「歴史秘話ヒストリア」#240
「徹底解明 ! これが"真田丸"だ ~地中に残された幻の城」


初放送: 1/6(水) 22:00~23:13 NHK-G
再放送: 1/13(水) 16:05~17:18 NHK-G

総合司会: 渡邉あゆみ

出演:
奈良大学学長・城郭考古学者: 千田嘉博
奈良文化財研究所・主任研究員: 金田正大

再現ドラマ出演: 海部剛史・・・真田信繁(幸村)役、他多数。

撮影: 白石和敏
映像技術: 榎本真弓
美術: 石村嘉孝
CG制作: 妻島奨
イラスト: 野村歩美

ディレクター: 伊藤敏司
制作統括: 木道壮司


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【概要】


大阪冬の陣で豊臣方の真田信繁(幸村)が、徳川方の攻撃から大坂城を守ろうと築いた砦・真田丸の全容に迫る。


江戸時代初期に現地踏査によって作製された一枚の絵図を基に、地中深くに埋められた真田丸の堀の存在を地表からのレーダーで探る。

真田丸の存在を実証的に明らかにするとともに、真田丸を巡る豊臣方と徳川方の攻防戦の実態を、専門機関の調査やCGを交えて解明する。



▽地中に埋まる真田丸をレーダー探査で発見 !? 400年振りに甦る真の姿。
▽驚きの規模、不思議なカタチ。
▽真田丸は二つあった !?



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【あらすじ】


大阪冬の陣。
数か月前まで無かった砦が出現。徳川軍はたった一日の戦闘で1万5千人程打たれ大敗した。
真田信繁(幸村)が築いた難攻不落の要塞「真田丸」。
破壊され地中に埋められたため、その実像は謎に満ちた戦国最大のミステリーの1つ。


■ 謎1 真田丸は何処に在った?

「大坂御陣覚書」・・・「大坂本陣の巽(たつみ、南東)」、「百閒(180m)四方の出丸」。
南東には真田丸が在ったと伝わる地域が6箇所もある。
「真田山三光神社」、「真田山町」、「玉造商店街」、・・・。

2015年7月、専門家による科学的調査を実施。
奈良文化財研究所・主任研究員の金田正大さん、レーダーによる非破壊探査車「Road Espar 3D」(アイレックス技建)、GPR「BECHO-70」。
「真田山町」の隣り「餌差(えさし)町」大阪明星学園の南の地中に深い溝。深さ8m x 幅40~50m。
大坂城の惣構(そうがまえ)堀は深さ11m x 幅30m。

奈良大学学長・城郭考古学者: 千田嘉博さんは、「餌差町」の航空写真(1948年米軍撮影)をTOPCON「MS-3」で立体視し判読。真田丸の南側堀の痕跡と見ていい。
CGにより真田丸の本体を解析。場所もさることながら、その形が台形(東西220m 、南北230m)に近いことに驚き。
これまでの江戸時代の様々な絵図には、半円形だった。
「真田丸(●)」ではなく「真田角(■)」だったのだ。


■ 謎2 「謎の絵図」

実は、江戸時代の絵図に一枚だけ四角に描かれたものがあった。
広島藩浅野家の「浅野文庫 諸国古城之図」177枚の中の、「大坂真田出丸」に描かれていた。
24間(43m)程の堀。レーダー探査の南側堀40~45mに合致。
この絵図の正確さに着目すると、北側堀20間の形状と現在の小路の痕跡形状もほぼ一致。
江戸時代の初期に実際に歩いて描かれたものではないか。


■ 謎3 「寺と雲形との秘密」

「浅野文庫 諸国古城之図」の「大坂真田出丸」を頼りに、その他の解明を行う。
絵図の通り、北東隅に寺が並び、現在の住宅3Fに相当する高台に「心眼寺」「興徳寺」「大應寺」。城郭の外の平地にも寺が並ぶ。
崖の上に建っていた寺を利用して城壁に転用した。


■ 謎4 「真田丸の戦い 勝利の方程式」

寺町は真田丸が築かれる以前から存在し、戦いは野原ではなく町中で行われた。徳川軍には狭い寺町を抜けるとそこには深い堀が待ち構え、大軍ゆえ退却もできなかった。

一方、真田丸の北側は深い谷ばかり。大坂城から離れ独立した城だった。
援軍や弾薬・兵糧(ひょうろう)などの補給が難しく、危険な孤立無援の状況を選択。


■ 謎5 なぜ信繁は孤立を選んだのか?

