読んだ本
日本の社会主義――原爆反対・原発推進の論理
加藤哲郎
岩波現代全書
2013年12月
*以下は、昨日の続きで、戦後の言説の流れを追いかけている。
前半については、こちら↓
原爆に反対し原発を推進した「日本の社会主義」(加藤哲郎)、を読む
http://ameblo.jp/ohjing/entry-11868647069.html
なお、後半は、ほとんど武谷の思想的変遷と共産党との関係を軸に述べられていので、ここでは、武谷の言説の変遷に焦点をあててまとめる。
ひとこと感想
確かにこれまで共産党も社会党も「原水爆反対、原発推進」という非常に中途半端な主張を続けてきたし、それぞれの事情でかなり方針が変わってきた。しかし本書を読むと、多くの人たちが「原発」をめぐって苦悩してきたという軌跡にほかならず、だから日本の左翼は駄目、と訳知り顔で言ってはならなず、この苦悩をむしろ真剣に受けとめ共有することからしかはじまらない、ということを思い知らされる。
***
以下、本書に書かれていたことのうち、主に武谷の言説を中心にひろいあげてみる。
***
・占領期においては、ヒロシマ、ナガサキの実態はGHQによって厳しく隠蔽されたが、同時に、「原爆」「原子力」「アトム」「ピカドン」などにふれた膨大な文献も残されている。
・「戦前来の「原子力の夢」は、ヒロシマ、ナガサキを経ても健在であった。いや「科学技術立国」「文化国家」のかけ声のもとで、むしろ増幅されていた。」(140ページ
・「アトム」全逓信労働組合広島郵便局支部機関紙、1947年9月20日
・志賀義雄「原子力と世界国家」
(「新しい世界」日本共産党出版部、1948年8月)
・コラム「原爆室」(「暁星」北越戸田労働組合機関誌、1948年9月5日)
・「教養」欄で「第二の火の発見――原子力時代」が論じられる
(「国鉄通信教育」国鉄労組東京鉄道教習所、1948年12月)
・「原爆」宇部セメント労働組合青年部機関誌、1949年3月1日
・徳田球一「原子爆弾と世界恐慌を語る」(「新しい世界」1949年11月18日談話)
・徳田球一「原子爆弾と世界恐慌」(政治パンフレット、1950年?)
・「資本主義法則と科学技術」民科技術部会編、真理社、1950年6月
(平野義太郎「資本主義法則と科学技術」
武谷三男「原子力産業と科学技術の行方」
徳田球一「科学と技術におけるマルクス・レーニン主義の勝利」
***
・ 1946年、武谷三男は[革命期における思惟の基準――自然科学者の立場から」(1月執筆、「自然科学」民科自然科学部会機関誌、6月号掲載予定だったが 掲載されなかった)で、原爆が「反ファッショ的」「人道的熱意」の産物であると指摘し、むしろ「日本の野蛮に対する青天の霹靂」であったとみなす。
・1946年、武谷三男は、共産党の科学技術テーゼ作成に協力。
・1947年、武谷三男は「原子力時代」(「日本評論」10月号)でも同様のことを述べている。
・1948年、武谷三男は「原子力とマルクス主義」(「社会」8月号)で、はっきりと原子力を「いいようにしか使えない」もので科学ならびに原子力至上主義的な発言を行っている。
・同年、野間宏との対談「現代知識人の立場」(「思索6月号)では、原爆は平和のためにあるものと主張。
・同年、武谷は、「原子力の話」(「子供の広場」11月号)でも原子力性善説を主張。
・1949年8月にソ連が原爆実験を成功させたことによって、原子力はマルクス主義においてこそ生かされるという武谷の考えが左翼のなかで正統化されてゆく。
・プランゲ文庫DBでは湯川秀樹(134)に続いて武谷(128)がもっとも記事数が多い。
・そのあと、渡辺慧(88)、仁科芳雄(68)、崎川範行(62)、嵯峨根遼吉(37)、藤岡由夫(37)、田中慎次郎(32)、伏見康治(30)が続く。
・こうした武谷の考えは、共産党に、後にまで大きく影響を及ぼす。
・ ただし、1950年頃から武谷は、微妙に視点をずらしている。すなわち、原子力性善説はあくまでも社会主義国において成立するものであり、日本への原爆投 下のように米国など資本主義国においてはそれを悪用している、ということと、日本が唯一の被爆国であるというよく分からない「優越感」に則った主張が行わ れる。
