去年の4月にリクエストで書かせて頂いた、
「小説・フィンガー5 お茶碗とツイスト」
去年書いたときは、全部書いていなかったのですが、
今回、全部書こうと思います。
途中で終わらせてしまったのは申し訳ないと思いましたので。
せっかくなので、書きます♪(途中からです)
因みに、こちらの記事も基本情報なので、
前、省略させて頂きました。
近代映画の記事になります。
それではどうぞ!
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(続き)
踊り自慢から選ばれた3歳に可愛い小天狗
「78番、玉元正男くん!」
司会者の声に、幼い坊やがチョコチョコと舞台中央に現れ、ピョコンとおじきをした。
「まぁ、可愛い」
「あの年で踊れるのかしら・・・」
つめかけた満員の客席に、そんな死語が交わされた。
それもそのはず、正男は幼稚園にもまだ行けない3歳の坊やだった。
「マーちゃん、がんばって!」
客席の最前列に陣どった長女のチエコや一夫、光男たちが声を限りに応援する。
舞台の正男は姉や兄たちの姿を見つけてニコッと笑った。
やがて『ツイスト・アンド・シャウト』の曲が流れ出した。
とたんに、正男の小さな体はリズムに乗って巧みに踊りはじめる。
それは3歳の幼児とはとても思えないくらい堂に入ったものだった。
坊やの踊りにすっかり魅せられた会場は一瞬、水をうたれたようにシーンと静まりかえった後、今度は嵐のような拍手が湧き起った。
昭和37年秋に、沖縄の那覇市で開かれた、“ツイスト大会”には、大人たちを入れて100余名が出場したが、優勝したのは3歳の正男坊やだった。
当時、玉元家は沖縄の東南海岸にある具志川市に住んでいた。
そして、同市内でクリーニング店と米軍向けのクラブを経営していたのだ。
ものつく頃から、音楽好きだった正男は、母親の背におぶわれてクラブに行くと、ジュークボックスにかじりついた。
そんなことからツイストに興味を持ち大会に出場したのである。
もちろん、両親も姉も兄たちも
「ぼく、ツイスト大会に出たい」といった正男の言葉なんか信じてはいなかった。
たまたま、父が那覇にもクラブを経営していたので、そこに寄ったついでに『ツイスト大会』をのぞきに行ったのである。
こうして『ツイスト大会』で優勝したことによって、正男の音楽好きは家の中でも認められ、彼がレコードをガンガンかけていても父親は昔のように「やめろ!」と叱らなくなった。
正男の音楽熱はふたりの兄にも伝染し、3人はステレオを囲んでレコードをよく聴くようになりはじめた。
「聴くだけじゃつまんないね」
「うん、父さんギターでも買ってくれないかなぁ」
3人の欲望は次第に、自分たちで演奏を志す方へ動いていった
しかし、クラブを経営し、音楽には耳の肥えた父親はなかなか楽器を買ってはくれなかった。
そこで、兄弟たちは食事になると茶碗や皿など、
音の出る食器をドラムがかわりに叩いた。
1歳の晃も兄たちの真似をしていて茶碗を叩き、「行儀が悪い!」と両親に叱られるのだった。
あずかりもののギターセット
正男が小学生に入る頃、きょうだいたちは楽器を手にしたくってもうたまらなくたっていた。
父親の顔を見るたび「お父ちゃん買ってよ!」とせがみ続けた。
クラブ経営の父親は、クラブに出入りするバンドマンただれた生活をよく知っていたため息子たちがその真似ごとを危惧していた。
しかし、あまりの熱心さに父親の気持ちも揺らいだ。
ある日、一夫、光男、正男が学校から帰ってみると、家の居間にドラム、ギター、ベースが置いてあった。
「うわっ、父ちゃん、買ってくれたの?」
きょうだいたちは父親にすがりついた。
「いや、これは知り合いのバンドの人たちからのあずかりものなんだ。いたずらしちゃダメだぞ」
父親はそう嘘をついた。
本当は可愛い息子たちのためにと買ってきたものだ。
子供たちにとっては、たとえ父の云うように他人の楽器だったとしても、触ってみたくて堪らない。
都合のいいことに、口のうるさい父も母も、クラブやクリーニングの店が忙しがしくて家にはほとんどいない。
「兄ちゃん、ちょっとやってみようよ」
