先週の阿南市史跡巡りの暑さが、嘘のような涼しい空気…
一気に秋めいてきましたね
夏が終わる前に、阿波の海に生きた熱い水軍衆 森水軍記事を仕上げます
【森水軍と阿波の歴史】
森水軍の初代長は、森元村(もり もとむら)
元村は、戦国時代に畿内まで勢力を伸ばした、三好長慶に阿波と畿内を隔てる海路を繫ぐという重要な役割を与えられます。
三好家が畿内で勢力を拡大できた背景に、森一族という水軍衆の貢献は絶大でした。
そのため、三好家当主(長慶、義興、長治)からの感状はもちろん、実質の阿波支配を任せられていた長慶の弟である三好義賢(実休)からも絶大な信頼を寄せられていました。
しかし、義賢が畿内へ武器の調達へ赴いた際に、阿波への帰途で、敵対する畠山氏と海上戦となり、大将である義賢が戦死するという痛手を負います。
この時も、森一族は護衛として従っていたと思われますが、大将を失った軍勢に統率はなく、ライバル畠山氏に散々に敗れ、阿波へ命からがら逃げ帰ります。
以後、三好家の絶対的な主柱であった、長慶も心身ともに衰弱し、義賢の死後僅か2年で他界します。
三好家の絶頂期は、長慶・義賢・(十河)一存・(安宅)冬康の四兄弟が存命中でした。
義賢が戦死。
一存も謎の病死。
冬康に至っては、兄である長慶から謀反を疑われて切腹させられます。
その後、すぐに長慶も病死。
有能な兄弟が四人も一気に死亡するという悲劇が、三好家滅亡へのカウントダウンとなりました。
それでも、長慶時代からの恩義があった森一族は、献身的に三好家に仕えます。
長慶亡きあと、畿内を治めた織田信長と、三好家への忠義に燃える篠原長房らが畿内で戦闘となった際には、三好軍を阿波から畿内へ海路で運び、戦闘をサポートしました。
しかし、もはや織田信長の絶大な権力には勝てないと主家が、従属を誓えば、これに従いました。
森家は、いつも三好家とともに歩んできたのでした。
そこへ弱体した三好家から阿波、そして四国そのものを支配しようと台頭してきたのが、長宗我部元親。
元親にもまた大義がありました。
【元親の大義】
元親の末の弟で、弥九郎という名の武将がいました。
弥九郎は病弱で、病気療養のために当時から有名であった有馬温泉に湯治に出掛ける途中で、嵐に遭遇し、阿波と土佐の境界線である那佐湾に一時的に避難しました。
これを地元漁師が、海部城に知らせたため、当時の城主であった海部友光は手勢100名を率いて、襲撃しました。
結果、弥九郎と供であった家臣30名は討ち死にします。
この知らせに、元親は激怒し、西部(白地・大西城方面)からは、主として調略を用いていきますが、南部(海部方面)は徹底的に力攻めで制圧を始めます。
三好家 VS 長宗我部家の覇権争いは、奇しくもこういった悲劇に発端を発しています。
結果、阿波のほぼ全てを手中に治めた元親でしたが、中富川合戦で三好家の本筋まで滅ぼしたにも関わらず、たかが三好家の残党に過ぎない水軍衆に、居城(土佐泊城)に籠城されて、これを攻略できずに、撤退を余儀なくされました。
三好家は滅びましたが、家臣であった森家は見事に生き残りました。
そして、三好家から受けた恩義に報いて見せたのでした。
これにより、森水軍の武名は、近隣諸国にあまねく広がることになりました。
【森家の本拠移動と町づくり】
その後、森家は豊臣秀吉の四国征伐に参戦し、秀吉の弟である秀長、甥である秀次の軍勢の先鋒役を務め、長宗我部軍に支配された元三好家の城を次々に攻略していきます。
四国征伐完了後、秀吉から多大な功績を認められて、阿波が豊臣の重臣である蜂須賀家の治めるところになると、その家臣として変わらず召し抱えらえて、水軍として破格の高禄である五千石以上を与えられたと伝わります。
そして、戦国時代を生きた土佐泊城から、新たに蜂須賀家が築いた徳島城下へと移り住むようになります。
参勤交代などの際には、徳島市福島町にある森水軍の徳島屋敷に、当時の殿様が下乗し、森水軍の護衛の元で、海路で大坂まで渡ったとあります。
その後、時代が平穏になっていくと共に、森家は徳島城下に住まいながらも、やはり水軍の生活に適した場所を藩主に懇願し、与えられたのが、阿南市椿泊近辺~福井町周辺と伝わります。
ここでも約三千石相当だったと伝わるので、時代は流れても、森一族に寄せる主君の信頼の厚さが伺えます。
では、森氏が築いた町並みへタイムスリップ
森氏が、戦国時代に本拠とした場所が、地図上方にある鳴門市土佐泊。
そして、蜂須賀家から新たに拝領したのが、矢印の先端にある阿南市椿泊。
直線距離で、約50km。車道でも65kmほどあります。
戦国時代に森氏が生きた、鳴門市における史跡は町並みの狭さくらいですが…
阿南市は安住の地であったようで、多くの史跡が残されています。
森家二代目領主であった、森 村春(もり むらはる)が屋敷を築いた場所と伝わります。
椿泊の本当に先端に当たる部分なので、近くのバス停で降りても、約4km以上歩く必要があります
なので、僕らは自分の脚で行きました(笑)
車はお勧めできません。
軽四なら何とか…大丈夫かな???
