百夜通い | 朝寝坊弁慶のささやかな交湯録

朝寝坊弁慶のささやかな交湯録

朝寝坊弁慶の由来は、朝寝坊して昼過ぎからのこのこと温泉に出かけていく習性に由来しております。

弁慶はなにかといえば、語呂合わせみたいなものです。

興味の幅がありすぎて、まとまりがありません。最近は京都に住んでいます。気持ち的にはです。


浄土宗法雲寺

久坂玄瑞、吉田稔麿等の寓居跡とあるが、法雲寺を訪ねた目的はそれではない。それにどうも住んでいたというよりは、寺に謹慎させられていたらしい。



もともと関白太政大臣藤原兼家の邸宅、二条第があった場所で、兼家が出家して建立した法興寺があったが、焼失し荒れ果てて森に戻った。応仁の乱の頃は鬼が出ると人々に恐れられていたが、源蓮社然譽上人が鬼を沈め庵を結んだのだ法雲寺の始まりである。本尊は阿弥陀如来。



こちらがその法雲寺の本堂。ちょっと観光としては訪問しにくい雰囲気であるが、目的は受付の奥にある菊野大明神である。

その御神体は石である。



まずはもう一つの社、豊川大明神。こちらは火災、厄、災難除けの神様。



こちらが菊野大明神。建物の中は撮影禁止なので、説明するしかないのだか、中央に祠があって、この中に御神体の石がある。

その石は悪縁切りの神様である。名前を深草少将腰掛け石という。


元となっているのは百夜通いの伝説である。深草少将は紫式部に求愛し、百夜通ったら願いを叶えましょうと言わる。そこで、ひたすら通い続けたが九十九日目の雪の夜に倒れ、そのまま息絶えてしまう。こちらは能の作品なので美しく描かれているが、もう一つの逸話として、九十九日目が雪の夜だったので、家来を代理に立てて愛想をつかされてしまったというのもある。さて、どっちが本当なのだろうか。

この深草少将が紫式部の元へ通う時に途中で休憩したのが、この深草少将腰掛け石なのである。

願いが叶わなかったのが、鉄輪の女と同じで九十九日目なのは、やはり物語だからなのだろうが、なぜか同じように悪縁切りの神様になってしまうのは、なぜなのか。




御朱印を頂き、最寄りの市役所前から地下鉄東西線で小野に向かう。




随心院

真言宗善通寺派大本山で、小野流の開祖、仁海僧正が創建した牛皮山曼荼羅寺の塔頭であった。小野流とは、真言密教を実践する方法と理論により分かれた流派である。

開祖仁会海は雨乞いの祈祷のたびに雨を降らせたので、雨僧正と呼ばれた。



随心院は小野小町の邸宅があった場所でもあり、玄関前には歌碑があった。

花のいろはうつりにけりないたづらにわが身よにふるながめせしまに

「ふる」は「福る」と書かれているのかな・・。



随心院は門跡寺院なので、平安の雅を思わせる装飾や物も展示されているが、やはり小野小町がメインということだろう。



能の間にある極彩色梅匂小町絵図は小野小町の生涯を描いた現代作品である。



洛巽の苔寺と呼ばれた庭園を眺めていると、仏前結婚式をしたカップルが写真撮影の為にこちらに来た。随心院ではそのようなことも積極的に行っているようだ。



深草少将が通う度に、庭の榧の実に糸を通して日を数えたという。九十九日目に倒れた深草少将の手には、榧の実が一つ握られていたというから、通う度に小町に渡していたということになる。



曼荼羅寺の塔頭だったので、御朱印は曼荼羅殿。

預けてあった御朱印帳を貰い受け、外に廻る。



薬医門を梅園側から眺める。奥に見えるのは表玄関。映しているあたりには梅園があり、春は美しいらしい。



小野小町化粧井戸は小野小町の邸宅にあり、おそらく小野小町が化粧をしたのではないかと言うことで名付けられた。残念ながら、この時は長梅雨の影響であまり化粧したくないような水質になっていた。

あ、小町文塚を見忘れた。

ね。