・1952年、サンフランシスコ講和条約時においては、原子力は、政治的に言えば、再軍備でも非武装中立でもない、その中間の可能性をつくりだすことができると考えられ、社会党も中曽根らの原子力予算の動きに同調する。
・武谷もこの流れに寄り添い、1952年には「原子力を平和に使えば」(「婦人画報」8月号)を書いている。
・また同年、「改造」11月号に、被爆国だからこそ原子力を推進するという考えを強調した。
・その後、武谷の考えは「自主・民主・公開」という原子力の平和利用三原則となって一般化する。
・確かにここには「安全」といった概念は含まれていない。
・1954年3月、原子力予算が通過するとともに、第五福竜丸事故が起こるが、読売新聞は「モルモットにはなりたくない、原子力を平和に」(3月21日)と訴える。この二重性はその後引き継がれる。
・1954年11月、中曽根の原子力予算案には反対していた社会党左派と右派があわせて政策大綱において「原子力の国際管理」「原子兵器の製造、実験、保持、使用の禁止」を訴えるとともに「原子力の平和利用」を明記する。
・1955年8月の国連原子力平和利用国際会議には、中曽根(民主党に移動)、前田正男(自由党)に加えて、社会党左派と右派の4人が参加(東電から400万円の寄付)。
・ほぼ同じ頃、原水禁世界大会が開催され、見事に「原水爆の禁止」と「原子力の平和利用」が併存することとなった。
・1955年12月、原子力基本法が自民党、社会党左右両派の賛成のもとで成立。
・1956年1月、原子力委員会に、正力松太郎、石川一郎、藤岡由夫、湯川秀樹、そして社会党と総評の推薦による有澤廣巳。
・共産党は法案には反対していたが、「原子力の平和利用」は支持した。
ここに至って私たちは、唯一の被爆国であることを「言い訳」にして、自分たちこそ「原子力の平和利用」を推進すべき立場にある、と考えたことが分かる。
そしてここに「欠落しているのは、「安全」と「死の灰」の問題」(191ページ)である。
それこそ科学的な見地からいえば、原子力による「放射能」の問題は、決して「原爆」にかぎるはずがなく、原発であれ、医療処置における放射線利用であれ、そ の他さまざまな利用であれ、まったく同様に起こりうるのであるが、なぜか私たちは、「爆弾」以外の「放射能」の危険性には、完全に目をつぶってきたのであ る。
確かに、敗戦直後はGHQによる情報統制などがあったために、原爆でさえ、放射能被害については、それほど大々的に論じられることはなかった。
しかし、そうは言っても、第五福竜丸事故をはじめ、その後の米ソをはじめとした各国の核実験に対しても、私たちは「放射能」被害を柱に、もっと強く警告することもできたはずである。
だが、そうしなかった。
あえて言えば、「反戦」すなわち「平和」を希求するがあまりに、「平時」における「原子力」に対する意識が恐ろしいほど甘くなっていた、ということであろう。
***
さて、本書に戻るが、再び武谷の言説の変容に焦点があてられる。
・1954年の第五福竜丸事故を経て、武谷は、原子力の平和利用に慎重になる。また同時にそこには、水爆の登場やスターリン死後の社会主義の低迷なども理由に挙げられ、放射能の危険性を告発しはじめる。
・1954年6月5日「読売新聞」では、「「死の灰」の処理、人体に対する防護の研究を十分にやってからでないと、取返しのつかぬことになる」(194ページ)と警告する。
・同年8月6日「河北新報」では、原子力発電が「桁違いに高級かつ困難な代物であり、現在その幾多山積している難問はまだほとんど未解決のままである」(194ページ)と、はっきりと「原発」に対して批判的な目を向けている。
・同年の「改造」9月号では、「放射線というのは、どんな微量でも身体の細胞をこわす」(195ページ)と明言するに至る。
・1955年、武谷は「日本の原子力政策――空さわぎでなく、基礎的な準備を」(「中央公論」2月号)で、まだ原子力が実用的、技術的「適用」の段階にないことを強調し、「基礎的な準備」すなわち科学的研究の段階にあるとした。
・同年、「「原子力時代」への考え方」(「エコノミスト」9月号)でも、原発が実用化される段階に今はないとする。