次男坊の役目は有力大名(武田・徳川・上杉)への人質だった。1587年に今度は豊臣の人質。
秀吉は豊臣姓まで与え大名扱いをしてくれた。上田に次ぎ大坂は第二の故郷と思う。
1600年の関ヶ原の戦いで徳川秀忠軍を足止め。紀伊に流罪(14年間)。脱出して大坂城へ。
大坂城の水際に、大きい孤立砦を築き敵を引き付け自ら攻撃目標となる。


■ 謎6 真田軍の巨大銃 VS 徳川軍のモグラ?

徳川軍・・・竹束(最前線の盾)~築山(射撃陣地、110~140mの距離に3か所)~離れた位置に仕寄(塹壕ざんごう)の不思議? 
それは真田軍・・・3人掛かりで扱う専守防衛用の大型銃「大狭間筒」(おおはざまづつ、茨木市の旧家に保存)、有効射程距離は300m(火縄銃の2倍以上)。
徳川軍は近づいては塹壕を掘るモグラ作戦。

1か月の膠着状態後、徳川軍が発注した英国製大砲が到着。本丸に命中が続き淀殿が恐怖。
独断で和睦、全ての堀を埋め、真田丸は破壊された。


■ 謎7 もう一つの真田丸

大阪城から南に5km、茶臼山に信繁の夏の陣の本陣(現・天王寺公園の一角)。
それは家康の冬の陣の本陣跡だった場所。
丸馬出(まるうまだし、本陣から敵に向かって騎馬隊出馬)を増築して、冬の真田丸再現を図った。しかし毛利勢が好機を待たずして拙速で攻撃してしまい、背後から家康の命を狙うことできず。

已むなく、茶臼山を捨て家康目掛けて突進し、家康を二度までこれまでかと思わせたものの、玉砕。


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■■ 関連番組


■ 「ブラタモリ×鶴瓶の家族に乾杯 真田丸SP」あらすじ(2016/01/02放送)


■ 「歴史秘話ヒストリア」#014
「真田幸村 ザ・ラスト戦国ヒーロー ~伝説に秘められた誇り~」

初放送 2009/8/26(水)22:00~22:43  NHK-G
再放送 2009/9/2(水)8:15~8:58 NHK-BS2、16:05~16:48  NHK-G
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再放送 2016/1/3(日) 0:47~1:30 総合

史上の人物の秘められた物語に迫る歴史ドキュメンタリーの戦国武将編第2弾・真田幸村編。
大坂夏の陣で、知略と勇猛な戦いぶりで驚異的な大活躍をした。
だが実際に活躍したのは僅か半年余り。
そんな幸村は、なぜ伝説的な活躍をすることができたのか?

物語の中の幸村像と、幽閉され大坂の陣で活躍した現実の幸村の姿から、最後の戦国ヒーローの実像に迫る。
真田十勇士などでは仲間の十勇士を指揮する沈着冷静なリーダー。
また最近人気のゲームでは真っ赤な衣装に身を包んだ熱血漢のキャラクターとして登場。
実際の真田幸村はどんな人か英雄伝説に秘められた誇りに迫る。
幸村を巡る伝承や幽閉先の九度山取材、大坂での伊達政宗との勝負などを分析し、実像に迫る。

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エピソード 1 九度山紀行 幸村の伝説と実像

和歌山県九度山町には真田幸村にまつわる伝説が数多く残されている。真田の抜け穴は大阪城に繋がっていると言われている。善名称院は真田幸村の屋敷跡に建てられ真田庵と呼ばれている。ここに残る十文字槍は真田幸村が使ったものだと言われている。また雷封じの井戸は真田幸村が雷を捕まえて井戸に封じ込め村人を落雷から救ったと伝わる。真田幸村の不遇のはじまりは関ヶ原の戦いだった。関ヶ原を目指す徳川軍を領地である上田で真田昌幸とともに待ち受け大損害を与えた。徳川の天敵として名を上げた。しかし関ヶ原の戦いでは徳川方が勝利し江戸幕府の全国支配が進み真田昌幸・幸村は九度山に幽閉された。関ヶ原の戦いで徳川方が勝利し江戸幕府の全国支配が進み真田昌幸・幸村は九度山に幽閉された。家族も多く幸村だけで10人近く子どもがいたと言われている。幸村たちは九度山の人々からも援助を受けた。真田幸村の屋敷から1時間ほどにあるかつて庄屋だったお宅に残る手水鉢は真田幸村と深い繋がりを示している。また真田幸村と親しかった蓮華定院には幸村が本音を包み隠さず頼みごとをする手紙も残っている。九度山のある紀伊の国は信長や秀吉など支配者に抵抗し続けた土地柄だった。権力者に歯向かってきた人々は真田昌幸・真田幸村親子に尊敬の念をもったと思われる。九度山に幽閉された11年目の1611年、真田昌幸が亡くなった。真田幸村もすでに45歳で大名として復帰する目処もたっていなかった。大阪の豊臣家は徳川と戦うため全国に武将を募っていた。真田幸村は九度山の人々の手助けによって大阪に向かうことができたというのが真相だった。真田幸村を描いた物語で大正時代から人気だったのが真田十勇士。九度山に幽閉された幸村が猿飛佐助など十人の忍者や豪傑に司令を出し徳川を倒そうと活躍する物語。現実の幸村の誠実さ期待感が物語のリーダー幸村像をつくったのかもしれない。

