前山和繁Blog

てきとうな読書記録その他。勝手にどうぞ。引用などは作法を守っているのであれば、ご自由にどうぞ。

このごろ、過去に書いた記事の誤っている箇所が気になり始めてきた、直したい箇所もいくつかあるが、なかなかできないでいる。

このブログは読書感想文及び埋め草によって構成されています。

ところどころに間違っている箇所があります。間違いについてはなるべく直したいとは思っていますが、このブログ内のすべての間違いを修正することは無理ですのであらかじめご了承ください。

てきとうに読んでください。

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文字論/三省堂

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『文字論』は言語学者、河野六郎(1912-1998年)による文字に関する仮説とハングルの研究が書かれている書物である。

私はこの『文字論』を何年か前に読んだが、ようやく記事にすることができた。私はこの『文字論』という書物のいくつかの部分に強い引っかかりがあり、記事を書くのが難しかったが、私が引っかかったことをすべて考えたりせずに、とりあえず思いついたことのみを、手短に公表することにした。

河野六郎は、この『文字論』で表意文字、表音文字という文字の分類法を否定し、言語の一語を一文字で表記可能な表語文字、一音節を一文字で表記可能な音節文字、一音を一文字以上で表記可能な単音文字(音素文字)という分類方法を提唱している。

つまり漢字は一文字で一語を表記可能だから表語文字、かな文字は一文字で一音節を表記可能だから音節文字、ラテンアルファベット(ローマ字)は一文字以上で一音を表記可能だから単音文字(音素文字)ということになる。河野六郎は音節(シラブル)を拍(モーラ)と解釈しているようで言語学の単位の使用があやふやだが、それはごく些細なことである。

河野六郎による表語文字、音節文字、単音文字(音素文字)という分類法は、おそらく有用であろう。しかし、私は表意文字と表音文字という分類法も有効な場面もあるのだろうから捨て去る必要はないという感想を持った。

日本語の表記に用いるかな文字は、漢字という表意文字から視覚的イメージを喚起させる部分を抜き去って日本語を発音するさいの聴覚的イメージを抽象的に表現した表音文字である。いわば、かな文字は表意文字の漢字とは異質な機能をする表音文字であり、いわば和製簡体字でもある。といった説明も成り立つであろうから表意文字、表音文字という分類方法も捨て去る必要はないだろう。

ただそれでも河野六郎による表語文字、音節文字、単音文字という分類も成り立っているのは確かだから場面に応じた使い分けができる必要があるということだろう。

私は何年か前に韓国がハングルと漢字の併用を廃止しハングルのみの文書を常用するようになったのが原因で韓国で知的荒廃が起きているといった言説を見たことがあり、そのときに非常に強い引っかかりを覚えていた。しかし私は朝鮮/韓国語が全くできないのでどう考えたらいいのかよくわからなかった。そして現在も私は朝鮮/韓国語は全くできないが、それでも分かったことがあり、私なりに朝鮮/韓国語と漢字の併用は本来無理のあることだったという解釈をするに至った。

日本語の音素は母音5プラス子音15で合計20。それに対して朝鮮/韓国語の音素は母音が短母音10プラス子音が19だという。短母音があるということは長母音もあるのだろうが私には朝鮮/韓国語の母音の総数はよくわからない。しかし、それでも日本語よりも朝鮮/韓国語の方が音素の数が一段多いのは確実である。

私は音素が少ない言語ほど文字を使用し始めるのが早い傾向があり、音素の多い言語ほど文字を使用し始めるのが遅い傾向があると思っている。しかし中国の諸言語の方が朝鮮語より音素が多いのは確かだし、当然のことながら日本語よりも中国の諸言語の方が音素が多いのに中国の方が文字の発明が古いのである。
それでも私は音素の少ない言語を使用している社会ほど文字の使用が早くなる傾向があると解釈している。古代メソポタミアで使用されていたシュメール語も音素が少ないし、マヤ人が使用していたマヤ語も音素が少ない。ヘブライ語やラテン語もやはり音素が少ない。
私は音素の少ない言語の話者は聴覚から入ってくるイメージの乏しさを埋め合わせるために、文字を使用し始める時期が、音素が多い言語を使用している社会よりも早くならざるを得ないのではないかと解釈している。音素が多い言語を使用している社会は言語の使用の際に聴覚から入ってくるイメージが豊かであるがゆえに、わざわざ文字を使用する必要性を感じられなかった期間が長かったのではないか。
人間というものは欠乏感を感じない限り不必要なことを学ぶのに熱心になれないのである。

