奇跡の原理 | 山形全国対応心理カウンセリング・鬱病や生きづらさや緊張・恐怖症を改善する福島宮城新潟

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東北山形県山形市のカウンセリング。鬱や生きづらさ、緊張あがり症・社会不安障害の解消、人間関係を良くする方法、潜在意識の活用方法、問題解決方法など書いてます。カウンセリングを受けた方の感想・声なども。対面・電話カウンセリングで全国対応しています。福島仙台新潟

アコースインミラクルに出会って、感じたこと。

教えはホオポノポノと似ているなあと思ったこと。

そして、講師の見解や余計な人のフィルターが入っていなくて、クリアでいいなあと思ったこと。



:世界11ヶ国で150万部以上が翻訳&出版されている『A Corse in Miracles』
キリストをチャネリングしたという有名な本です。ビジョン心理学も、これがベースになっているようですね。



心は一つ。外に見える他人の問題でさえも、問題と見る自分の心の問題。

自分がクリアすれば、他人の問題出せも消える。

なぜなら・・心は一つだから。


時に不公平に見える

真実は確かに存在するということ。

それ以外は自分の妄想(イリュージョン)

真実、それを教えてくれるのがアコースインミラクルズ

「あの宗教はちがうよね、あの教えはこうだよね」

はこのコースにはないとのこと。


仏教は、人生は苦しみだ からはじまります。

しかし、このコースは、苦しみは幻想ということからはじまります。


自分がワンネスを忘れている。ワンネスに反するものは存在しない。

ありえないものは、イリュージョン。

行動は2つしかない。

愛か恐れか。



愛を忘れているから、恐れが出る。

なぜ今、私が問題を見ているか?

愛していないから・・それ以外に宇宙に理由はない。



富や愛も、内にあるといいます。

内とは自分の心ですね。

今見ている世界は、自分の内の投影であるのなら、自分の見ている世界も変えれますね。


それをどうやって証明するか?コースの教えを実践することですね。





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A Course in Miracles
             翻訳 田中百合子


一 奇跡の原理   

 

  奇跡に難しさの順序はない。ある奇跡がほかのより「難しい」とか「大きい」とかということはない。ぜんぶ同じ だといえる。愛の表現はすべて最高のものである。

  どのような奇跡であろうがそれ自体は重要ではない。ただひとつ重要なことはその御源であるが、それは評価の範 囲をはるかに越えている。

  奇跡は愛の表現として自然に起こる。本当の奇跡とはそうした奇跡を思い起こさせる愛。この意味においては愛に よって生ずるあらゆるものが奇跡である。

  すべての奇跡はいのちを意味し、神がいのちを与え賜う御方である。神の御声があなたをきわめて明確に導くだろ う。知らなければならないことはすべて告げられる。

  奇跡は習慣で、知らず知らずのうちに生ずべきもの。意識に左右されるべきではない。意識的に選ばれた奇跡は 誤って導かれることが有り得る。

  奇跡は当然の成り行きである。起こらないときは何かが思わしく行かなかったということになる。

  奇跡はだれもが持つ権利、しかしまず清めが必要である。

  奇跡は不足するものを補うので癒しであり、それは一時的に不足している人のためにその時点で余裕のある人に よって成される。

  奇跡は一種の取り交わしである。愛の表現はみな真の意味でつねに奇跡的なものだが、それに似て、取り交わすこ と自体が物質の法則といわれるものをくつがえす。奇跡はより多くの愛を与え手と受け手の両者にもたらすといえる。

  信心をひき起こす見せ物として奇跡を使うのはその目的を誤解してのことである。

  祈りとは奇跡のなかだちをするもの。創造されたものと御創造主とが意志の疎通をするための手段といえる。祈り によって愛を受けとり、奇跡によって愛を表現する。

  奇跡は思考である。思考というものは下等または肉体的な段階での経験や、高等または霊的な段階での経験を表す ことができる。前者は物質的なものを作り、後者は霊的なものを創造する。

