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早速、いきます。
<幸田先生語録>
一見、どこから観ても正しいような価値観が、実は自分を苦しめている最大の原因だったりすることがあります。
どんな常識的と思われる価値観でも「本当にそうか?」と疑ってみることが大切です。
出来事
ジャーの中にずっと入っていたごはんでチャーハンを作ったが、母がそれを食べて
「固いチャーハン食べちゃって」と言った。で、残してあった。
感情
怒り。
人が一生懸命つくったチャーハンそういう言い方することないじゃないかという怒り。
価値観
人が一生懸命作ったものは悪く言ってはいけない、という価値観。
でも、母が言ったのは「固いチャーハン」ということ。
固くてまずい、とかいったわけではない。
固い=悪い、としたのは自分の判断であり価値観。
それはわかってたけどムカッときたから「そういう言い方することないんじゃないの?」とは言った。上野にしてみれば、これも珍しいことだ。
すると「あんたが一生懸命作ってくれたから、買ってきたカツ丼より先に食べたんだよ」の声。
「だったら固いなんて言わなきゃいいじゃん」と、これは心の声。
結構、怒りがおさまらなかった。
言って気がおさまるというものでもなかった。
で、観察してみると、やっぱり原因は「固いを自分で悪いこととしている」ということが強い。
これも自作自演。
そういうパターンって結構多い。自分で悪いことにして、それで自分で腹立ててる、っていう。
これもくだらない。
結局根っこにあるのは、自分のしたことに対する自信のなさだったり、これで言えば「母のため」という気持ちそのものにも原因がある。
その気持ちが「俺は犠牲になっている」という思いを生み「これだけやってやってるのに感謝もしないで固いとは何事だーっ!」という逆ギレになってしまうわけ。
母にしてみりゃいい迷惑である。
その「犠牲心」を感じてみると、出て来るのは「しなきゃいけない」という思い。
「しなきゃいけない」は本当か?
本当は「してもしなくても、どっちでもいい」が真理だと思う。
しなきゃいけないと思った時の不快感
しなくてもいいと思った時のお気軽感
シーソーで考えてみれば、しないことのメリットだってたくさんある。
母が自分でやることによって、筋力とか気力とか、いろいろなものが復活する。
頭だって「しっかりしなきゃ」って思って、ビシッとなる・・・
だから、してもしなくても、どちらでもいい。
その上で、その時、どちらが自分にとって心地いいか、を感じればいい。
そうすれば、母のため、じゃなくて自分の心地よさのため、になる。
やることは一緒だったとしても、気持ちは全然違うはず。
動機が違うから。
冷静になって考えてみると、確かに口にしたから固いとわかるわけで、最初からカツ丼に行ってれば固いも何もない。
(スーパーで買ったカツ丼弁当もあったのだ。)
「口にしてくれた」ということに感謝もできるわけだ。
そこを見逃して「何事だーっ」となって、自分で好きこのんで落ち込んで怒ってるわけだやっぱり。
ああやっぱりくだらない。
自分で選択
自分の選択
好きなものを選べるし
心地いいものを選んでいい
ああ、もう自作自演からは脱却します!
ここまでお読みくださいまして
本当にありがとうございました。
今日もあなたにとって、最高にこころ豊かな1日となりますよう、お祈り致します。
では、失礼致します。
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