妻戸神社:新潟県長岡市寺泊野積
越後一之宮、弥彦神社を訪れるのは二十三年振りになる。前回は新潟の温泉巡りの途上、岩室温泉に宿を取った翌朝だった。平日の朝ゆえか参拝者も殆どおらず、弥彦山の麓の広大な社叢の中、清新な空気を身に纏いながら参道を上っていったことをよく覚えている。古色蒼然、ひっそりとしたそのさまは、正に神住まう荘厳な杜であり、神社にはさして関心のなかった頃だったが少なからぬ感興を覚えた。
今回も同じ趣を期待して行ったのだが、三連休の最終日、とにかく人出が多く、広大な駐車場にもなかなか車が停められない。参道を行けばこれまた人また人でごった返しており、拝殿の前には長い行列が出来ている。佇まいは昔日と大きくは変わっていないが、こんなにも人が押し寄せるのは何か大きな変化があったのではないかと勘ぐってしまう。
前日の戸隠神社奥社の杉木立の参道も同じ賑わいを見せていた。当地も二十年以上前に訪れているが、深閑とした森の中に延々と続く道が頭にあったので、まるで明治神宮のような人混みに少なからず幻滅してしまったのだ。
さて、妻戸神社は弥彦神社の摂社で、伊夜彦神の妃神おヨネを祀るとされ、本社から9km程の距離にある。弥彦山の南、雨乞山を海に向かって山伝いに車を走らせ、弥彦山スカイラインの入口を過ぎてしばらく。即身成仏で知られる西生寺の手前、右側には鳥居と楕円形の社号標が見える。
弥彦神社とは打って変わり、人の気配はまったくない。深い森の参道を上っていくと氏子と思しき男性。ちょっと意外な顔をして「ご苦労様です」と声を掛けられた。
途中、山の斜面が平らかになっている。そこに一反ほどの田があり、稲がたわわに実っている。看板に「彌彦神社 おつまさま 御神田」とある。青空、山の緑、稲の金のコントラストが見事で気分を和ませる。写真を撮ろうとiPhoneを構える僕の右手にとんぼがとまる。柔らかな秋の風がそよいでいるが、とんぼは一向に動かない。何かを伝えようとしているのだろうか。御神田右脇の三の鳥居をくぐり、少し上ると神事のためか四阿が設えてあり、奥に四の鳥居。鳥居の下には御幣が手向けられている。賽銭箱の代わりに小ぶりの石があり、小銭がいくらか置いてある。参拝はこの手前で、ということなのだろう。
-お弥彦様は野積浜のおヨネと結婚して十二人の子をもうけた。それで嫌になって身を隠そうとしたところ木こりに会い、「けっして私が弥彦山に登ったと云ってはならないぞ」と固く口止めした。しかし、追って来たおヨネに木こりは問いつめられ、口を開けたが、しゃべることができず、石となって死んでしまった。それで口あけ石という。おヨネの怨念が蛇となってときどき姿を見せる―「弥彦の片目神」「高志路」218 所収 藤田治雄
逃げる夫を追いかける妻という構図は、黄泉の国から逃げるイザナギを追うイザナミのくだりを思い出させる。類似する説話、伝承は他にもありそうだ。一方、氏子による解説は美談に類する。長くなるが、社頭にある由緒を写す。
妻戸神社 由緒
この辺から麓の海岸一帯を野積と云います。大和朝廷から越後国開拓の勅命を受けた彌彦大神の一団は、この野積の海岸の米水浦と云う処に先ず上陸し、土地の人々に製塩、網での漁獲、酒造など大和朝廷の新しい文化をもたらしました。その後更に、越後の原野を開拓するために、ここから弥彦山を超え今の弥彦の地に赴かれ宮居を定められました。
彌彦大神は野積からお移りになるとき、この処にそびえ立つ十八メートルほどの大岩に登り、野積一帯が開け平穏になったことを感慨を持って眺めつつも、愛しい妃神を追慕し、つま問うお姿はとても尋常ではなく、人々はその様子を見て泣をながしたと云うことです。そこで、人々はこの大岩の前に小さな石のほこらを建て、妃神を祭りました。
彌彦大神が妃神に「妻とい」をされたことから妃神は妻戸神と称されました。
更に、この大岩は妃神の御神体と尊ばれ、妻戸岩、妻問い岩、口開け岩と呼ばれるようになりました。
この地では新酒を造りその良く澄んだ酒を「湧き花」と云い、これを先ず最初にこの大岩の妻戸神に献じ口開けすることから口開け岩と云われています。
この野積は昔から多くの人が酒造に携わり野積杜氏と云われ、全国で活躍しています。(妻戸妃神会)
諸説あるようだが、僕は本殿背後の巨岩は、伊夜比古神が入植する遥か以前から、先住の民によって祀られていた石神ではないかと考える。また、妻戸の神は「漁師の神で、鰯とりをする朝、一升枡に鰯を入れてお参りをする」という習俗があったことから、元々は寺泊一帯の漁民が奉斎した地主神のように思われる。いずれにせよ、地元の崇敬の篤さを感じさせる、たいへん趣の深い聖地である。
さて、弥彦神社に話を戻す。混雑するのは今に始まった話ではないらしい。昭和三十一年元旦、年明けと共に行われた餅撒きの行事に詰めかけた参拝客は約三万人に上った。狭い参道に群衆が押し寄せたため将棋倒しが起こる。さらに参道脇の玉垣が圧力で崩れ、124人が死亡、重軽傷者77人を数える大惨事となった。
https://www2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/index.cgi?das_id=D0009030019_00000
経緯はこのブログに詳しい。
http://p.booklog.jp/book/8921/page/2718460
戦後、国からの保護がなくなった神社が、経営面で苦労していたことは想像に難くない。それは今も同様で、イベントを仕掛けて大量集客を行い、賽銭や物販、寄進による金集めを行うのは止むを得ない面もあるだろう。だが、それも度を越すと富岡八幡宮の宮司による実姉の殺害のような血腥いことが起こり得る。弥彦神社の事故は、参拝者集め、金集めに翻弄される神社関係者に業を煮やした伊夜彦神が、荒御魂を発揮したと見るのは穿ちすぎだろうか。
社寺も資本主義経済システムの中で大きな格差が生じ、地方では青息吐息というところも多いと聞く。氏子も檀家もなければ存続は叶わず、俄か拵えのパワースポットとして売り出すなどするしか手はない。しかし、そうするにもカネが要るのだ。名神大社や国幣社はその評判において永らえるかも知れないが、僕たちが本来守って行くべきは、鄙にある鎮守なのではないだろうか。
(2018年10月8日)
参考:「日本の神々-神社と聖地 第8巻 北陸」谷川健一編 白水社 2000年