68年(昭和43年)8月、WBC第2代会長ハスティアノ・モンタノ(比)氏は、WBAを激しく批判し比国のWBA脱退を宣言。以後、二つの団体が世界王者を認定することになる。JBCはWBCへ加盟せず、二つの世界王座認定団体統一の実現に奔走することになる。
WBC非公認のJBCが、WBC世界戦国内開催を初めて認めたのは、1970年(昭和45年)1月6日のフェザー級タイトルマッチ、王者ジョニー・ファメション(豪)vs挑戦者ファイティング原田(笹崎)戦が最初。
WBC世界戦国内解禁への道をたどってみる。
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68年9月27日、海外修行9ヶ月目で世界王座挑戦のチャンスを掴んだ西城正三(協栄)選手は、米ロサンゼルスでラウル・ロハス(米)を破りWBA世界フェザー級王座を獲得。ハンサムなマスクも手伝い、シンデレラ・ボーイの人気は一気に爆発。69年2月9日、指名挑戦者ペドロ・ゴメス(ベネズエラ)を文句ない判定で降し西城選手は初防衛に成功した。
世界バンタム級王座を失った原田選手はフェザー級へ転向。68年6月、その緒戦で世界ランカードワイト・ホーキンス(米)を破り 、9月には日本王者千葉信男(ヨネクラ)選手を7回KO。
フェザー級でもその実力を示した原田選手は、世界チャンピオン西城選手への挑戦を熱望する。協栄ジム金平会長と、笹崎ジム笹崎会長が話し合い、夢の西城vs原田戦は実現へと向った。
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その前哨戦として組まれたのが、69年4月2日のアリゾナ州Sフェザー級王者アルトン・コルター(米)vs世界フェザー級2位ファイティング原田の一戦。予想は原田選手圧倒的有利。これに勝利して西城選手への挑戦に弾みをつけるだろうというのが大方の予想。
しかし、原田選手は長身コルターを追い回すのだが、度々喰らったカウンターをポイントに取られ、1-2(47-45、46-48、47-48)の判定を落とす大失態を演じてしまう。
「僕が出て行かなければ試合にならなかった」
試合後の笹崎会長、原田選手はそれほどの落胆を見せていない。いや、むしろコルター戦の鬱憤を西城戦ではらそうと強気のKO宣言。「西城のようなタイプは大好きなんだ」。試合後、原田選手の世界ランクは7位に後退した。
「原田君とはやりません。負けてしまった以上、挑戦者には選べない」
金平会長の発表に、笹崎会長は立腹。「いくら原田が負けたからって言って、キャンセルはひどい」。ともかく夢の対決はお流れ。西城選手はホセ・ルイス・ピメンテル(メキシコ)を次の挑戦者に選んだ。
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6月4日、再起戦を飾った原田選手にホセ・レグラ(キューバ→スペイン)を破りWBC世界フェザー級の新王者となっていたジョニー・ファメション(豪)から「挑戦しないか」と声がかかる。
フランスから移民してきたファメションの人気は地元でいまひとつ。人気のあるライオネル・ローズ(豪)と好試合を演じている原田選手は地名度があり、豪州のファンにも受けがいい。そんなプロモーターの思惑。
西城選手への挑戦が実現不可能となっていた笹崎&原田コンビは、この話に飛びついた。「勝って、西城君と雌雄を決する!」。
7月28日シドニーで開催されたファメションの初防衛戦は、世紀の大誤審!ファメションvs原田Ⅰ 。原田選手の3階級制覇はまさに幻に終わってしまう。
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この試合の判定問題にJBCが動く。8月1日。JBC菊池事務局長(上写真)は笹崎会長、原田選手、現地で取材した記者、TV関係者を招き、試合の詳細な報告と事情を聴取。その結果は。
①レフェリーは、試合直前ファメションの控え室に10分間ほど入室していた。これはニュートラルであるレフェリーとしては違反行為である。
②14ラウンドにファメションがダウンしたとき、レフェリーのカウントが遅く、しかもレフェリーは立ち上がっても足がふらついているファメションの両手を支えてカウントしていた。
③11ラウンドにも同じく、ファメションがダウンした時、カウントを中断し、ファメションに話しかけていた。試合後、このことについての記者の質問に対して、ペップ・レフェリーは、「大丈夫か」と声をかけたと述べている。しかし、このようにカウント中に話しかけることは違反であり、カウントは継続するものだった。
④若干優勢のラウンドで5-4がスコアされながら、2R、11R、14Rに原田がファメションにダウンを与えた時のスコアは全て5-4、両者の間になんらの相違もなかった。
試合前のルール打ち合わせでは採点方法も日本と全く同じで5-3、5-2も当然記録されることに決まっていたが、実際にはほとんど考慮されず、採点方法に疑義がもたれた。
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⑤5Rの原田のダウンは、スリップとも思われるものであったが、レフェリーはタイムキーパー(らしきもの)からの合図でカウントを開始した。ダウンの宣言はレフェリーの独自の判断ですべきものである。この点、レフェリーは違反を犯している。
⑥タイムキーパーの時計が不正確であった。ファイトの時間はやや正確だったが、一分間の休憩は、一分を超えること8~10秒のことが度々あった。それも、ファメションの劣勢の後半に多かった。
⑦反則についても、原田のローブローは二回にすぎなかったが、ファメションがクリンチの際にグローブで原田選手の顔を度々ブラッシングしていたが、レフェリーは見過ごしていた。試合後のインタビューでレフェリーは、「原田側に反則が多かった」といっている。
しかし、ファメションの上記反則もまた明らかに認められているものである。いずれにしても反則はその点時点で注意し、そのうえで採点上考慮されるべきものである。
⑧試合の公正な管理能力に欠けていた。我々は、BBBC(英国コミッション)もしくはWBCの責任者立会いによって試合が行われるものと思われていたが、実際にはプロモーターがいっさいその衝にあたっていた。
そして同日、菊池事務局長からWBCモンタノ会長宛「WBC会長として事情を調査された上両者の再戦を勧告されたい」と打電された。
後便では、前記事実と、今後WBCが承認する試合は正式コミッションの管理またはその責任者の立会いによって行われるべきことを主張している。
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JBCは未公認のWBCタイトル戦を例外として認める方向で動いた。一方、WBA王者西城選手の金平会長は、原田選手の挑戦を再び考え始める。すぐに笹崎会長(上写真)と接触。
「日本ボクシング界の為にやろう」
西城選手が幻のWBC王者原田選手の挑戦を受けることで話は合意に達する。8月24日から米国で開催されるWBA総会に出席する菊池氏は、原田選手側から「西城に挑戦するので、ランキングを考慮して欲しい」との申し入れを受けていた。原田選手のWBAランキングは4位に上昇。
そんな最中、ファメションのプロモーター、マイク・バレット(英)氏が来日する。時を同じくWBCノモンタノ会長もお忍びで来日との情報が流れる。世界戦ビジネスは混沌の様相を呈してきた。
= 続 く=