・1957年にも、「誤れる水爆主義者たち」(「中央公論」7月号)でも、低線量であれ放射能は有害であるとする。
・1958年には、久野収との対談(「思想」6月号)で、はっきりと、安全性や許容量が軽視されているがために現行の原子力政策を批判、反原発の住民運動を支援しはじめる。
***
・他方、共産党は、ソ連の原発開発に賛同の意を表してゆく。
ここで、興味深い人名と論考が登場する。
永田博 原子力問題について 前衛 1956年7月号
一瞬驚く。あの、戦前に技術論を展開した「永田広志」に似た名前であるからだ。
しかもこの内容が、共産党は原子力の平和利用を推進する、というものである。
すなわち、これまで武谷を論拠にしてきた共産党の原子力「観」がここにきて変わり、永田の名を借りることになった、と考えられなくもない。
ただし、厄介なのは、この時点で永田はすでに没しており、これを書いたのは長田本人では決してなく、永田の名を借りたにすぎない。
また、武谷と永田は、それぞれ当時の技術観の両極と言われ、「意識適用説」と「労働手段体系説」とされるのだが、私には、この両者の根本的な差異が分からない。
武谷の側から言えば、技術とは、あくまでも科学的認識や実験をくりかえし、そのうえで「安全」であることが保障されてはじめて、技術として「適用」するものだ、ということになり、まさしくこれが「意識適応説」ということになる。
他方、永田(つまり共産党)の「労働手段体系説」というのは、技術というのは使い方次第であって、使いながら安全性を高めてゆくもので、ましてや自分たちが正しい政治主張(実践)をしていれば、安全に使える、と言っているようなものである。
この両者の違いは、こういう言い方のほうがもっと分かりやすいかもしれない。
原発を今使うのは少なくともやめて、安全が確保されてから使おうと考えるのか、原発がある以上それを否定せずに使いながら安全にしてゆくことを目指すのか。
武谷は、前者であり、永田すなわち共産党は後者である。いや、共産党のみならず、私たちは後者を支持してきた、と言える。
後者のうち、共産党とそれ以外を分かつのは、原発を使うことこそが、人類の使命であり、それをやめることはすなわち、人類の進歩を拒否することだ、という、あの吉本隆明が述べた論調に連なっているのである。
し かし、当の共産党は、「3.11」以降、知らぬまにこれまでの主義主張を修正し、最初から共産党は原発に反対してきた政党として自らを説明している(不破 哲三「科学の目で原発災害を考える」「しんぶん赤旗」2014年5月14日)ので、どうやらこうした考えは現在では、吉本隆明を代表格とみなすことになる だろうか。
いずれにせよ、こうした二つの技術観は、今でも非常に重要な論点であることは間違いないので、いずれあらためてじっくりと検討したい。
***
それでは共産党や社会主義の側はどうだったのだろうか。
もっとも重要なのは、原発に対する社会運動さえも、彼らが扱いあぐねていたという事実である。
論拠として加藤は、「日本労働年鑑」をもちだす。
1953年以降「日本労働年鑑」では「平和運動」として「原水禁運動」が毎年大きく扱われる。原潜寄港反対運動もこの流れで扱われる。
原発については、1973年になってはじめて「日本労働年鑑」でとりあげられるが、それは「公害反対闘争」の項目に含まれ、扱いはきわめて小さかった。
1986年には「日本労働年鑑」で一度「反核」のなかに「原発」が含まれ、1989年には「反原発運動」は扱いが大きくなる。ところが1990年以降は「原水爆」と「原発」は別のテーマとしてあつかわれてゆく。
***
・武谷は、1972年、原発を「夢の技術にすぎない」「技術として全く完成されていない」とし「そのまま続けていったら、非常におそるべきことがおこる」(「経済評論」6月号)とまで述べるに至る。
・1975年に武谷は、高木仁三郎とともに原子力情報資料室を設立し代表となる
・1976年に武谷は「原子力発電」(岩波新書)を刊行し、明確に「原発批判」の立場を明確にする。
***
このように、本書では、大半を武谷の思索を追いかけることに費やしているが、原発を推進し続けてきた人物として、平野義太郎、有澤廣巳の二人が簡単にとりあげられている。