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エピソード 2 生き過ぎた?戦国武士たちの戦い

名古屋市にある熱田神宮はかつて大勢の武士が戦いに勝つための祈願をした神社。二十代で長生きしすぎというのが当時の戦国武士の共通の想いだった。乱戦を生きがいとしてきた武士たちは戦のない時代への鬱憤を晴らすように自由奔放に目立つように振る舞った。武士のアイデンティティの持ち方は戦いで名をあげるためなら死んでもよいというのが根幹にある。慶長19年10月、豊臣家当主の秀頼を攻めるため徳川軍が大阪に迫っていた。大坂冬の陣には天下の行方とともに幸村たちの名誉がかかっていた。自分の名を上げるための戦いぶりで塙団右衛門が目立っていた。大阪市立真田山小学校は大坂冬の陣で真田幸村が築いた真田丸があったとされる高台に建てられている。真田丸にて敵をおびき寄せて叩く得意の戦術を使った。徳川と豊臣の間に和睦が成立し幸村たちは徳川に一矢(いっし)報いた。戦国真っ盛りの武士たちは自分を評価してくれる主を求め使える家を変えるのは当然だった。しかし徳川の世になると変わってしまった。塙(はなわ)団右衛門はもともとは徳川方の武将に仕えたが対立し別の家に仕えようとした。奉公構えによって士官できず大阪城に流れ着いた。

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エピソード 3 赤備に込めた覚悟

真田幸村が大坂冬の陣で身に着けたとされる鎧は全体的には地味なものだった。しかし大坂夏の陣で幸村の軍は赤い鎧で決戦に臨んでいた。赤備えには真田幸村の決死の覚悟が込められていた。真田幸村は大坂冬の陣の戦いぶりで名を上げた。和睦によって大阪城の堀のほとんどが埋められ真田丸も破壊された。真田幸村は徳川方から大阪城を離れて味方するよう誘われたが断った。真田幸村は大坂夏の陣で自分の配下の牢人たちの装備に大きな手を加えた。普通は地味な色が多いが目立つ赤で統一した。バラバラの牢人に一体感を与えた。慶長20年4月、大坂夏の陣が始まった。大量の鉄砲を備えた伊達軍に豊臣の舞台は次々と敗れた。真田幸村は伊達軍との戦いを有利に進めたが豊臣方の部隊が各地で敗れたため後退した。真田幸村は娘の命を救うため伊達政宗の側近 片倉小十郎の陣地に阿梅を預けたとされている。慶長20年5月7日早朝、真田幸村は天王寺の茶臼山に陣を構え家康に狙いを絞った。豊臣方の部隊が徳川方の主力を引きつける間もなく乱戦になってしまい別働隊が家康に迫ることができなくなった。そして真田幸村は家康の本陣を目指し突撃を開始した。三回目の突撃で家康の間近に迫ったが行く手を徳川方の援軍に阻まれた。兵の多くを失った真田幸村は安居神社まで押し戻された。動かぬ体で最後まで槍を振るい続け力尽きた。大坂夏の陣が終わった後、敵対した徳川方の武将からも真田幸村を称える声があがったという。幸村の生存伝説は全国に残されている。

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幸村の子どもをめぐる秘話

片倉小十郎の所領だった宮城県白石市にある当信寺の紋所は六文銭、片倉小十郎の妻となった阿梅ゆかりの寺。阿梅は夫 片倉小十郎の寺ではなく父 幸村を弔った当信寺に葬られた。志紀長吉神社は幸村が戦勝を祈願したことから勝利のご利益があると言われている。