仮想と現実の狭間を生きる人間 | けいすけ's page~いと奥ゆかしき世界~

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日々感じたことや思ったことをつれづれなるままに綴っていきたいと思います。

小説、ドラマ、映画は一般にフィクションであって、それに毒された空想過剰人間や少女趣味が非難されることが多い。いわく、現実を生きていないということらしい。確かに、芸術形式をとってなおノンフィクションだと謳うならば、それ自身フィクションであろう。ノンフィクションとは「一回性」=「再現性ゼロ」の世界であり、現実である。
ならば、この生きられた時間こそがノンフィクションなのか。だが、この生きられた時間を生きるということは、一見至極当然なことのように思えるが、実はこれが容易ならぬ行為であって、いわゆる若者が得意とする悩みとなっている。それは、「リアリティを求める」ことの困難である。

リアリティとは変な言葉である。それはリアル(本当)から派生した言葉でありながら、リアルから離れているからである。
リアリティとは「本当らしさ」のことである。いわゆる若者は、年齢的な意味において若い者であり、それゆえに、この自由社会において将来に不安を抱く学生や社員が相当する。その彼らが、自身に与えられた可能性をもてあましていると感じるとき、彼らの生は漠然としたような、生きられていないような焦燥に駆られる。リアリティが求められるのはその時だ。
つまり、リアリティは、「リアル」でないところから出発する。リアリティの追求はその根源にリアルとしての自己の否定がある。リアリティの「本当らしさ」は「~らしさ」=「擬似」の域を出ず、リアルからは遠ざかってしまう。つまり、リアリティを追求している限り、永遠にリアルを手に入れることはできず、むしろそれとは逆方向に進んでしまうのである。いわゆる若者が、リアリティの追求に四苦八苦しても困難の内に留まるのはそのためだ。仮想は仮想でしかない。

ところが本当の困難はここからである。仮想を生きずに現実を生きると言ったところで、現実が何かが分からない。事実、人は単に生きているだけでどれほどのフィクションに包まれているだろうか。先入観、固定観念、思い込み。それらはむしろ人が安心して生を全うするのにある程度必要なものである。それらを排して生きるのは(排せるかどうかも怪しいが)、「超人」でもない限り、困難である。また、現実あっての「仮」想である。両者は関係の中にあり、単独では存在しない。人間とは、そういう仮想と現実の狭間にその所在を示すのだろう。仮想も現実も、人間にとって等しく欠くべからざるものなのである。