『舌先の格闘技』『中島らものたまらん人々』中島らも 2017.4.13再読 | 前山和繁Blog

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このごろ、過去に書いた記事の誤っている箇所が気になり始めてきた、直したい箇所もいくつかあるが、なかなかできないでいる。

英語学習の記事も時折書くことにした。

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『舌先の格闘技』『中島らものたまらん人々』中島らも 2017.4.13再読

1987年放送開始以降、2017年現在まで続いている「朝まで生テレビ!」という番組がある。はじめに断っておくと、私は、昔何度か「朝まで生テレビ!」を見ていたことがあったが、ずいぶん長い間TVを見ておらず当然のことながら「朝まで生テレビ!」も長い間見ていない。しかし最近の「朝まで生テレビ!」も昔と放送内容の骨格が変わっていないだろうという前提で考えることにする。

私は、なぜ放送開始以降30年以上も「朝まで生テレビ!」が続いているのか疑問に思ったが、田原総一朗(82歳)が長生きだからいまだに「朝まで生テレビ!」が続いているという結論を出した。なぜこの結論を出すに至ったかについては、つづめて言うと田原総一朗は「朝まで生テレビ!」をあくまでも娯楽番組であり、そしてスポンサー以外にも番組に出演する文化人や国会議員等の宣伝の場だということを良く理解して司会をしているのである。つまり田原総一朗は「朝まで生テレビ」をディベート番組ではないと良くわきまえているのである。

田原総一朗は深夜から朝方にかけての時間帯に起きて、場合によってはアルコールも入っているであろう視聴者にルールに則ったディベートなど見せようと意図しても全く意味がないと了解しているのだろう。あくまでも「朝まで生テレビ!」は娯楽番組であり、視聴者がチャンネルを変えたり眠ってしまったりしないように時折、視聴者に関心を抱かせるように発言したり、あるいはそういった発言をしてくれそうな出演者に発言を促したりするのである。

以上のように考えると「朝まで生テレビ!」は出演者同士が勝ち負けを競って討論しあう番組ではなく、あくまでもが楽番組であることが分かる。もちろんそんなことはTVを見ている人であれば全員知っているだろう。はじめから「朝まで生テレビ!」には、こんなルールで討論してくださいなどという出演者への断りなど全くないのである。そして、視聴者が眠りこけてしまわないように眠気覚ましになりそうな発言をする人に時折、騒々しい発言をさせるように促すのだろう。

そういった視聴率を気にしながら「朝まで生テレビ!」の司会の出来る人は田原総一朗ぐらいしかいないのだろう。田原総一朗がいなくなったら「朝まで生テレビ!」の視聴率は低迷するだろう。(「朝まで生テレビ!」の視聴率が低迷したとして、それがどうしたというものでしかないが)

中島らもは、日本人同士で言い合いになったら声の大きい奴が勝つ、ということを書いていたが、「朝まで生テレビ!」においては声の大きい出演者がいるから視聴者への眠気覚ましになるということが言えるはずである。私には「朝まで生テレビ!」を夜通し見ることに何の意味があるのか分からないがそんなことが頭に浮かんでしまった。

『中島らものたまらん人々』には知識人の公開討論の無意味さを「物知りのいばりんぼ」と簡潔に言い表されている。TVであれ、その他の媒体であれ受け手が望んでいるのは物知りの知識のひけらかしではない。それが分からない文化人は「なんなんやあいつは」といわれてしまうのが落ちなのである。ルールが明示されていなくとも表現は受け手のためにあるというごく簡単なからくりが飲み込めていないとしたら、その人はたとえどれだけ知識があろうが賢い人間ではない。たまらん人々なのである。

中島らもは、政治と宗教にラリッている奴ほどたちが悪いというような意味合いのことを書いていた。昔からどこの世界であれ政治と宗教というものは簡単に切り離せない要素である。政治と宗教に関係する言い争いは場合によっては深刻な社会現象を引き起こすのである。政治と宗教に入れ込んでいると、始末に負えない人間になってしまう可能性がある。

だから「朝まで生テレビ!」の視聴者層は政治と宗教に入れ込んでいるほどの人々ではないのだろうから、人畜無害なのだろう。


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