  奇跡は始めでありまた終りでもある、したがって、時間的な順序を変える。再生つまり生まれかわるということを 肯定するのが常であって、こうするのは後退するように思えるけれども本当は前進することだといえる。そうした奇跡は現在において過去をもとどおりにするのであり、したがって未来を解き放つことになる。

  奇跡は真理を証明する(S- 2)。確信から起こるので奇跡には説得力がある。確信なしでは、魔術になりさがってしまい、そんな魔術は心をともなわないので破壊的であり、またむしろ心の非創造的な使い方だといえる。

  一日一日を奇跡にささげるべきである。時間の目的はいかにそれを建設的に使うかをあなたが学べるようにするこ と。したがってそれは教えの手だてであり、目的を達するための手段でもある。時間は学ぶことを容易にするのに役立たなくなったとき止む。

  奇跡は教えの手だてであるが、これが実証するのは与えることは受け取るのと同じように幸せであるということ (S- 3)。与え手の力を増すと同時に、受け手にも力を供給するのである。

  奇跡はからだというものを超越する。肉体的な段階から離れて目に見えないものへと突然に移行することをいう。 それで奇跡は癒すのである。

  奇跡とは奉仕である。それもだれかのためにできる最高の奉仕。隣人を我身のごとく愛する方法といえる(S- 4)。自分自身の真価と隣人の真価とを同時に認めるということである。

  奇跡は神のうちに心を一つにする(S- 5)。奇跡が協同をあてにするというのは、神の御子としての身分は神が創造されたものすべての和ともいうものだからである。したがって奇跡は時間の法則ではなくて、永遠の法則を反映する。

  奇跡が自覚することを再びめざめさせるのだが、それはからだではなくて、霊こそ真理の祭壇だと自覚すること。 このような再認識こそが奇跡のもつ癒す力へとみちびくのである。

  奇跡は許しにともなう当然のしるしである。奇跡を通して、神の許しをほかの人たちに差し伸べることにより、自 分がその許しを受け入れることになる。

  奇跡が恐れを連想させるのは、ただ暗闇は隠れることができるという確信のためである。あなたは肉体の目で見る ことができないものは存在しないと信じている。こう信じることが霊的に見えるものを否認させるのである(S- 6)。

  奇跡は知覚をならべ直してすべての段階を真実にかなったつりあいにおく。こうすることが癒しとなる、というの は病気になるのはそのような段階を混同することによるからである。

  奇跡はあなたに病人を癒し、死人をよみがえらすことを可能にする、なぜなら自分で病気や死というものを作った ので、両方とも完全になくせるのである(S- 7)。あなたは奇跡であって、御創造主に似て創造することができる。ほかのものは何もかもことごとく自分自身の悪夢であって、存在しない。ただ光りによって創造されたものだけが実在的なものであるといえる。

  奇跡はいわば許しが連動するような鎖の部分で、それが完了されたとき贖罪となる。贖罪はいつでも、そして時間 のすべての次元において作用するのである。

  奇跡は恐れから解放された状態をあらわす。「償うこと」とは「もとどおりにすること」を意味する。3恐れをも とどおりにするということは、奇跡がもつ贖罪的価値のきわめて重要な役割である。

  奇跡は普遍的な恵みといえるものであるが、それは神から私を通じてきょうだい皆に注がれるのである。許された 者にとっては許せるということは、いわば特別な名誉だとさえ思える。

  奇跡は恐れからの解放をうけるに値するとみなす方法。啓示は恐れがすでにまったくなくなった状態をさそい出 す。したがって奇跡は手段であり啓示は結果である。

  奇跡はあなたを通じて神を賛美する。神が創造なさったものに対して敬意をはらい、またその完全さを肯定することによって神をたたえる。からだと同一ではないと否定し、霊と同一であることを肯定するがゆえに癒すのである。

  霊を認めることによって、奇跡は知覚の段階を調整し、ふさわしい配列にしなおしてみせる。こうすることが霊を 中心におくことになり、そこではじかに意志の疎通をすることができる。

  奇跡は畏敬の念ではなくて、感謝の気持ちを起こさせるはずだ。あなたは自分が本当に何であるかを神に感謝するべきである。神の子供たちは神聖であって、奇跡はその神聖さを尊ぶのであるが、そうした神聖さは隠されることはあれども決して失われるものではない。

