こんにちは。
本日も、幾万あるブログの中から、こちらにお越し下さいまして
ありがとうございます。
この前、プロ野球、前中日ドラゴンズ監督の落合博満さんが、インタビューを受けていました。
落合さんは監督時代、どんな場面になっても表情一つ変えないのが印象的でした。
インタビュアー
「落合さんは、どうしてそんなに冷静でいられるんですか?」
落合さん
「とんでもない!ちょっと奥の方の、誰にも見えないところに行って、あのバカ!!とか、なんでここであんなことすんだアホっタレ!!、とかやってるんですよ。壁殴ったりとかゴミ箱蹴ったりとか。そこでそうやって、また何食わぬ顔でベンチに戻ってきてるだけです。それの繰り返しです。」
それを聴いて、何かすごく安心しました。
<幸田先生語録>
本当はどう感じているのか、自分でも隠してしまうことがある。
そこをごまかさず見逃さず観察していくことが、真の浄化につながる。
昨日の記事、「生きていかなきゃいけない、の?」 の中で、母への感情を「何か頼まれた時に出る怒り」と書きましたが、どうやらそれが真の感情、大元の感情ではないようでした。
なぜなら、書いた後で、よたよた歩く母の後姿を見ながら、なぜか「殺したいほどの感情」が出てきたからです。
何も言われてなくても、出てきていました。
これについて、最初は怒りなのかと思いました。
子供のころからダメダメ言われてきたとか、やさしいけど結構厳しい、容赦ない母でしたから。そういう感情がここぞとばかりに噴き出してきてるのかな、と。相手が弱ったからよっしゃここだー、みたいに。
それも、なくもないですが、どうやらそれでもない。
で、でてきたのが「年老いてく姿を見たくない」。
実際、完全にボケてるわけじゃないんだけど、ちょっとボケたようなこと言われると、すごくがっくりする自分がいる。
そのがっくりはいらだちになったりする。母に当たる。
それは「まだ頼りたい」ということなのかとも思ったが、そうでもないらしい。
本人は普通にテレビ見てるだけなんだろうけど、何か、身動きもせずにじーっと見てる姿が、なんとも「年くったなあ」って感じなのだ。
年を食うこと、ボケること、自分で自分のことをやれなくなることを否定している自分がいる。
ここで、心の中のシーソーに乗せてみる。
マイナスとプラスのバランスを取る。
年を食うことのマイナス面は、醜くなるとかボケるとか、今までに出てきたそういうこと。
プラス面はないか。
ボケるほどに年を食う、とは、それだけ長生きができてるということ。
例えばうちの父は55で亡くなったので、ボケるまで長生きできなかった。
姉も45で亡くなった。
祖父は86まで生きたが、まだ自分は高校生だったので実際どうだったか本当のところはよくわからない。
長生きということは、シンプルに、それだけ親孝行できる期間が長いということ。
そういうチャンスを与えてくれてるということ。
ボケてれば尚更。
自分で自分のことやれなければ尚更。
ヘルパーさんはのぞいて、
今家族自分ひとりしかいないから、親孝行もう一人占め状態。
すっごくありがたい話。
全然、いいじゃない、っていう気がしてきた。
受け入れた上で、「こうなりたい」という「宇宙にオーダーを出す」で、ちゃんと足も手も治って、自分のことは自分でやれるようになってもらいたいとは思うけど、ほんとに、どっちでもいいような気がしてきた。
ほんとに、ふしぎと。
まあ、またこれで何かあると「イラッ」とかするんだろうけど、そうしたらまた自己観察すればいいかな、みたいな。
何かすごく楽になりました。
ここまでお読みくださいまして、
本当にありがとうございました。
あなたにとって、今日も最高に心安らかな1日でありますよう、
お祈り申し上げます。
それでは、失礼致します。