沖縄2日目の、つづきです。
ひめゆりの塔を後にして
車で向かったのは、
ひむかいの塔の近くに看板があった
「米須霊域」
南部に撤退した日本軍や学徒隊、
沖縄の人々は、
ひめゆりの塔がある伊原や
米須あたりの壕に避難していました。
そしてこのあたりで
命を落とした人々がとても多いのです。
沖縄戦で亡くなった日本兵たちは
いろんな都道府県の出身です。
米須霊域と、平和祈念公園の中に、
ほとんどの都道府県の塔があります。
でも、遺骨は入ってないそうです。
どの遺骨が、どこの出身者のものかは
わからないからだそうです。
開南健児之塔は、
開南中学校の生徒たちが動員された
開南鉄血勤皇隊の塔です。
正確な動員数は不明ですが、
182名の生徒と4名の教師が
犠牲になったそうです。
沖縄県の塔とも言える、
魂魄(こんぱく)の塔
戦後、米須の地に移動してきました。
作物を育てなければいけないが、
あたりには頭髪や皮膚が付着したままの
遺骨が散乱していました。
米軍に遺骨収集の許可をもらい、
拾った遺骨をうず高く積み上げ、
米軍から資材を提供してもらったりして
骨塚がつくられました。
こうしてできた魂魄の塔には、
3万5千体が納骨されました。
すべて身元は不明です。
復帰後、摩文仁の丘の国立戦没者墓苑に
ほとんどの遺骨が移されたため、
現在はわずかな遺骨しか残されていません。
米軍に遺骨収集の許可を求めたり、
資材の提供を申し入れた
真和志村の村長・金城和信さんは、
娘2人がひめゆり学徒隊に動員され
亡くなっています。
魂魄の塔からさらに南へ向かいました。
こんな道本当に通れるの?
というところを通りたどり着いたのは
荒崎海岸。
ひめゆり学徒隊散華の地です。
脱出した学徒数名と教師は
この海岸まで逃げてきました。
でも、見てわかるとおり
もう逃げ場はありません。
米兵の銃乱射攻撃を受ける中、
生徒たち9名と教師1名が手榴弾で
自ら命を経ちました。
この場所にくるまで、
ほんとう〜〜におだやかな
さとうきび畑が続いています。
この場所から見える海も、
なにもなかったかのようです。
でも、ほんの72年前
この海岸には数えきれない程の
死体が転がっていたのです。
民宿のおかみさんが言ってました。
今でも、沖縄のおばあの中には
砂浜のサンゴが人骨に見えるから
海には行けない、と言う人がいると。
裸足で死体を踏んで逃げ回った時の
足の裏の感触が忘れられないと。
これが、あの戦争が遺した現実です。
おかみさんから、ぜひ行ってみてと
教えてもらった場所に向かいました。
平和祈念公園のすぐ脇に建つ
沖縄師範健児之塔
沖縄師範学校男子部の生徒226名と
教師19名を含む同窓生290名を祀っています。
残存兵とともに、「斬り込み」を
命じられた学徒もいたそうです。
平和祈念公園の中で有名な
平和の礎や資料館からは離れた場所で
裏手にあるので、
あまり人はいませんでした。
車を降りて歩いていると
地元の方と思われるおじさんに
「静かでいいところですよ。
当時の雰囲気も残っているので
ぜひ行ってみてください」と
声をかけてもらいました。
高校の修学旅行で来た時も
平和の礎には行ったのですが、
まだまだ知らないことも沢山あり
今回知ることが出来てよかったです。
本当に想像を上回るほどに、
たくさんの人生が奪われている。
今回いちばん感じたこと。
数字で言って仕舞えばそれまでですが
そのひとつ、ひとつに、
もっと生きられたはずの人生があった。
日本軍も、学徒隊も、民間人も、
米軍も、関係なくそれは同じですよね。
健児之塔から、なにやら
山奥へ続いている階段があり…
登ってみることにしました。
それどころじゃなかったのですが
帰りに数えてみたら396段でした(笑)
由貴ちゃんと2人ではぁはぁ言いながら
登りきった先は、摩文仁の丘でした。
第32軍司令部が最後に辿り着いた
自然壕があった場所のようです。
ここで司令官・牛島満中将が自決し、
沖縄戦終焉の地となりました。
こんな崖まで追い詰められて、
逃げ場をなくした日本軍。
司令官の自決で組織的抵抗は終えましたが
米軍の攻撃はやみませんでした。
いま読んでいる本が
沖縄戦の作戦を考えていた
参謀・八原博通大佐の本なので、
「牛島軍司令官」「長参謀長」
と刻まれた名前を見て
妙な現実感に襲われました。
陸軍軍医大尉・清松義親戦死之地
と、書いてあります。
その右手はちいさな洞窟になっていて
入れるように階段がついてました。
少し、中の方まで行ってみました。
ここにもきっと、わたしの想像を超える
厳しい現実があったのでしょう。
公園のメイン入り口の方へ周り
あまり時間がなかったので
園内を案内してくれるミニバスで
ぐるっと霊域をひとまわりしました。
さきほどの米須霊域になかった
都道府県の塔があります。
どちらの場所で多く出身者が
亡くなったか、で場所が違うそうです。
平和の礎の入り口あたりに、
全学徒隊の碑があります。
調べてみると、今年の3月14日に
除幕式が行われたようです。
学徒隊というと、ひめゆり学徒隊が
いちばん有名ではありますが、
これだけの数があったのだということ。
広く知っていただけたらと思います。
国籍や民間人、軍人を問わず
24万人余の沖縄戦戦没者名が刻まれている
平和の礎を抜けた、景色。
案内バスのおじさんが教えてくれました。
綺麗に整備された芝生や平和の礎の
すぐ先がこのリアルな岸壁で、
そのギャップが余計に生々しく
当時の凄惨さを残しているように
感じられました。
☝︎こちらに資料館や平和の礎、
摩文仁の丘など多くの説明があります。
ひめゆり学徒隊の最期を
多く語ってくれた糸満市に別れを告げて、
南風原陸軍病院壕跡のある
南風原町へと向かいました。
ミュージカル『ひめゆり』でも
南風原陸軍病院でのシーンが
多く登場します。
またもやとても長くなってしまったので
南風原のことはまた次回にします。
あかね・はる