『西方冗土』## 中島らも | 前山和繁Blog

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このごろ、過去に書いた記事の誤っている箇所が気になり始めてきた、直したい箇所もいくつかあるが、なかなかできないでいる。

英語学習の記事も時折書くことにした。

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『西方冗土』## 中島らも

大阪にある謎のババア喫茶アジアコーヒーを発見した中島らもが入店しネーポンを注文し店外に生還した様子がエッセイとして書かれている。

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中島らもは広告に関する真面目な考察を、第二章の「『啓蒙かまぼこ新聞』の波紋」に書いている。

「たとえば今、電力会社から原子力発電推進の広告制作の依頼がきたとする。かたっぽうからは原発反対の団体からコピーの注文が同時にきたらどうするか」
という極端な設定を持ち出すことにしている。広告屋としての答えは「両方とも受ける」が正解なのだ。もちろん現実にはこんなことはあり得ない。現在の広告界は「A.E制(アカウント・エグゼクティブ・システム)」が原則として実施されている。
たとえばある広告会社の一部門がカネテツデリカフーズの広告を担当しているとしたら、その部門が同時に並行して「紀文」の広告を担当することは禁じられている。ただこれは制度上一人の人間が矛盾するものを抱え込まずにすんではいるものの、会社全体として見れば両方ともに受けているわけだ。そこに自分を置く以上、広告でメシを食っている人間がその制作物の中に自分の思想やモラルやアイデンティティを持ち込むことは許されない。原発推進と反対の両者の仕事に同時に関与するというのは、自分が人間だという意識を持っている限り不可能なわけで、それをやるためには自分をある種のシステムなりファンクションであると規定してかかるよりほかに方法はない。
その意味では、コピーライターという商売は、大根をつくってそれを市場に持っていって売る、という労働の在り方とは根本的にちがう在り方をしている。そこにある種のやましさなり後ろめたさがついてまわって当然の仕事である。極論すれば嘘をつく、誇張をする、自己欺瞞をする、ということに対して支払われるペイで成り立っている。俺は嘘なんかついた覚えはない、と主張するクリエイターがいたとしたらかなりおめでたい人だろう。かりにいま、ある商品について、その長所をありのままに伝える作業を広告だと規定する。商品には当然、長所があると同時に短所が存在する。広告は絶対にその商品の短所を述べることはない。「知っているけれど言わない」というのは「嘘」のひとつの在り様である。そのあたりで広告と批評ないし表現の本質的な違いがたち現われてくる。(p.105-106)

2011年3月11日に福島第一原発で事故が発生してから原発や放射線に関する意見が多くの個人から発せられた。

福島原発の事故後に、原発や放射線に関する意見を発する個人の多くは、無自覚に何らかの立場からの宣伝行為をしていたと言えるだろうし、原発事故以前から流通していた原発に関する宣伝行為の影響から逃れられないままに意見を発するしかなかったとも言える。

日本国内の原発の運用について党派を超えた対話というのは2014年現在いまだにされていないのではないか。

上に引用した中島らものエッセイはあくまでも広告を生業とする人間についてまわる問題について考察したのであり、原発について考察したのではない。

それでも原発事故後に原発について発せられる言説に触れていると、原発をどうするべきかの立場はさまざまあるにしても、どの立場からも、原発についての立場の自己宣伝しか発せられていなかったように思えてならない。

原発事故が起きてから日本人の多くは原発について思考停止に陥ってしまったのかもしれない。

党派を超えて対話が成立しなければ原発政策をどうするべきか決めていくのは困難かもしれない。党派性にこだわる人ほど自分をリベラルと思いだがる習性もありそう。

原発事故後ここぞとばかり本を出版し自己宣伝に終始し一儲けした人もいるようだ。そしてそういう自己宣伝をした人ほど自分は嘘をついた覚えがないと胸を張るのだろう。それは誰かは名前を出すつもりもないが、原発について少しでも考えようとした人のなら思い当たるふしもあるだろう。

政策は商売ではないのに、原発政策となると宣伝合戦が起きるのは不思議である。なぜだろう。


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