***
加藤は、平野義太郎こそ、「原子力の平和利用」を最初にはっきりと述べた「社会科学者」だ、とみなす。
・1948年、平野は「戦争と平和における科学の役割」(「中央公論」4月号)において、原子力の両面性を語り、平和の面を促進すべきだと主張する。
・同年、平野は「世界平和における科学の役割」(「国民の科学」6月号)において、原発や放射線治療などを平和利用の具体例として挙げる。
(以下、有澤廣巳についての言及も含めて省略)
***
本書を読むと共産党の原発政策(すなわち「理解」「認識」)は以下のような変遷を遂げたといえる。
当初は武谷の考えを下敷きに、原発など平和利用は推進すべきとした。また、軍事利用についてはソ連は肯定し米国は否定した。
社会党などは1970年代から次第に原発に反対しはじめるが、共産党は中ソの軍事利用には反対しはじめるが、原発は変わらず推進する立場をとった。
チェ ルノブイリ事故に対して共産党は、あくまでも「社会主義生成期」の「未熟な技術」が理由での事故であるという釈明をするが、次第に「段階的撤退」を述べは じめるが、2000年以降も「原子力の平和利用」の推進は路線を変えずに現在に至っているところは、かなりの一貫性がある。
しかしその「科学的」な認識力は、残念ながら「原発」に対しては十分に向けられていなかったのではないか、と言わざるを得ない。
「3.11」以降は、すでに自明となったが、今まではあいまいにされてきたこと、それは、原発による「潜在的核武装」という視点である。
ここには二つの意味がある。
まず、原発を本当に科学的に認識、把握し、その問題点や可能性を精査したうえで、これまでの主義主張があったのかどうか。
第二に、原発から産み出されるプルトニウムを軍事的に利用しうるという「潜在的核武装」という考えに対して、どこまで理解していたのか、また、もし理解していたとしたら、どのように理解していたのか。
できれば、もう少しつきつめたいところだが、本当の意味でつきつめねばならないのは、己の思考や行動、生活様式である。
日本の社会主義――原爆反対・原発推進の論理
加藤哲郎
岩波現代全書
2013年12月
*以下は、昨日の続きで、戦後の言説の流れを追いかけている。
前半については、こちら↓
原爆に反対し原発を推進した「日本の社会主義」(加藤哲郎)、を読む
http://ameblo.jp/ohjing/entry-11868647069.html
なお、後半は、ほとんど武谷の思想的変遷と共産党との関係を軸に述べられていので、ここでは、武谷の言説の変遷に焦点をあててまとめる。
ひとこと感想
確かにこれまで共産党も社会党も「原水爆反対、原発推進」という非常に中途半端な主張を続けてきたし、それぞれの事情でかなり方針が変わってきた。しかし本書を読むと、多くの人たちが「原発」をめぐって苦悩してきたという軌跡にほかならず、だから日本の左翼は駄目、と訳知り顔で言ってはならなず、この苦悩をむしろ真剣に受けとめ共有することからしかはじまらない、ということを思い知らされる。
***
以下、本書に書かれていたことのうち、主に武谷の言説を中心にひろいあげてみる。
***
・占領期においては、ヒロシマ、ナガサキの実態はGHQによって厳しく隠蔽されたが、同時に、「原爆」「原子力」「アトム」「ピカドン」などにふれた膨大な文献も残されている。
・「戦前来の「原子力の夢」は、ヒロシマ、ナガサキを経ても健在であった。いや「科学技術立国」「文化国家」のかけ声のもとで、むしろ増幅されていた。」(140ページ
・「アトム」全逓信労働組合広島郵便局支部機関紙、1947年9月20日
・志賀義雄「原子力と世界国家」
(「新しい世界」日本共産党出版部、1948年8月)
・コラム「原爆室」(「暁星」北越戸田労働組合機関誌、1948年9月5日)
・「教養」欄で「第二の火の発見――原子力時代」が論じられる
(「国鉄通信教育」国鉄労組東京鉄道教習所、1948年12月)
・「原爆」宇部セメント労働組合青年部機関誌、1949年3月1日
・徳田球一「原子爆弾と世界恐慌を語る」(「新しい世界」1949年11月18日談話)
・徳田球一「原子爆弾と世界恐慌」(政治パンフレット、1950年?)