もう我慢できないといった顔つきで正男がいった。
「うん、ちょっとだけならいいんだろう・・・」
一夫はスティックを取ると、トントン、トン・・・・とドラムをこわごわ叩いてみた。
ドラムの音がジーンと臆までしみる。
「しびれちゃうな。ぼくにも叩かせてよ」
光男は家のどこからか腰がけをもって来て、「こうやるんだよな」とポーズをとった。
「いかす!」正男の目は輝いた。
ワンパクざかりになった晃も、もの珍しそうにこの楽器を見つめていた。
次の日から、3兄弟は学校が終わると、それまでのように道草などせずまっすぐに家にとんで帰ってきた。
そして、鞄をほっぽり出すと楽器をいじりはじめた。
とはいっても、誰も教えてくれる人はいない。
ギターのコードもわからない。
しかし、そこはカンでどうにかこうにか音を出し始めた。
しかし、曲を弾くまでにはならない。
「教えてくれる人いないかなぁ」
「そうだ、新里さんに頼んでみよう」
そう言ったのは一夫だった。
彼は父親の友人で米軍キャンプのバンドマスターをしている新里さんのことを思い出したのだ。
新里さんは快く引き受けてくれた。
こうして、きょうだいの音楽修行が始まった。
初めてのステージは父のナイトクラブ
「うん、だいぶサマになってきた」
父親は目を細めて息子たちの演奏に聞き惚れた。
彼はクラブ経営者として、毎晩いろんなバンドの演奏を聴いてるうちに、音楽に対して鋭い耳を持つようになっていた。
だから、3人のうち誰かが少しでもミスをすると、「音をはずしたぞ!」と注意するのだった。
観客はこの父親の他に4歳の晃と妙子の3人だけであった
毎日のようにこのささやかな演奏会が開かれた。
この間、3人はレコードを聴いては曲をコピーし、少しずつレパートリーを広げていった。
「一度、父ちゃんの店で演奏してみるか」
「えっ、ほんと!!」
一夫、光男、正男の3人は飛び上がって喜んだ。
こうして、昭和40年のクリスマスの夜、父の店のステージに立った。
80ほどある客席は、白や黒い顔をしたアメリカ兵たちでいっぱいになっていた。
リードギターの一夫が10歳。
ドラムの光男が8歳で、
自分の背丈よりも大きなベースをかかえた正男はまだ6歳であった。
3人は夢中で『ブルドック』『キャラバン』『ダイヤモンド・ヘッド』・・・・などのベンチャーズサウンドを演奏した。
「ブラボー!」「ワンダフル!」「アンコール!」・・・・客席は湧きに湧いた。
初ステージの大成功に3人ともすっかり自信を持ち、いよいよ練習に熱を入れるようになった。
米軍キャンプでも時々演奏し、実力をつけていった。
翌年41年秋に、彼ら3兄弟は琉球放送の『ワンダフルショー』に出場し、『バラバラ』を演奏してあっさりと優勝した。
「君たちをこのまま沖縄で埋もれさすのはもったいないなぁ。
ひとつ東京に出て本格的なプロにになってみては・・・」
番組担当のディレクターにそう言われて3兄弟の心は動いた。
「東京に出てプロになろう!」が3人の合言葉になった。
最初のうちは反対していた両親も、息子たちの熱意に負け、遂に一家をあげて上京することに決意した。
当時の沖縄はまだ米軍統治下にあって、簡単に東京に移住することは許されなかった。
そこで、ひとまず母の実家のある奄美大島の名瀬へと移ることにした。
昭和42年夏のことであった。
名瀬の学校へ通いながら、3人はプロを目指して猛練習に励んだ
「ぼくにもやらせてよ」「あたちにも」・・・
兄たちの演奏を聴きながら育った晃と妙子はせがんだ。
この5人の兄妹はとっても仲がよかった。
遊ぶときも、どっかへ出かける時もいつも一緒で離れたことがなかった。
「兄妹でバンドを作るのも悪くないな」と一夫が言った。
「うん、全員でやろうよ」と光男も正男も賛成した。
こうして、晃にはギター、妙子にはオルガンが与えられた。
楽器の指導は長男の一夫がした。
「きついぞ!」「うん、へっちゃらだよ」
晃と妙子は希望に顔を輝かせながら兄たちを振り仰いだ。
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いや~・・・・長い!w
画像は、幼少期の頃が多いですね。
お母様若い!