次はどんな『らもチチ わたしの半生』 中島らも チチ松村記事を書きますか? | 前山和繁Blog

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このごろ、過去に書いた記事の誤っている箇所が気になり始めてきた、直したい箇所もいくつかあるが、なかなかできないでいる。

英語学習の記事も時折書くことにした。

 

 

『らもチチ わたしの半生』 中島らも チチ松村

 

中島らもは、政党政治や地方政治とは違う水準の原初的な意味での政治に敏感だったのがよく伝わってくる。それは、この本以外の様々な本でも繰り返し書いていたはずだが、中島らもは若い頃はミュージシャンを本気で目指していたが、バンド内政治にかかずらうのはまっぴらごめんだったから一人でやっていたという。アマチュアバンドにすらも、そのメンバー間の政治というのが発生するというのは、ごく当たり前の現象とはいえ、そのことに自覚的で「バンド内政治」という簡潔で通じやすい表現ができていたのは、中島らもは原初的な意味での政治というものに敏感だったということである。

 

中島らもが、劇団リリパットアーミーをやめたのも劇団内政治が嫌になったからだという。

 

この『らもチチ わたしの半生』は青春篇と中年篇の全2巻構成である。昔、90年代終わりごろからFMで『らもチチの魔界ツアーズ』というラジオ番組があって、その番組のコーナーのうちの一つの私の半生を編集しなおしたのが、この『らもチチ わたしの半生』である。

 

「らもチチの魔界ツアーズ」には「私の半生」と辞書をランダムに引いて出てきた言葉についておしゃべりする「辞書に聞け」と聴取者からのおたよりを紹介するコーナーと、若者向け音楽を中年に紹介する「おじさんよこれを聴け」と中年向け音楽を若者に紹介する「若者よこれを聴け」と中島らもがシタールの音楽をバックに朗読をするコーナーで構成されていた。私は、それらすべてのコーナーが書籍化されてほしかったが、それだと分量が多くなりすぎるのだろうから無理だったのだろう。

 

私は、「らもチチの魔界ツアーズ」は毎回逃さずに聴いていたわけでもないし、忘れてしまったことも多いが、それでも『らもチチ わたしの半生』を読むと、ラジオでのおしゃべりがかなり編集されているという感想を持ってしまった。しかし面白さには、変わりがない。

 

『らもチチ わたしの半生』は男性向けの語りばかりであり女性向けではない。それは男二人がしゃべっているからというよりも、それも商売上、意図的な方針であろう。

 

そして、「らもチチの魔界ツアーズ」に登場していたロマンポルシェのメンバー二人の記述が全くないが、これは「らもチチの魔界ツアーズ」にロマンポルシェの二人が登場した後の放送の時に、チチ松村が「ロマンポルシェの子とかね」と言った後に中島らもが「あの人たちもねー」と言ってチチ松村が「なんかあったな」と言っていた回があって、一瞬面白いと思ったとしても、あとで何かあって、なかったことにしてしまいたくなったのかもしれない。

 

そういったことも一種の政治的判断といえるはずである。何らかの事柄を不特定多数の人びとに向けて語るのをやめるというのは単なる好き嫌いではなく政治的判断であると解釈できるはずである。

 

中島らもは、コピーライター養成学校に通っていた時に、そこでいい成績を取っていたという。中島らもはコピーライターというのはあくまでも商売だという自覚を養成学校に通っていた時から自覚していた。

 

らも 糸井さん、中畑貴志さんたちが有名になっていたころ。生徒はみんな、花形商売みたいに思ってきてるわけよ。ところが、おれは絶対そんなんと違うって考えてたの。コピーライターってのは商売なんやから、相手見てやったらいいんだっていうね、営業マンで培ったノウハウはあるからね。(中年篇30頁)

 

中島らもは、コピーライターを自己表現だと誤解する人々が多い中、ごく常識的な判断ができていた。この問題については私なりに考えたのだが、もし座布団運び養成学校などというものがあっとしたらどうなのか考えてみると分かりやすい。座布団運びには需要などあってないようなものである。そして、そんな学校に通う人々がいるとしたら、それは商売をするつもりがない人々ということになる。座布団運びなど商売になるはずがない。だから、もし座布団運び養成学校などというものがあったとしたら、そこに通う人々は座布団運びにあこがれて座布団運びという自己表現をしたい人々のみということになる。しかし、コピーライターというと、あくまでも商売だという意識が抜け落ちて自己表現という誤解をする人々が出るようである。コピーライターはあくまでも商売という意識が欠落していたらそういった人々はプロのコピーライターにはなれないだろう。

 

*

 

広告や商売というものは正直になりすぎたら成り立たなくなる。

 

中島らもが会社員時代(おそらく80年前後)に佃煮会社の山本部長という人と話をしていた時に

 

らも 「減塩食品というものが人気ですが、おたくではそういうものは出されていないんですか」って聞いたわけ。そしたら、その山本部長がね、「君は、何考えとるか知らんが、これからの日本というのは、高齢化社会や……」と。

チチ ほう。

らも 「道路つくりたいと思っても、その税金、予算は年寄りのために使わざるを得ないわけや。若者2人で3人ぐらいの年寄りを養っていかんような、そういう時代になってくる。国の税金も大多数が年寄りのために使わざるを得なくなってくる。だから、そういうお年寄りは、うちの塩からーいつくだ煮を食べて、死んだらええねんやーっ!!」

チチ (笑) むちゃくちゃや。(中年篇60頁)

 

以上は、つくだ煮会社の山本部長の本心から出た言葉であろう。しかし、それを公の場で広告にしてしまったら、そのつくだ煮会社はつぶれてしまったであろう。正直になりすぎたら商売ができなくなることがある。これはアルコールを扱う商売をしている人々がアルコールは内臓に悪いという本心を広告に反映させられるはずがないというのと同じことである。

 

そういった意味で商売にも原初的な政治がついて回るし広告は嘘だらけ、というのか都合の悪いことは消費者に対して伏せなければならない表現であり、コピーライターは自己表現にはなりえないと理解できる。