それから文字の発明の時期と、その後、官僚制度等を成立させるに十分な規模のまとまった識字者が出現するまでの期間というのは、やや違った事項である。しかし、その問題についてはこの記事内で説明できないのでこれ以上触れない。

日本は一たび文字(漢字)の使用が開始されてから10世紀ごろにかな文字で書かれた『古今和歌集』の出現を経て、後にまとまった数の識字者が社会に出現するまでの期間がさほど長くなかったといえるだろう。日本語は音素の少ない言語であるがゆえに紙や印刷技術の普及とともに視覚的イメージに作用する文字の使用が急速に吸収されたのは必然だったのであろう。江戸時代以前には統計的に有意な識字率を算出することはできないようである。しかし松尾芭蕉が俳句の通信教育の講師のような商売をしていたという史実もあり、あるいは江戸時代には戯作も多く書かれてもいた。貸本屋も商業として成り立つほどの需要があった。それから誰もが知っているように寺子屋も普及していた。それらの要素を考えると江戸時代の頃には江戸等の都市部においては識字者の数はかなり多くいたと解釈していいだろう。その一方で、農村部においてはめくら帳を用いて農民が納めるべき租税を表わしたりもしていたのであり沖縄北海道を除いた日本列島内で識字率を算出することは難しいのだろう。
ただ、それでも日本が明治以後、急速に近代化を成し遂げることができたのは日本語という音素の少ない言語の特性が、すべての日本人が使用すべき標準語の書き言葉の急速な普及の後押しをしたのは確かであろう。つまり日本人が特に優れた民族だったからではなく、日本語は音素が少ない言語であるがゆえに、日本の識字率が、ほかのアジア諸国よりも一足早く高くなるのが必然だったのであろう。

そして韓国語ハングルと漢字の併用を廃止しハングルのみの文書が採用されている話題の戻ると、そもそも朝鮮語を表記するための文字であるハングルはモンゴル語のパスパ文字が、その起源であり中国由来の漢字とは文字の系統が全く異なっているのであり、朝鮮/韓国語の表記の際にハングルと漢字を併用するのは別系統の文字を混在させることになり、本来、非常に相性の悪いことだったのであり、漢字を廃止し朝鮮/韓国語の表記をハングルのみにしたというのは朝鮮/韓国語の使用の在り方としては、それこそが理想的な状態なのだろう。

異系の文字を、漢字のように装うもう一つの例が、もとのパスパ文字にもみられる。パスパ文字は、チベット文字の方形化にすぎず、したがって一種のアルファベットである。その精神は、おそらく契丹小字の場合とおなじであろう。
漢字の形になぞらえながら、まったく新しい文字をつくった例は、なお、朝鮮のハングルについてもいえる。ハングルは漢字とアルファベットの二つを源に発している。漢字は、この場合、表意性をすて、表音的な枠として音節単位の原理提供し、アルファベットは、その音節単位の枠をみたす要素文字として、単音文字の原理を提供した。ここでは、もはや、漢字は単位としての塊の形を提供しているにすぎない。要素の集合で一つの単位を形成するというしかたは、契丹小字の流儀である。契丹小字では、単位のかたまりは、音節ではなくて、語または語複合体であった。そのかぎりでは契丹小字は表意性を保っていた。ハングルになると、もうレベルが変わってくる。それは表意性をはなれた、表音的な単位に変わっている。その直接の先駆者はパスパ文字である。漢字について、あれほど苦労し、また漢字・漢文の文化に、あれほどあこがれの念をいだいた朝鮮の人びとが、これほど想いきった新しい文字をつくりだしたのは、まことにおどろくべきことであるが、それはそれとして、ハングル形成の背後に、契丹文字が間接に働いていたということは、いままであまり気づかれなかっただけに、興味のある事実である(このあたりは西田龍雄氏の説に負うところが多い)。(118頁)

