大和西大寺 | 脱腸亭日常 ~MY TESTAMENT of trifling beetle~

脱腸亭日常 ~MY TESTAMENT of trifling beetle~

名誉も金も、素晴らしい音楽を作り人々を感動させようという気持ちもない、極めて不心得なアマチュアミュージシャンであり、アマチュアアーチストtrifling beetleの遺書。
HP https://www.music-scene.jp/triflingbeetle/

 

 

西大寺という駅がある。

大和西大寺、近鉄の駅である。

次が新大宮、終着は近鉄奈良。

西大寺は橿原方面、難波方面へ続いており、ハブとしてこの駅を利用することが多かった。

 

1996年当時、自分は橿原に住んでいる人と付き合っていた。さらに奈良に友人が多く、京都から近鉄で行く奈良への旅は最大の楽しみだったと思う。

車で行くよりも快適。

近鉄特急は、以前から社内サービスが豊富で有名だった。

例えばおしぼりが配布されるとか(笑)。

 

西大寺は京都と橿原の中間ではないけど、なんとなく西大寺で待ち合わせすることが多かった。

西大寺からあやめ池にも、難波にも、奈良公園にも行った。

懐かしい場所である。

 

駅前に鑑真のレプリカの像があった気がする。

うろ覚えだが。

駅前広場は、なんか広かった。

 

本当に、いつも一緒にいるときは、ずっと手をつないでいた。

共に三十路、同い年で、そう若くはなかったけど、でもお互いが大切すぎて、人目もはばからず、いつもやりすぎていたかもしれない。

夏でも冬でも関係なく、一緒にいるときはずっと手をつなぐことが、とっても心地よく、そしてともに好きだった。

 

あと、雨の日に四ノ宮の疏水公演を、夢遊病者がさまようように歩き回ったこともある。

ずっと手をつないで、ありとあらゆることを話し合っていた。

社会学から、イエモン、つんく、スマスマ、「髪結いの亭主」、ウォッシュレットの効用、迄。

滋賀県の山奥に渓流釣りに行ったこともある。

福井高浜に一泊海水浴にも行った。

夜に見たニュースでオリンピックの日本代表サッカーチームが、なんと、王国ブラジルを破ったことを知って、手を取り合って興奮したことも懐かしい。

初めて見に行った映画は「セブン」だった。

あまりにも後味が悪く、改めて観に行ったのは「ベイブ」だった。

彼女の職場の阿部野のECCの二階がカラオケボックスで、そこで過ごしたこともあった。

うどん&ビリヤードの店で、彼女の仕事が跳ねるのを待っていたし、天王寺動物園が見下ろせるレストラン最上階で彼女を泣かせてしまったこともあった。

須磨に行ったこと、西宮の大谷美術館のボローニャ絵本展、芦屋の墓参り、三宮の餃子専門店。阪急高架下。

大津の花火大会を見に行ったこともあった。

浜大津に釣りに行ったこともある。

モデルハウスを回りまくったこともあった。

うちの父に紹介したことも懐かしい。

ほとんど他人になつかない三毛のチャコが、初対面の彼女にいきなりなついていたことも覚えている。

 

結婚するんだろうなという予感もあったし、ともにそのつもりだった。

でも、うまくいかず、本当に悲しい別れ方をし、その後も一年近く、くっついたり離れたり、なんか愚にもつかないことを繰り返していた気がする。

だらだらと、くだらない、取るに足らない、エゴの押し付け合い。

本当にごめんなさい。

今もそう思う。

 

五月晴れの南港のデッキで、クロスワードパズルをしながら彼女を待っていたことも懐かしい。

持ちたての携帯にピッチから着信がやっと来た時には、泣きそうになった。

 

最後に話したのは1997年の梅雨の最中、真夏の始まりのころだったか。

前日、飲み会帰りのタクシーの中で聞いていたニュースでは、神戸で子供の首を切り落とした犯人「サカキバラ」が捕まったことが報道されていた。

前日の大雨が嘘のような快晴。

灼熱地獄である。

朝から二日酔いで頭がぐるぐる回り気分は最悪だった。

 

その日、なんとなく会うことになっていたけど、連絡はなく、時間に待ち合わせ場所にも来なかったので、色んなことを察して、やっと踏ん切りをつけたというか。

踵を返し、さっと帰宅した。

ある意味、すがすがしかったと、記憶している。

でも複雑、涙とか湿っぽさはとかはない。

そんな何とも言えない、六月最期の日曜の夕方だった。

 

夜、電話をかけた。

少し話した後、もう会うことも、電話も、今後はやめましょうと、自分から話した。

少し間があったかな、「うん」とだけ言われたような気がする。

その後、なんかいろいろと家に送られてきたっけ。

 

もう二度と会えないであろう痛みを、奥歯に挟まったものを取り除く快適さとの秤にかけ、後者を選んだ。

後悔があるかといえば、あったと思う。

でも、それ以上に、もうなんかくたびれ果てていた。

疲れていたし、その疲れや苦悩を乗り越えて彼女をハッピーにさせる自信なんて、どこにもなかった。

もう別の道を行こう。

それでいいと、自分では思ったし、今もそう。

あっという間のさよならだった。

それで、よかった。

 

その後、時間は恐るべき速さで流れに流れ、20世紀は終わり、自分もいつの間にか父親となり、気が付けばすべての様が変わっている。

あれから彼女は幸せになっているのだろうと、自分は信じていたし、そんなハッピーエンドであろう顛末の、勝手な想像が、少しだけやさしく、自分を慰めてくれることも、実はあった。

美辞麗句ではなく、真実の気持ち、である。

 

実際には、神奈川在住で母になっているということも、実は人づてに聞いて、なんかほっとした。

母になりたがっていた彼女、本当によかった、救われたと思う。ひと時、一緒にいてくれて、手をつないでくれて、ほんまにありがとうと、心からそう言いたい。

 

あの懐かしい大和西大寺駅の駅前近くで、元首相が銃撃、射殺されたというニュースを見て、真っ先に彼女のことを思い出した次第。