車体のクラスが、1000を超えるサイズ(普通車)は、どこか痛む覚悟でお願いします(^▽^;)
決して大きく見えない御神輿で、この状態です
車なんて、とても…
ちなみに行った日も、走っている僕の後ろから、スクーターに乗った警察官が、接触事故現場に向かっていました(^▽^;)
森一族の築いた町並みは、なかなかに現代人には手強いねぇ
広い場所に停めて、片道25km走ってくる変態を見たら、『お前には負ける』と言ってくれるかな(笑)
森氏の先祖にあたる、佐田久郎兵衛(さた くろべえ)を祀った佐田神社と、境内横にある椿泊の三代目領主である森 忠村(もり ただむら)の五輪塔。
そして、椿泊とは直接関係ないけど、主家に忠義を貫く姿勢を森家に作った、森家の初代である森 元村(もり もとむら)
初めてこの椿泊を本拠とした、二代目である森 村春(もり むらはる)
そして、椿泊に移住後、文禄・慶長の役で朝鮮出兵にも参戦し、水軍の力量を存分に発揮しました。
慶長十九年(1614年)の大坂の陣では、徳川方として参戦し、豊臣家の主要な穢多崎(えたがさき)・伯楽淵(ばくろうぶち)などを陥落させて、徳川方の勝利にも貢献しました。
そのため、徳川家康より感状を与えられ、四代目領主である森 村重(もり むらしげ)は、徳島城下から離れて、ここ椿泊から県南部一帯の利益をほぼ与えられたと伝わります。
三好家から蜂須賀家の幕末まで、重用された森家は、この時代においては、特殊な存在だったのだと思います。
もちろん、森家だけでは、主君を支えることが出来ませんので、森家を支えるための家臣が必要になります。
それが水主(かこ)と呼ばれる、船出頭になります。
こちらに関しては、阿南市今津浦にその屋敷跡集落の名残が残されています。
阿波城跡探訪~今津浦城跡~
普段は、水主たちは、今津浦の屋敷周辺で生活しており、訓練のために椿泊まで片道35kmほどを出勤していたと思われます
現代の35kmなら、車で楽勝ですが、江戸時代初期の話なので、凄い根性です(^▽^;)
そりゃあ、現代人のような生活習慣病とかなるはず無いですね(笑)
徳島県南の中でも、椿泊は極端に狭い通路が多く、独特の町並みですが・・・
基本、県南部の漁村(漁港)は狭い場所が多くあります。
これは、森家が徳島県南部における影響力が大きかった証拠だと感じます。
お墓一つ見ても、大きいΣ(゚д゚;)
蜂須賀家の家来でありながら、小大名と変わらないほどの高禄を与えられているΣ(゚д゚;)
これは、まさに阿波南部において、森家に匹敵する存在は居なかった証拠です。
往時の屋敷跡が残っていないのが残念ですが、きっと凄い規模だったんでしょうね…
想像すると、ワクワクするのでした
何度も言いますが、車ではお勧めできませんが(^▽^;)
一見の価値がある素敵な場所でした(≧▽≦)