漢字が使えた方が、視覚的に意味が取りやすいのだから便利なはずだといった発想は、音素の少ない言語を使用している日本人に特有の先入観である。やや上の方でも説明した通り日本語のかな文字は、いわば和製簡体字であり、一種の漢字とも解釈できるはずである。つまり日本人は日本語を表記する際に漢字しか使用していないとも解釈できるのである。しかしハングルと漢字は、それぞれ別系統の文字であるのだから朝鮮/韓国語を表記する際にハングルと漢字を併用するのは非効率的なのだろう。朝鮮/韓国語は日本語よりも音素が多いのだから朝鮮/韓国語の話者は主に聴覚的なイメージを頼りに朝鮮/韓国語を認識しているはずであり、日本語話者ほどに視覚的イメージに頼らずとも言語使用が問題なくできるのであろう。以上を考えて、私は漢字を廃止した韓国で知的荒廃が起きているという主張は誤りだと結論するに至ったのである。

10世紀に日本でかな文字が発明され15世紀に朝鮮でハングルが発明された。かな文字の発明よりもハングルの発明の方が後に起きていたのは日本語と朝鮮語の音素の数の差の反映ではないか。それは先進的、後進的という概念を用いて捉えるべき事柄ではない。
もちろん中国の漢字の原型である甲骨文字やモンゴルのパスパ文字はそれらに先行して発明されている。中国は昔から多言語社会でありそれを考慮すると中国社会内における文字の在り方を考えるのは難しい。ただ、その社会で使用されている言語と相性の良い文字の伝達という、きっかけがあった後にその社会の多くの人々が文字を使用し始めるまでの期間は音素の数が影響しているのではないか。私はそんなふうに考えている。
日本にもかつてサンスクリットの経典が持ち込まれていたが日本語の表記にサンスクリットが用いられることはなかったといっていいだろう。つまり日本語の表記にはサンスクリットは相性が悪かったのである。

文字を使用できるのは、よきことであり先進的、あるいは文明的であるといった発想は、音素の多い言語の話者に特有の発想ではないか、私はそんな感想も持っている。

河野六郎は

文字とは視覚形象による言語である。本来聴覚に訴える音声から形成された言語を視覚に定着させたものである。そこには感覚のギャップがある。そのギャップの橋渡しは一寸想像されるように容易な業ではなかった。言語の文字化は徐々に、いくつかの段階を経て完成していった。その過程の中で最も注目すべきは表音という方法の発明である。そしてその表音のほぼ完成した段階が今日のアルファベットである。アルファベットは、単位文字が音を表わす表音文字の一種であって、日本の仮名のように音節を単位とする音節文字とは異なり、原則として一字が一音素を示す単音文字である。従ってその文字の数は概して少数であって、その組み合わせによって可能な無数の語を表示し得る、効率のいい文字である。そのため今日、世界中で最も広く用いられているのである。恐らく、将来、世界の文字はアルファベットに統一されるであろう。(124頁)

と主張しているが、以上の発想は私には音素の多い言語の話者の発想のように強く感じられた。

河野六郎の文体は私からすれば異質な雰囲気を強く感じ取れる文体であった。河野六郎の『文字論』を読んで言語学者は語学習得に長けている、ということをも実感できた。

私は、言語学にしか興味がないという意識が強くなってきている。私はこれまで様々な本を読んできたつもりだが、それは多様な言語表現に触れたいがためである。私の興味は言語表現そのものにあり、その問題をできるだけ正確に捉えるためには言語学の理解を一段深める必要があるのだろうといった意識も強くなった。

