ブログネタ:風邪の治しかた
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風邪の治し方・・・
なるべく早く寝る
引いてしまったら、これしかないですよね
で、最近ずっと残業で、体力が落ちていたのか…
走れなかったストレスなのか…
二シーズンぶりに、風邪だよと、はっきり体が分かる症状を(^▽^;)
2014年末に、風邪が原因で肺気腫発症して、入院しましたが
2015年は、それだけに凄く注意して、生活していました。
体に良くないことは、原則
最近まで、いろいろと調子が良かったので、食生活や生活習慣そのものが手抜き( ̄_ ̄ i)
それでも、強くなったと思っていましたが、やはり根本は脆弱な部分が多い(^▽^;)
で、今日は緊急停止
ですが、高熱があるとかではないので、年末年始録画していた映画や歴史のテレビ見て、まったり
歴史もののテレビを見ると、やはり記事を書きたくなったので、書いて寝ます(笑)
その前に
今朝は、今年一番冷え込んだので、空気が澄んでいて、空がキレイでした
いつもは、空が明ける前に会社なので、久しぶりにキレイな空を見ました(≡^∇^≡)
では、本日の記事に。
本日紹介するのは、阿南市那賀川町今津浦にある今津城跡になります。
まずは全体図から。
赤丸囲み部分が今津城跡のある場所になります。
徳島市内と県南部を結ぶ、主要道路である国道55号線(阿南道路)の近くの開けた場所にあります。
【今津城解説】 ※別名:今津塁
築城年:不明
築城者:不明
城郭形態:平城
那賀川町は、那賀川が太平洋と合流する、最下流域に開けたデルタ地帯に発達した町です。
大河である那賀川によって、運ばれた土砂が堆積した肥沃な土地は田畑に向いており、町は築かれていったようです。
その中でも、今津浦と呼ばれる付近は、今でも住宅が密集しており、まさに碁盤目のように立ち並んでいます。
古くから意図的に町づくりがされていた場所だと分かります。
阿波には戦国時代から、水軍の総裁として、森一族がいました。
三好家の時代には、三好長慶を棟梁とする三好一族と畿内の海路を繫ぎ、江戸時代には徳川家の大名となった蜂須賀家が参勤交代で江戸に向かう際に、大坂までの海路を繫いでおり、徳島城下に屋敷を持っていました。
しかし、本拠は、阿南市の椿泊にあります。
森甚五兵衛(もり じんごべえ)屋敷跡として、今でも史跡で残っています。
椿泊~鳴門市の土佐泊城跡(森家の持城)を海路で繫ぐためには、船頭が必要になります。
今津浦は、その城下町に船頭屋敷が立ち並んでいたようです。
で、今回目指す場所は、写真の赤囲み部分にある大久寺(おおくじ)
ここが今津城跡と伝わります。
周囲が完全にお墓なので、あまり写真を撮るのが気が引けます
ただ、そのお墓の中心部分には、石垣が少し盛られた場所があり、その部分を天守山と呼んでいます。
【今津城とその歴史】
戦国時代には、平井対馬守が城主でした。
城の周りには堀が巡らされ、城下町は幅3~4間の道路によって一定の広さに、碁盤の目のように区切られ、きわめて戦略的に造られた町です。
今津城は、長宗我部元親の阿波侵攻で、落城します。
城跡に大久寺が建てられ、かつて天守があったと思われる小高い森を天守山と呼んで、平井対馬守を祀る小さい祠もあります。
蜂須賀家の徳島藩政時代は、この城下町に加子屋敷と呼ばれる船頭の屋敷が配置され、椿泊の森甚五兵衛の支配下で海上の守り、海路での運送、参勤交代などで活躍しました。
ちなみに、毎日のように仕事で国道55号線を通るのですが、自分ならこんな守ってくれるものが無い場所に城は築かないので(^▽^;)
全く城のイメージが湧きませんでした
まだ、ご紹介していませんが、阿波水軍の総裁であった森一族が築いた町並みは、住宅が現代でも密集しています。
とりあえず、近いうちに、土佐泊(鳴門)と椿泊(阿南)はご紹介したいと思います。
何せ道が狭いので、車で巡るのはムリなので、駐車できるスペースを探してラン予定です
もう何年も行ってませんが、泊(とまり)と呼び名が付くので、海沿いなのですが、釣り好きの僕も近寄りません
それは…地元の方でもよく民家の壁に車を接触させるくらいに狭いので(^▽^;)
椿泊にある森甚五兵衛の屋敷跡は、蒲生田岬(がもうだみさき)も近いので、冬は水平線に昇る朝日とセットだと良いかも
土佐泊は、阿波支配を目指した、長宗我部元親を持ってしても、唯一落城させることが出来なかったと伝わります。
海に長けた森一族が、阿波の最後の砦となった土佐泊城だけは、徹底抗戦して死守した
劣勢の三好家にあって、最後まで裏切らずに阿波のために戦った森一族は誇りです(≧▽≦)
それと古くは、土佐日記で有名な紀貫之が、畿内へ戻る途中に海路で、土佐泊に立ち寄った逸話もあります
とりあえず、風邪を治したら、またブラブラと楽ラン + 史跡巡り開始です