【ある神話の背景】
1973年曽野綾子氏が『ある神話の背景沖縄・渡嘉敷の集団自決』と謂う調査報告書を発表し、集団自決の虚構性を完膚なきまでに暴いた。
しかし、赤松・梅澤両氏による名誉棄損裁判は「原告の請求棄却」となる。しかも、原告側証拠資料として提出した『ある神話の背景』は「信頼性がない」と決めつけられた。
当時の生き残り隊員や住民一人一人から徹底して聞き取り調査した曽野氏の著作が否定されたのだ。
そして、戦後、米国の宣撫工作として出版された沖縄タイムスの『鉄の暴風雨』や、現地調査なし、噂話を頼りに自虐妄想を極限まで膨らませた『沖縄ノート』を裁判所は肯定した。
拓殖大学客員教授・藤岡信勝氏は「戦後レジームの言論体制が根本的に否定される恐怖感、危機感を彼等は持っているのではないか」と述べる。
彼等とは、大江健三郎氏や岩波書店、朝日新聞、沖縄メディア、そしてそれらの方向に誘導された裁判官である。
集団自決者にまで、「戦傷病者戦没者遺族等援護法」が拡大解釈された経緯に関しては、調査当時の担当者であった照屋昇雄氏の証言がある。
「赤松隊長は神様です。犠牲者に遺族年金を出すために、自分が命令を出したと嘘の証言をしてくれたのです。遺族給与金の申請書を厚生省に持っていくと、担当者は難しいと謂います。私達は何度も訴えました。すると担当者は、『軍の命令があったと謂う事であれば可能でしょう』と言い出したのです」
「しかし、これは文書偽造、援護金横領になりかねません。従って村民あげての秘密主義が徹底されたのです」
その後、曽野綾子氏以後他の研究者等の調査、名誉棄損裁判を通して座間味での集団自決もほぼ虚構と明らかになった。
それでも沖縄の地元紙や反日メディアは、「援護法を適用するための捏造ではない。なぜならそれ以前に沖縄戦を徹底的に取材した『鉄の暴風雨』に書かれているからだ」と主張する。
以上「強欲チャンプル沖縄の真実」 大高未貴著より
続いて「頂門の一針 6973号」より転載します。
【イギリス式の残虐行為】 寺田理恵
すさまじい悪臭とハエの大群が・・日本人捕虜がビルマで経験した「イギリス式の残虐行為」
産経新聞
今年も終戦の日の15日、全国戦没者追悼式が行われた。日本の8月は鎮魂の季節。先の大戦に関する本のコーナーを設ける書店も多く、昭和史や戦記を手にしたくなる時期でもある。そんなふうにして読んだ中で強く印象に残っているのは、ビルマ戦記『アーロン収容所』だ。
産経新聞
終戦後、英軍捕虜として強制労働に服させられた歴史家の会田雄次・京都大名誉教授(1916~97年)が自らの体験をつづり、日英の文化の違いを論じたもの。昭和37年に新書版が発刊日本人の西欧観を揺さぶったとされる
初めて読んだ平成10年ごろは、もっぱら日本軍による捕虜虐待や、いわゆる「従軍慰安婦」「南京大虐殺」といった自虐史観に基づく日本軍の残虐性が語られていた。それだけに「イギリス式の残虐行為」があったと訴える本書から受けた衝撃は大きかった。
著者は昭和18年に教育召集で歩兵連隊に入隊し、そのまま激戦地のビルマ(現ミャンマー)へ送られた。300人以上いた所属中隊も終戦時は14、15人。終戦直後から22年5月まで捕虜生活を送り、「英国というものに対する燃えるような激しい反感と憎悪を抱いて帰ってきた」。
20年11月に入れられたラングーン(現ヤンゴン)の「アーロン日本降伏軍人収容所」は塵芥糞尿集積所の向かい。すさまじい悪臭とハエの大群が著者に襲いかかる。空き地が無限にある中で「奇蹟のように汚い場所」に置かれたのは、英軍の明確な目的があったと思うしかなかった。
何が残虐かに基準はない。著者は日本人と欧州人のどちらが残虐かを決める共通の尺度はないと前置きし、英軍について「なぐったり蹴ったりの直接行動はほとんどない。しかし、一見いかにも合理的な処置の奥底に、この上なく執拗な、極度の軽蔑と、猫がネズミをなぶるような復讐がこめられていた」と書いた。
最も印象深い事例は、著者が戦時中に捕虜となった投降者から、帰れないかもしれないので日本に知らせてほしいといって聞かされた話だ。イギリス人捕虜虐待の疑いで大河の中州に収容された部隊は飢えのため、病原菌がいると英軍が警告するカニを生で食べずにいられなかった。全員の死を見届けた英兵は、衛生観念不足の日本兵が生ガニを食べた、と報告したという。
産経新聞
著者らは英軍兵舎の掃除や波止場での荷役、物資運搬などに使役され、「無意味で過重で単調な労働の連続は、やがて兵隊たちの反抗心を失わせ、希望をなくさせ、虚脱した人間にさせ」ていく。東洋人を人間扱いしない英兵の絶対的な優越感にも言及した。
日本人の残虐行為とされたものの中には、何千年もの異なる歴史的環境で形成された「ものの考え方の根本的な相違」が誤解を生んだものがあると著者はみた。家畜の飼育や解体に慣れた欧州人と、そうした技術を持たない日本人との違いを論じている。戦場が異民族と接する機会であったなら、現代の移民問題と通じるところがありそうだ。
『アーロン収容所』は昭和48年に文庫版も刊行。発行数は新書が累計34万500部、文庫が同30万3500部に上る。今も売れるのは日本人やビルマ人、インド兵らの性質も論じた著者の観察眼ゆえだろうか。
英軍の食糧をくすねるなど、捕虜生活を面白く描いてもいる。文庫版のあとがきによると、収容所仲間の批評は総じて「収容所生活をすこし楽しげに書き過ぎた」だったという。(寺田理恵)