哲学は何らかの物事を説明する学問であり、言語の仕組みそのものは哲学の主要な観察対象にはならない。そして哲学は論理学を含む数学と一体的に捉えなければ理解がおぼつかない分野である。それに対して言語学は数学との直接的な関連性はない。言語学でも何らかの統計的手法を用いるべき場面はあるだろうが、それはどの分野でも同様であるので除外すると、やはり言語学そのものには数学との関連性がない。そして言語学は失語症の人々と医学的に正常の範囲内にある人々との言語活動の共通部分と違っている部分も研究対象になるのである。そう考えると言語学には医学との関連性もあるといえる。ロシア出身の言語学者ロマン・ヤコブソン(1896-1982)も失語症の研究をしていた。哲学と言語学は共に言葉を扱う分野でありながら共通性があるようでいて、さほどない分野なのである。私は昔、ウィトゲンシュタインの著作も読んでいたが結局、ウィトゲンシュタインの興味は私の興味とかけ離れていると感じ、読まなくなってしまった。

私は、言語学を学ぶことにどういった意味があるのか考えたことがある。おそらく、ほぼすべての日本語を母語とする日本語話者は、日本語を母語としない日本語話者の日本語を識別できる。それは理屈ではなく実感として伝わってくるはずなのである。日本語の各方言のアクセントの出方がどの日本語の方言とも異なるようなアクセントの日本語を使用している日本語話者の日本語の使用を聞いたときに、日本語を母語とする日本語話者は、その異質な日本語の異質さを感じはすれども、なぜ異質に感じられるのかの説明は容易にできないであろう。それに日本語を母語とする日本語話者が全員、日本語の多くの方言を知り尽くしているわけでもない。にもかかわらず日本語を母語とする日本語話者は、日本語を母語としない日本語話者の日本語の異質さを感じ取れるのである。たとえ医師であろうが政治家であろうがどれだけ高学歴であろうが日本語を母語としない人間の日本語は日本語を母語とする10歳前後かそれ以下の子どもに異質に感じられるのである。それは確実に言えることである。言語学という分野は、異質に感じ取れるように言語を使用してしまう話者の母語を推測する時に、ある程度機能するであろうが、果たしてそんなことにどれだけ意味があるのかというと、自信をもって意味があるとはいえない気はする。

今後、どの程度の頻度で言語学関連の記事を書けるかどうかは分からないが、やはりどうしても私の興味は言語学にある。それ以外は、おまけ的な興味しかない。

今回の記事はあやふやな部分もあるが今後の記事で音素と文字の使用の関係の問題について、もう少しくわしく書きたいという意志はある。


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消費税は下げられる! 借金1000兆円の大嘘を暴く (角川新書)/KADOKAWA

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『消費税は下げられる!』森永卓郎(もりながたくろう)

書名の通り日本の消費税は下げられるという主張である。森永卓郎は日本政府の債務は財政破綻をもたらすような水準にないということをデータを用いて繰り返し説いている。

ただ、私としては物価水準と失業率(雇用)及び賃金との相関性の説明についてはきちんとした説明がなかったのが気になった。一般向けの新書としては、その部分の説明がされていないとなぜ消費税率は引き下げることができるのかについて、一般の読者にやや伝わりにくいかもしれない。

1997年の消費税率3%から5%への引き上げ以降のデフレーションの発生とそれに伴う失業率の増加及び賃金の伸びが抑制的になってしまったことについては日本国民の大部分が実感しているであろう。しかし経済に詳しい有名人である森永卓郎が、物価と失業率及び賃金の相関性について、わかりやすく説明すれば、読者の多くはデフレ下における消費税率引き上げを含む増税(負担増)の弊害について誤解をしないようになり、これ以上、現安倍政権が増税(負担増)路線を継続するのは日本経済にとって非常に良くないという批判意識を誤解なく持てるようになったのではないか。そう考えると私は、やや惜しい内容だという感想を持った。

繰り返しになるが、1997年4月に橋本龍太郎内閣の時に消費税率が3%から5%に引き上げられたのをきっかけに日本は高率の失業を伴うデフレに陥り2017年、現在に至るまでいまだにデフレが継続している。その97年の消費税率引き上げの際には、経済学者加藤寛の高齢社会の社会保障財源確保のために税制の直間比率の是正が必要という考え方を、当時の大蔵省の官僚が財政危機を防ぐために消費税率引き上げが必要という物語にすり替えてしまったという経緯があるという。