・「資本主義法則と科学技術」民科技術部会編、真理社、1950年6月
(平野義太郎「資本主義法則と科学技術」
武谷三男「原子力産業と科学技術の行方」
徳田球一「科学と技術におけるマルクス・レーニン主義の勝利」
***
・ 1946年、武谷三男は[革命期における思惟の基準――自然科学者の立場から」(1月執筆、「自然科学」民科自然科学部会機関誌、6月号掲載予定だったが 掲載されなかった)で、原爆が「反ファッショ的」「人道的熱意」の産物であると指摘し、むしろ「日本の野蛮に対する青天の霹靂」であったとみなす。
・1946年、武谷三男は、共産党の科学技術テーゼ作成に協力。
・1947年、武谷三男は「原子力時代」(「日本評論」10月号)でも同様のことを述べている。
・1948年、武谷三男は「原子力とマルクス主義」(「社会」8月号)で、はっきりと原子力を「いいようにしか使えない」もので科学ならびに原子力至上主義的な発言を行っている。
・同年、野間宏との対談「現代知識人の立場」(「思索6月号)では、原爆は平和のためにあるものと主張。
・同年、武谷は、「原子力の話」(「子供の広場」11月号)でも原子力性善説を主張。
・1949年8月にソ連が原爆実験を成功させたことによって、原子力はマルクス主義においてこそ生かされるという武谷の考えが左翼のなかで正統化されてゆく。
・プランゲ文庫DBでは湯川秀樹(134)に続いて武谷(128)がもっとも記事数が多い。
・そのあと、渡辺慧(88)、仁科芳雄(68)、崎川範行(62)、嵯峨根遼吉(37)、藤岡由夫(37)、田中慎次郎(32)、伏見康治(30)が続く。
・こうした武谷の考えは、共産党に、後にまで大きく影響を及ぼす。
・ ただし、1950年頃から武谷は、微妙に視点をずらしている。すなわち、原子力性善説はあくまでも社会主義国において成立するものであり、日本への原爆投 下のように米国など資本主義国においてはそれを悪用している、ということと、日本が唯一の被爆国であるというよく分からない「優越感」に則った主張が行わ れる。
・1952年、サンフランシスコ講和条約時においては、原子力は、政治的に言えば、再軍備でも非武装中立でもない、その中間の可能性をつくりだすことができると考えられ、社会党も中曽根らの原子力予算の動きに同調する。
・武谷もこの流れに寄り添い、1952年には「原子力を平和に使えば」(「婦人画報」8月号)を書いている。
・また同年、「改造」11月号に、被爆国だからこそ原子力を推進するという考えを強調した。
・その後、武谷の考えは「自主・民主・公開」という原子力の平和利用三原則となって一般化する。
・確かにここには「安全」といった概念は含まれていない。
・1954年3月、原子力予算が通過するとともに、第五福竜丸事故が起こるが、読売新聞は「モルモットにはなりたくない、原子力を平和に」(3月21日)と訴える。この二重性はその後引き継がれる。
・1954年11月、中曽根の原子力予算案には反対していた社会党左派と右派があわせて政策大綱において「原子力の国際管理」「原子兵器の製造、実験、保持、使用の禁止」を訴えるとともに「原子力の平和利用」を明記する。
・1955年8月の国連原子力平和利用国際会議には、中曽根(民主党に移動)、前田正男(自由党)に加えて、社会党左派と右派の4人が参加(東電から400万円の寄付)。
・ほぼ同じ頃、原水禁世界大会が開催され、見事に「原水爆の禁止」と「原子力の平和利用」が併存することとなった。
・1955年12月、原子力基本法が自民党、社会党左右両派の賛成のもとで成立。
・1956年1月、原子力委員会に、正力松太郎、石川一郎、藤岡由夫、湯川秀樹、そして社会党と総評の推薦による有澤廣巳。
・共産党は法案には反対していたが、「原子力の平和利用」は支持した。
ここに至って私たちは、唯一の被爆国であることを「言い訳」にして、自分たちこそ「原子力の平和利用」を推進すべき立場にある、と考えたことが分かる。
そしてここに「欠落しているのは、「安全」と「死の灰」の問題」(191ページ)である。
それこそ科学的な見地からいえば、原子力による「放射能」の問題は、決して「原爆」にかぎるはずがなく、原発であれ、医療処置における放射線利用であれ、そ の他さまざまな利用であれ、まったく同様に起こりうるのであるが、なぜか私たちは、「爆弾」以外の「放射能」の危険性には、完全に目をつぶってきたのであ る。
確かに、敗戦直後はGHQによる情報統制などがあったために、原爆でさえ、放射能被害については、それほど大々的に論じられることはなかった。
しかし、そうは言っても、第五福竜丸事故をはじめ、その後の米ソをはじめとした各国の核実験に対しても、私たちは「放射能」被害を柱に、もっと強く警告することもできたはずである。
