。)
 
現在の選挙制度だけでは、売上と部数増加を目標とするメディア情報の影響で、世界中の政治社会が健全化しません。
 
世界において、現在の選挙制度は、当時まだまだ教育の行き届いていない欧米諸国が開発した民主主義の方法でした。

(江戸末期で日本の識字率7-8割に対し、ロンドン、パリなどの大都市でも2割程度しかない欧米諸国でした。) 

交通の便も悪い当時、人々を集めて、会議などできないと考えられていたのだと思います。

当時、政治に必要な知識経験は、農業・牧畜、製造業、鉱業、教育、軍事・保安などでしたが、

現在は、高度に発展した技術・産業を初め、金融市場、国際経済、国際政治など、はるかに複雑で高度な知識・経験が求められます。
 
昔は、経済産業の構造やそこで働く人々を理解することが、容易だったのです。
 
欧米的な思考方法の根本問題は、全ての課題を、善か悪か、紅か白か、キリスト教徒かイスラム教徒かの「二元論」で、議論を始める傾向のあることです。

「二元論」の一つは、「経営者」対「労働者」、あるいは、「資本家」対「労働者」でした。
 
最初から、立場が分かれていますから、仕組み上、意見の歩み寄りは、たいへん難しくなっています。
 
典型的に、会議は、対話にならず、各々が自分の主張を言いっぱなし、終わります。各党内での報告は、「言ってやった!」ということだけです。

戦後、日本の経営者達が、共産主義が基礎となっている
「二元論」の議論への対応に
、どれほど、苦労したことでしょうか。

YKK創業者、吉田忠雄(1908 -1993)は、米鉄鋼王アンドリュー・カーネギーなどの経営思想を参考として「善の循環」、言い換えれば、「他人の利益を図ることで自らも繁栄する」との考え方に到達し、事業に適用しています。

戦中までの反省をも踏まえて、戦後、独特の日本的経営(長期雇用、年功序列、企業内組合)が生まれ、世界中の経営者の参考となったことは、多くの人々の知るところです。
 
メディアは、ものごとを単純化してセンセーションを起こし、売上増加を狙います。

その意味では、テロ爆発もデモ行進も、メディアには、都合が良いのです。

例えば、「言論の自由」、「表現の自由」も単純化したスローガンですが、対抗する概念は、「表現の不自由」でしょうか。

「表現の自由」と言って、自分の子供をからかう隣の子供の親を、私たちは公然と大声で非難することはしないでしょう。

それは、表現の自由というより、マナーの問題です。
 
イスラム風刺画掲載仏週刊 紙「シャルリー・エブド」のように 他の人々や他の社会の宗教をジョークにする必要がどこにあるのでしょうか。その表現に傷つく人々がいるという事実に、思いを寄せることはないのでしょうか?
 
これまで機会が与えられてこなかった人々にこそ、宗教が大切なのです。
 
彼らの心の平安は、宗教と密接に結びつき、様々の理由で苦悩する人々には、宗教やそれに関係する活動が、非常に大切です。

宗教の存在により社会が安定化しますから、国際社会にとっても尊重すべきことです。社会の安定があれば、経済発展の機会も出てきます。
 
現在の選挙制度では、軍需産業を初め大組織からの支持を求める政治家が多くなります。
 
社会を健全にするはずのリーダーたる政治家たちが、明日の生活のため、効率良い政治活動に集中します。つまり、小さな個人の気持ちよりも、経済力も政治力もある強大な組織を頼りにする傾向があるのです。
 
政治家が、選挙費用をカバーするために金儲けの必要性を感じさせる選挙制度を維持している限り、

売上と部数を求めるメディアにPRを依存する限り、

世界は、なかなか健全化できないのです。

世界中で「熟議の制度化」が、必要だと思います。