加藤教授は、ミスター税調と呼ばれるほど圧倒的な影響力を持ち、消費税率を引き上げ禎かなくればならないと言い続けた。その目的は、直間比率の是正だった。所得税や法人税といった直接税は、景気に応じて大きく変動してしまう。一方、消費税のような間接税は、安定した税収が得られる。高齢社会の厖大な社会保障財源を賄うためには、日本以外の先進国並みに間接税の比率を高めていかなければならないというのが、加藤教授の持論だった。
ところが、その加藤教授が、政府税制調査会の会長を退任する際の最後の答申で、持論である直間比率の是正をもう一度主張して花道を去ろうとしたら、大蔵省(当時)の官僚に制止されたそうだ、大蔵官僚とは、それまで手を携えて直間比率の是正を掲げてきただけに、不審に思った加藤教授が問いただすと、大蔵官僚は「直間比率の是正ではなく、財政危機を乗り切るためには消費税率引き上げが必要と言ってください」と話したという。おそらく、これが、いまの財政危機キャンペーンの源流だったのだと考えられる。(84-85頁)

旧大蔵官僚にしても現財務省官僚にしても、財政危機を防ぐためという間違った物語を国民に向けて掲げ消費税増税を含む負担増を主張しているのである。日本が財政危機にありいつ破綻してもおかしくないという主張は間違った物語なのである。しかし、その間違った物語は私の知る範囲では團伊玖磨(1924-2001年)が池田勇人内閣(1960-1964年)の経済政策を酷評していた頃から日本に根付いて今日まで続いて来たと言えるかもしれない。團伊玖磨が財政破綻を主張していたかどうかまでは面倒で確認できないが、経済を成長させる政策を否定的に捉える文化人を支持する国民は昔から根強く存在していた。

かつて團伊玖磨は北朝鮮をほめそやすような文章を書いていた。冷戦終結後かあるいはそれより少し前ごろかどうか私にはよくわからないが、かつて日本には北朝鮮をほめそやす記事を有難がって支持する層がいたのである。しかし、北朝鮮をほめそやす物語は東西冷戦の終結とともに完全に消え去った。北朝鮮を持ち上げるような物語は旧ソ連の崩壊とともに現実味を失い物語としての力を失ったのである。それは同じく冷戦の終結とともに核戦争をイメージさせるノストラダムスの大予言の物語が現実味を失ったことといくらか似ているだろう。

しかし日本の政府債務の膨張による財政破綻物語、ハイパーインフレ物語についてはいまだに根強く残っているといえるかもしれない。ハイパーインフレについては2013年の日銀による異次元金融緩和の開始から5年弱が経過し、日本がハイパーインフレに陥るなどという物語を真に受ける人々は減ったであろうが、完全に消え去ったともいいがたい。

どういうふうに物価と失業及び賃金というマクロ経済学の原理を広く国民に共有させるために情報発信すればハイパーインフレ物語を消し去れるのかというのが課題なのだろう。

政治家にまつわる物語は多く有るだろうが、かつては小沢一郎にまつわる物語には現実味があった。しかし2017年12月現在、小沢一郎にまつわる物語は現実味を喪失したも同然だろう。

そして政治思想も物語である。共産党や公明党の支持者が信じている物語は大部分の人間には受け入れがたい現実味のない物語だが、ネオコンサバティズム及びリバタリアニズムという思想に帰依している人間にとってはネオコンサバティズム及びリバタリアニズムという物語こそが現実味のある物語なのである。大抵の人々にはネオコンサバティズム、リバタリアニズムなどという思想には意識は向かないだろうが、その思想を信じ込んでいる人々には棄教しがたい思想なのである。ネオコンサバティズム及びリバタリアニズム思想の最重要の部分は再分配の拒否である。それはミルトン・フリードマンの小さい政府が望ましいという政府嫌いの思想を思い起こすだけで理解できるだろう。小さい政府が望ましいということは税による再分配を拒否したいという思想の現れなのである。