  私が励まして奇跡をみなおこさせるのだが、そうした奇跡は実際には人のために祈って取りなすということ。あな たの神聖さのために取りなしたうえで知覚を神聖なものとするのである。あなたを物質的な法則を越えたところにおき、天界という階級の域へと引き上げる。この階級のうちでこそあなたは完全なものとなるのである。

  あなたの愛らしさのゆえに奇跡はあなたを尊ぶ。そうした奇跡はあなた自身についての錯覚をぬぐい去ったうえで 内なる光というものを知覚する。したがって悪夢からあなたを自由にし、そうした誤りを償うのである。いわば心を錯覚という監禁状態から解放することによって、奇跡はあなたに正気をとりもどさせる。

  奇跡は心をそれが満たされたすがたへともどす。不足しているのを償うことによって申し分のない擁護をたしかな ものともする。霊の力は侵入しようとするものに、その余地を残さないのである。

  奇跡は愛の表現である、しかし必ずしも目に見える結果を伴うとは限らない。

  奇跡は正しい考え方の実例で、あなたが知覚することを神が創造されたままの真理と同調させる。

  奇跡は間違った考え方に対して私が採り入れた訂正ともいうもの。それは触媒のはたらきをつとめ、まず誤った知 覚をばらばらにしたうえで、再びまとめて適切なものにしあげる。こうすることがあなたを贖罪の原理のもとにおき、そこで知覚は癒されることになる。これが起こるまでは、神が授けられた御階級について認識するのは不可能である。

  聖霊は奇跡が起こるために必要な心理過程とでもいえるものである。神が創造なさったものとあなたの錯覚とを両 方とも見分ける。真実のものを間違ったものから分離させるが、選択的にというよりむしろ全体的に知覚する能力によって分けるのである。

  奇跡は誤りをないものとする、なぜなら聖霊は誤りを間違い、または本当でないと見なすのであるから。これは光 を知覚することによって暗闇が自動的に消滅するのと同じである。

  奇跡はすべての人があなたのきょうだいであり、また私のきょうだいであると承認する。神の普遍的な印というも のを知覚する方法だといえる。

  完全であるすがたこそ奇跡が知覚する内容である。したがって奇跡は欠けていると間違って知覚することを訂正し たり、または償ったりするのである。

  奇跡が主に貢献できるのは、奇跡にある力そのものであるが、それはあなたを孤立感や喪失感や欠乏感のような間 違った思いから解放する力のことである。

  奇跡が生じるのは奇跡的な心の状態、または奇跡への心構えを持った状態においてである。

  奇跡が表現するのはキリストを内心自覚していることや、キリストの贖罪を受け入れるということである。

  奇跡は決して失われることはない。2会ったこともない多くの人々に影響を及ぼしたり、自分で気づいてもいない 状況において、夢にも思わない変化をうみだしたりする可能性などはある。

  聖霊が最高の意志の疎通をするためのなかだちである。奇跡はこのような意志の疎通を含まない、それは一時的な 意志の疎通の手だてであるから。あなたが最初にそうであったように、じかに受ける啓示によって神と意志の疎通をおこなう形態へもどれば、奇跡の必要はなくなるのである。

  奇跡は時間の必要性を少なくするための学びの手だてといえる。普通の時間についての法則には従わないで、型に はまらない時間的隔たりを確立する。この意味において奇跡は時間に限定されないものである。

  奇跡は時間を制御するために、いますぐあなたの意のままになるただ一つの手だてといえる。2ただ啓示だけが時 間とはまったく関係ないので時間を超越するのである。

  奇跡は誤った知覚をその度合いによって区別などしない。2知覚を訂正するための手だてとして、そうした誤り自 体の度合または傾向のどちらにもまったく関係なく効果的である。3奇跡のもつ真の無差別性とはこのこと。

  奇跡はあなたが作ったものを創造と比べて、それと一致するものは真実として受け入れ、一致しないものは間違い だとして拒絶するのである。