五十肩だった腕の痛みがだんだんと左の二の腕、ついてはひじ、手首のあたりへと広がってきているのを感じた。
整形に行っても首のヘルニアであって、五十肩ではないといわれた。
何なのかこの痛みは。強烈に痛いわけでもないが、常時気にかかる程度というのが煩わしい。
腱鞘炎ってこういう感じだろうか。
ヘルニアでも、五十肩でも、実はないのではなかろうか。
どうも様子がおかしい。
がんの再発したものが、こんなところに転移しているとか、そういうことじゃないことを祈りたいな。がんって、思いがけないところに飛んでゆくそうだからね。昨年までの診断でも、肝臓にがんの芽がある可能性は否めないとのことだったし。
ただがん再発なら、自分的にはウエルカムOKである。
延命治療はしない。緩和オンリー。流れは一切を自然に任せる。Let it beである。
死にたくないとかそういうことじゃなく、めんどくさいのだ。延命にかかる手間も金も、すべてが。煩わしいこと限りない。
というのも、現在がんと「闘っている」人には大ひんしゅくを買うことを承知の上で書くが、自分的には、人生の終末が来たことは何にもまして大歓迎なのである。それ以外の何でもない。
心残りは多少、ある、正直。やり残してしまうことに対してもしかり。
ただもう毎月の経済的工面にきゅうきゅうして、それで疲弊し、いろいろなものをあきらめながら、納得を重ねて、こころを削り、ただ生きてゆくだけの時間なんかはは、もういらない。そんな生活を後4半世紀とか、考えただけでぞっとする。あぁ恥ずかしい。
そうでなくても「生きている資格も値打ちもあるのだろうか?」常にそう思いながら生きている身だ。
散るならあっという間に、誰にもこれ以上いやな思いをさせずに、ただあっさりと死にたいのである。
がん再発なら、そのための暗黙の指示と、自分はとらえることにしている。
ところで、病は貧困を呼ぶのだ。と、同時に貧困は病を呼び込む。つるべな関係なのかもしれない。
自分の貧しさは、身勝手で気まま、気まぐれな自分の選択の繰り返しの下に、結果、必然的に醸成されたものであって、それは自己責任甚だしい限りの、単なる我がままにまみれた副産物に過ぎないと思うのだ。
それを「貧困」と堂々と呼ぶのはどうなのか?厚かましくはないのか?本当の意味での貧困に、そもそも最初から選択の余地なんてないと思うからである。
だから何かよー知らんけど、申し訳ない気分でいっぱいになることがある。
鶴田浩二主演の「男たちの旅路で」、鶴田さんは特攻兵の生き残りを演じていたが、申し訳ない気持ちでいっぱいだと、心情を吐露する場面がある。
そうか、そういう気分なんだな。
奥崎謙三氏が著作の中で繰り返し書いていた気持ちも同じもの。生き残ったことは、申し訳ない、そう感じるものなのだなぁ。
サバイバー=罪みたく。
奥崎謙三さんの主演ドキュメンタリー「ゆきゆきて、神軍」のインパクトは依然見たときと全く変わりなかった。
ある意味もっとパワーアップしているのかもしれない。
この奥崎謙三という人の存在感は昭和、平成、令和を超えてもう普遍的に圧倒的と言わざるを得ない。この映画、よく作ったと思うし、よくぞ残した。
ドキュメンタリーの手本といえるのかもしれない。カメラが回っている前で平然と暴力をふるい、「良い結果をもたらすなら暴力大歓迎。大いに行使したい」とうそぶく。当時ならまだしも、こんな時代に、すごいことである。
自分は体罰は限定的にOKである。つまり、奥崎氏と考えは、根っこでは全く同じである。良い結果をもたらす暴力は、確かにあると思うからだ。
その中にはかなりの限定条件が含まれて来るとは思うが、何からなにまで、すべて暴力はあかんというのは、自分は信じられないし、それは間違っていると思う。
ただこういう時代なので、その行使の是非は、いったん横において、ということにすぎないのだが。
話が変わるが、同じドキュメンタリーで「A」「A2」という映画があった。これらもドキュメンタリーとしてほんとうに良くできていたと思う。
思うが、「ゆきゆきて」の方の迫力にはどうもかなわない。あまりにも臨場感があり、迫真なので、ほんまはやらせでしょと突っ込みたくなるほどだ。
それほどの臨場感。う~んやらせじゃないでしょうね、原監督?
ところで、この映画の原作ではないのだが、重要なる関連本として「ヤマザキ、天皇を撃て!」がある。この本があったから「ゆきゆきて、神軍」はできたことに間違いはなかろう。この本もまたパンチが効いている。
ついつい深みに引き込まれた。