ネオコンサバティズム及びリバタリアニズム思想は政府による再分配を快く思わない富裕層の人々の帰依する物語なのである。英国のデイビッド・キャメロンは首相在任中にパナマ文書でタックスヘイブンの利用が明るみに出されたがキャメロンはネオコンサバティズム思想の持ち主であり、だから自分が支払うべき税を再分配のために支払うことを快く思わずタックスヘイブンを利用していたのだろう。そういったからくりについても広く共有させた方が国民の経済政策への理解が深まるのだから望ましいだろう。富裕層でない大部分の国民にはネオコンサバティズム、リバタリアニズムに適合した法人税減税、消費税増税といった経済政策を受け入れる必要などないのである。

純粋に抽象的に考えるのであれば、宗教法人の関係者や、やくざからも消費の際に負担が発生する消費税には公平な税だということは言えなくもない。しかし実際の消費税の運用にはあやふやな部分があり、現状は再分配が機能しているとはとてもいえない。そう考えると現状での消費税増税はすべきではないという結論になる。税負担の直間比率がどうあるべきかを真面目に考えたところで、結局は財務省によって、デフレ下での緊縮財政の実施に、消費税増税が利用されてしまう可能性が高いのである。

森永卓郎は『消費税は下げられる!』で資料を挙げながら日本の財政は極めて健全であり財政破綻が起きるような水準の債務は存在していないと主張している。

『消費税は下げられる!』には連結財務書類のデータが掲載されている。『消費税は下げられる!』(2017年3月初版)に掲載されているのは森永卓郎の執筆時点でのデータだが、この記事には最新のデータの数字を転記する。

国の財務書類

平成27年度連結財務書類には平成28年3月31日の日本政府の負債は1,423兆859,6億円。資産は958兆,933,3億円。負債から資産を引くと464,9兆26,30億円の負債になる。そして日銀は現在、400兆円を超える日本国債を保有しているのだから、日本の負債は、ほぼ返済し終わってしまったも同然なのである。つまり日本の財政は破綻寸前だという主張は全くの嘘なのである。

連結財務書類の数字は元大蔵省の官僚で経済学者の高橋洋一が、大蔵省に勤めていた時に作成し始めたのだという。役人は税例を踏襲するから現在に至るまで高橋洋一の作成した統計が遺産として引き継がれているという。

実質的に日本政府の債務はもはや問題になる水準にない。日本経済のインフレ発生時の増税その他、引き締め手段は多様であり日本の財政は健全であり破綻寸前でなどあり得ない。経済学者や経済に詳しい文化人が連結財務書類の数字をメディアを通じて様々な場面で国会議員及び国民に見せるようにすれば日本の財政破綻物語を完全に除去できるかもしれない。

日銀が実施している国債の買いオペは日銀が市場から国債を買い取り、市場に現金を渡す、国債の代わりに現金を受け取った企業は現金を寝かせておくわけにもいかないから実物資産の株を買う。そうすればお金からモノ(株)への資金の移動が生じ物価上昇が起きるだろうという見通しのもと実行されていた。しかしお金からモノへの流れをつくったところでマクロ的な経済の総量にはさほど影響せず、5年弱アベノミクス。異次元緩和を継続しても物価が顕著に上昇することはなかった。やはりどうしても減税を含む財政政策の実施がデフレ脱却には不可欠なのである。そして日銀によるETF(株と同じ実物資産)の買いオペは実質的に財政政策であり現在日銀は6兆円分の減税を政府に代わって実施していることになる。

自国通貨を持つ国であれば財政政策つまり赤字国債の増発を物価上昇を引き起こすまで発行することは可能であり財政破綻も起こりえないというのはポール・クルーグマンも『End This Depression Now!』で説明している。

森永卓郎は

金融政策によって為替レートは操作できるということになる。ただし、日本はアメリカの属国だから、アメリカのお許しがないと金融緩和ができない。金融政策は、日銀の自由だろうと思われるかもしれない。しかし、民主党政権の末期に超円高が日本経済を襲った時、私は民主党政権の幹部に、「いますぐ大規模金融緩和をしないと日本経済が危ない」と進言したのだが、その幹部は私にこう言った。「金融緩和なんて、アメリカが認めるはずがないだろう」。
安倍政権は、アメリカに無断で金融緩和を行ったのではない。おそらく水面下でアメリカの許可をとったのだろう。安倍政権は、TPPへの参加や原発の再稼働、集団的自衛権行使、辺野古での新しい米軍基地蛍雪など、さまざまなアメリカへの貢ぎ物を積み重ねて、それと引き換えにアメリカに金融緩和を認めてもらった。それがアベノミクスの本質なのだ。
しかしトランプ大統領は、これまでに止めてきた金融緩和を非難している。だからこれ以上の追加金融緩和を日銀が行うことを認めないだろう。その結果、何が起きるのか。(166-167頁)

