青子さんの荒屋敷貝塚探訪、久々の登場です。 | 西村治彦の日記

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日々の出来事を書いています。

青子さんの荒屋敷貝塚探訪、久々の登場です。

 青子さんの登場は 2回目であります。

時々 私のブログに登場させて戴きたい、と申し出があり、私からも お願い致しました。


 この日は 朝、千葉事務所に 営業部長である、西村大治郎が やってきて、大阪からの新人研修生に教えておりました。

彼も 大学を卒業して、ウチの事務所に 入ってから 17年も経ちました。

営業には 適しています。誰とでも 遅れを取ることなく 堂々と話しをすることが出来ます。経営は 営業があり、その上に 事務がありますので、今後 彼を中心に 営業員を育てていくことになるでしょう。


 事務所に戻ると、高橋直子が 元気に 業務に励んでおりました。

お母様を 不慮の事故で亡くしましたが、仕事のほうは 回復して参りました。

さて この日は 千葉市若葉区貝塚町にある「荒屋敷貝塚」に行くことにしました。


 「青子さん」とは 千葉市中央区の千葉東税務署の近くで 待ち合わせをしました。さっそく 私の車に乗って、「荒屋敷貝塚」に行くことにします。


 千葉市は 東京湾に面しているので、大昔から 人々が定住して、貝や魚、獣を獲り、食料としてきました。食べたり、干し貝を作った後の 貝殻や骨を捨てた場所が「貝塚」です。


 大規模な貝塚は 海産物加工工場跡であります。

ここ「荒屋敷貝塚」は 環状の馬蹄形の貝塚です。

外径が、160m×150mの貝塚です。

縄文時代全期に渡り 造られてきた貝塚です。階層の厚みが 3m あります。あさり、はまぐり、ハイガイ、イボイサキなどの貝類で 足元は 真っ白であります。


以前 私が、この貝塚の縁を 棒でほじくった時は、獣の骨、縄文式土器のかけらを 多数 見つけました。縄文時代は 定義に異論はありますが、今から 16、500年前から3,000年前に渡った時代であると定義されております。


 紀元後2014年経っていますが、もの凄く 大昔から 縄文時代は 存在しました。縄の文様が 土器に着いているところから、縄文時代と 命名されました。


 京葉道路上りを行くと、松ヶ丘インターを過ぎると、トンネルをくぐります。

このトンネルが「貝塚トンネル」です。この「貝塚トンネル」の上が、「荒屋敷貝塚」です。


 工事の際、「荒屋敷貝塚」の真ん中を突きって 高速道路を作る計画でしたが、地元や学識経験者から、遺産を守るように、と提言があり、貝塚をそのまま保存して、トンネルを作ったのでした。そのトンネルが「貝塚トンネル」です。「荒屋敷貝塚」から見る「貝塚トンネル」を通る多くの車を見ていると、

大昔の縄文時代と現代が交じり合っている感が 致します。

 一緒に行った青子さんは、「こんな近くに縄文時代の貝塚があるなんて、凄いです!」と驚いておりました。我々が住む場所は 大昔から 幾多の人々が 住んできた土地であります。


 海に近ければ 魚介類が採れ 食料とし、獣も たくさん住んでいたのです。貝塚で作った「干し貝」や「魚の干物」「干し肉」は、舟を利用して 交易し、他のこの地にない物と交換したことでしょう。


 現代に至るまで、超長い年月は、明治時代以降が 149年間なので、縄文時代初期からは 110倍の長さの時間を、人々は生きながらえてまいりました。

そんな、超長い時間が この「荒屋敷貝塚」に蓄積されているとは、想像するだけで、身震いがします。江戸時代の徳川家康公も 平安時代の紫式部も、奈良時代の鑑真和尚も つい最近の出来事に思えます。


しばし 縄文時代を味わって、青子さんと私は 元の持ち合わせの場所に戻ったのでした。

月1回程度は 青子さんが 登場して下さるそうです。



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