阿修羅・原死去 | michyのブログ

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ダラダラした日常で興味を持ったことを、ぼちぼちと書きなぐります。

龍原砲も遠くなりにけり。

元プロレスラー阿修羅原さん死去 68歳 (日刊スポーツ)
http://www.nikkansports.com/battle/news/1468400.html

全日本プロレスの一番面白かった時期は天龍同盟のころだと思っている。
外敵である長州力らジャパンプロレス勢が去って、
また平穏というか平凡というか刺激の無いリングに戻ろうとしたときに
突如として活性化を詠った天龍源一郎とそれに呼応した阿修羅・原。
この2人を中心とした試合は本当に面白かった。

お家騒動と抗争がお手の物だった新日本プロレスに対して、
全日本プロレスは馬場の思想がそうなのか抗争ごとにはとんと無頓着で
外国人vs日本人の図式をずっと守っていた。いや、それが一流外国人ばかり
来ている時にはある意味間違ってはいないんだけれども、外国人だって
段々レベルが下がっていったし、全日の日本人レスラーは子供心にもホント
もっさりした印象・・・今思い起こせばプロ意識の無い印象のレスラーが多かった。

そこに入ってきた劇薬・長州力が一気にリングを活性化したあとに去って、
また退屈な日々が戻ると思った刹那、決起したのが天龍源一郎。
流石、のちにミスタープロレスと言われる御仁。
その傍らにいたのが阿修羅・原だった。

まぁ、プロレスの抗争というのは所謂アングルではあるのだが、
この時期のアングルはある意味ちゃんとしてて、天龍と原は本体とは別行動で
移動のきっぷも自分たちで買っていたらしい。のちに外国人のバスに乗れたらしいが。
(アングルではなくてある意味ガチだったのかも。)

思い起こせば、龍原砲の全盛期というのは驚くほど短い。
天龍同盟結成から阿修羅・原が借金問題で解雇されるまでわずか2年ほど。
その頃の印象が強かったのか、数年のブランクを経てSWS~WARで復帰した
あとの、よく言えばがっちり、悪く言えばおっさん体型の阿修羅・原を見た
友人 などは、「いや、別人だろ!?2代目か何かだろ?」と言ってたっけ。
復帰後、かつてのような動けるヘビー級ではなくなった阿修羅・原だが
たとえ反対側のコーナーに立とうとも、常に天龍を意識した現役生活だった。

引退興行となった1994年10月3日の長崎県営体育館大ホールの試合、生で見た。
大学4年前期の試験期間中で、内定貰った会社の内定式に行く前日のあわただしい日。
キャパ的に結構大きめで、無理した営業だったのか、客は多かったが前半は冷え切っていた。
それが休憩後はウルティモ・ドラゴンや冬木弘道の試合で火をつけていって
迎えたメインは阿修羅・原vs天龍原一郎のシングル。
40過ぎてもバリバリだった天龍に対し、本当に動けなくなっていた原。
だが、盟友天龍の攻撃を体に刻み付けるように、サンドバック状態になりながらも
決して引かなかった原。それに呼応するように湧き上がる阿修羅コール。
のちに、後楽園や両国や武道館にも行ったが、ある意味あれほど情念のこもった
お客さんのコールは聞いたことが無い。

また一人、名レスラーが逝ってしまった。
ご冥福をお祈りします。