日本の金融緩和は米国の許可がなければできないと観察している。日本のマクロ経済政策は財務省とアメリカという二つの障壁に影響されている。かつての米国は1981年から85年のプラザ合意の頃までレーガノミクスを実施していた。レーガノミクスは金融引き締めと財政拡張という不自然な経済政策だった。ただ金融引き締めの影響によるドル高のおかげで原油価格が低く維持され産油国のソ連経済が立ち行かなくなり崩壊という結末を導いた。それに対して2013年4月の日銀の異次元緩和から実質的に開始されたアベノミクスは金融緩和で緊縮財政路線だった。これでは顕著な物価上昇も賃金上昇もない。日本がいまだにデフレを脱却できないのは教科書通りに金融緩和+財政拡張という政策が実行できていないがゆえである。

それから物価目標は連続性で評価できるようにすべきである。そして、できれば物価目標は年4%にすべきである。2年連続で年4%の物価目標に到達できなかったとしたら増税を含む緊縮をしないという取り決めをすべきである。そうすれば日本経済は完全な回復をみせ雇用は完全雇用の状態になり賃金も顕著に上昇するだろう。そのためにも消費税は(最低でも5%できれば3%まで)引き下げるべきである。


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音声学・音韻論 (日英語対照による英語学演習シリーズ)/くろしお出版

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Bicycle Repairman - Monty Python's The Flying Circus



It was a very hot and sunny day after the daytime in early June. I was driving a road with little traffic. Suddenly, I noticed something was piled up in the middle of the road and stopped the car in the middle of the road.

6月上旬の昼間過ぎ、晴れた非常に暑い日だった。私は交通量の少ない道路を運転していた。突然、私は道の真ん中に何かが積み上げられているのに気づき車道の真ん中に自動車を止めた。



I get off the car from the roadway and see what is being piled up. A flat square cushion was piled up like a pagoda in the middle of the roadway.
I was stunned and I was staring at that square for a while and looking at a square cushion flat.

自動車から車道に降りて、その積み上げられているものを見る。車道の真ん中に平べったく四角いクッションが仏塔のように重ねて積み上げられていた。
私は茫然とし、しばらくその場でその積み上げられた平べったく四角いクッションを見つめていた。


How long has passed, someone's car stopped behind my car and the man got out.

どれくらい時間が経過しただろうか、私の自動車の後ろで誰かの自動車が停車し男が降車した。

The man told me "Why are you stopping the car in the middle of the roadway?"
I pointed to the stacked flat square cushion and pointed to the man. "It's because of that"
The man told me "What is that?"

その男は私に言った「なぜ、車道の真ん中に自動車を止めているんだ」
私は積み上げられた平べったい四角いクッションに指差しながらその男に言った。「あれのせいです」
男は私に言った「何だあれは」




I said to the man. "Perhaps these are zabutons, I got an anthropology degree in college, I have interviewed an old man of indigenous people.I heard a legend from an indigenous old man at that time.Zabuton When they are piled up, Yamada will appear there and move those zabutons somewhere. "

私はその男に言った。「多分これらは、zabutonです。私は大学で人類学の学位を取りました。先住民の老人にインタビューをしたこともあります。私はその時に先住民の老人から、ひとつの伝説を聞きました。zabutonが積み上げられたとき。Yamadaがそこに出現し、それらのzabutonをどこかに移動させる。」

That guy told me. "Do not worry about such an unknown legend, please depart your car, you can leave it ignored and you can leave the stacked cushions wide The width of this road is wide."

その男が私に言った。「そんな意味不明な伝説など気にしないで、あなたの自動車を発車してください。積み上げられたクッションは無視して発車できます。この道の幅は広いです」


I said to the man. "What you are saying is right, but I seem to have been affected by the zabuton's spell, I can not move from here, I feel that the stacked zabutons grew enormously big . "
That guy told me. "It looks like I am starting to get big."

私はその男に言った。「あなたの言っていることは正しいです。しかし私は、zabuton の呪力にかかってしまったようで、ここから動けそうにありません。私は積み上げられたzabutonがとてつもなく大きくなったように感じられています。」
その男が私に言った。「私にも、それが大きくなり始めているように見える。」

I said to the man. "This is the curse from zabuton, the illusion that its zabuton got bigger."

私はその男に言った。「これが、zabutonからの呪力です。そのzabutonが大きくなったように錯覚するのです。」

I was standing on the road for a while with the man.

私はその男としばらく道路に立ち途方に暮れていた。


When I looked back at the back, I noticed that many cars stopped at the roadway and could not move. Many cars were stopped behind my car and another man's car. But there was no indication that the car would run from the opposite lane.

私は後ろを振り返ってみると、何台もの自動車が車道に止まって動けなくなっているのに気がついた。私の自動車ともう一人の男の自動車の後ろで、多くの自動車が止まってしまっていた。しかし対向車線からは自動車が走ってくる気配はなかった。


This roadway usually has a small traffic volume, but now a lot of cars are coming.

この車道は普段、交通量が少ないはずなのに、今はたくさんの自動車がやってきていた。

The men came down from many of the cars that stopped and approached me.
The men said to me, "Why are you stopping?"
I thought that the problem would be solved if Yamada appeared.
An eagle was flying over the sky. All the men on the road saw the eagle.

それら停車した数多くの自動車から男たちが下りて私に近づいて来た。
その男たちは「なぜ停車しているのか。」と不満を私に言った。
私はYamadaが出現すれば問題が解決すると思った。
鷲が一羽、上空を飛んでいた。道路にいた男たち全員が、その鷲を見た。


I gazed back to the zabutons stacked on the road. At that time, a man wearing a kimono appeared from nowhere, lifted all the stacked zabutons with both arms and moved it somewhere. It's Yamada. Immediately, the figure of the man wearing the kimono disappeared.

私は、道路に積み上げられているzabutonsに視線を戻した。その時、着物を着た男がどこからともなく現れて、積み上げられているzabutonsを両腕ですべて持ち上げどこかに移動させていった。Yamadaだ。すぐに、その着物を着た男の姿は見えなくなった。

I got on my car and started driving again.

私は、自分の自動車に乗車し、運転を再び始めた。

The legend was true.

伝説は本当だった。

*

私は去年くらいから英語という音素の多い言語を自分なりに捉えたくなり少し英語の勉強をしている。
私は日本語の音素を20とする仮説を採用しているが、人によっては23と解釈する人もいる。きゃ、きゅ、きょ、の発音に含まれる音を音素と解釈するかしないかで日本語の音素が20か23か解釈が違ってくるのだろう。私は、きゃ、きゅ、きょ、は、きや、きゆ、きよの音と同一だと解釈している。ただその解釈が妥当かどうかまではきちんと判断できない。

大部分の日本人の英語の発音が良くないのは、40を超える英語の音素と比べて日本語の音素がたった20しかないことが影響しているのだろう。

The reason why most Japanese pronunciation is bad is that there are only 20 Japanese phonemes compared to more than 40 English phonemes, which is affected.

カタカナ読みという言い回しは何の実体も反映していない。発音そのものにはひらがなもカタカナもないからである。日本語は音素が20しかない言語であるがゆえに、その20という音素の枠の中で音素が40いくつかある英語をしゃべろうとしても英語話者には通じにくい発音にしかならないということなのである。

もうしばらくしたら英語学習についてもう少しきちんとした記事を書きたい、というきもちがあり2018年の2月頃に記事を書くかもしれない。

上にグーグル翻訳を用いて書いた文章は、まだ不自然な部分も多いだろうが、もう少し英語を学べば自然な英語に近づけていくことができるだろう。上の文章はモンティパイソンのバイシクルリペアマンのエピソードから着想を得て書いた。


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