だが、そうしなかった。
あえて言えば、「反戦」すなわち「平和」を希求するがあまりに、「平時」における「原子力」に対する意識が恐ろしいほど甘くなっていた、ということであろう。
***
さて、本書に戻るが、再び武谷の言説の変容に焦点があてられる。
・1954年の第五福竜丸事故を経て、武谷は、原子力の平和利用に慎重になる。また同時にそこには、水爆の登場やスターリン死後の社会主義の低迷なども理由に挙げられ、放射能の危険性を告発しはじめる。
・1954年6月5日「読売新聞」では、「「死の灰」の処理、人体に対する防護の研究を十分にやってからでないと、取返しのつかぬことになる」(194ページ)と警告する。
・同年8月6日「河北新報」では、原子力発電が「桁違いに高級かつ困難な代物であり、現在その幾多山積している難問はまだほとんど未解決のままである」(194ページ)と、はっきりと「原発」に対して批判的な目を向けている。
・同年の「改造」9月号では、「放射線というのは、どんな微量でも身体の細胞をこわす」(195ページ)と明言するに至る。
・1955年、武谷は「日本の原子力政策――空さわぎでなく、基礎的な準備を」(「中央公論」2月号)で、まだ原子力が実用的、技術的「適用」の段階にないことを強調し、「基礎的な準備」すなわち科学的研究の段階にあるとした。
・同年、「「原子力時代」への考え方」(「エコノミスト」9月号)でも、原発が実用化される段階に今はないとする。
・1957年にも、「誤れる水爆主義者たち」(「中央公論」7月号)でも、低線量であれ放射能は有害であるとする。
・1958年には、久野収との対談(「思想」6月号)で、はっきりと、安全性や許容量が軽視されているがために現行の原子力政策を批判、反原発の住民運動を支援しはじめる。
***
・他方、共産党は、ソ連の原発開発に賛同の意を表してゆく。
ここで、興味深い人名と論考が登場する。
永田博 原子力問題について 前衛 1956年7月号
一瞬驚く。あの、戦前に技術論を展開した「永田広志」に似た名前であるからだ。
しかもこの内容が、共産党は原子力の平和利用を推進する、というものである。
すなわち、これまで武谷を論拠にしてきた共産党の原子力「観」がここにきて変わり、永田の名を借りることになった、と考えられなくもない。
ただし、厄介なのは、この時点で永田はすでに没しており、これを書いたのは長田本人では決してなく、永田の名を借りたにすぎない。
また、武谷と永田は、それぞれ当時の技術観の両極と言われ、「意識適用説」と「労働手段体系説」とされるのだが、私には、この両者の根本的な差異が分からない。
武谷の側から言えば、技術とは、あくまでも科学的認識や実験をくりかえし、そのうえで「安全」であることが保障されてはじめて、技術として「適用」するものだ、ということになり、まさしくこれが「意識適応説」ということになる。
他方、永田(つまり共産党)の「労働手段体系説」というのは、技術というのは使い方次第であって、使いながら安全性を高めてゆくもので、ましてや自分たちが正しい政治主張(実践)をしていれば、安全に使える、と言っているようなものである。
この両者の違いは、こういう言い方のほうがもっと分かりやすいかもしれない。
原発を今使うのは少なくともやめて、安全が確保されてから使おうと考えるのか、原発がある以上それを否定せずに使いながら安全にしてゆくことを目指すのか。
武谷は、前者であり、永田すなわち共産党は後者である。いや、共産党のみならず、私たちは後者を支持してきた、と言える。
後者のうち、共産党とそれ以外を分かつのは、原発を使うことこそが、人類の使命であり、それをやめることはすなわち、人類の進歩を拒否することだ、という、あの吉本隆明が述べた論調に連なっているのである。
し かし、当の共産党は、「3.11」以降、知らぬまにこれまでの主義主張を修正し、最初から共産党は原発に反対してきた政党として自らを説明している(不破 哲三「科学の目で原発災害を考える」「しんぶん赤旗」2014年5月14日)ので、どうやらこうした考えは現在では、吉本隆明を代表格とみなすことになる だろうか。
いずれにせよ、こうした二つの技術観は、今でも非常に重要な論点であることは間違いないので、いずれあらためてじっくりと検討したい。
***
それでは共産党や社会主義の側はどうだったのだろうか。
もっとも重要なのは、原発に対する社会運動さえも、彼らが扱いあぐねていたという事実である。
論拠として加藤は、「日本労働年鑑」をもちだす。
1953年以降「日本労働年鑑」では「平和運動」として「原水禁運動」が毎年大きく扱われる。原潜寄港反対運動もこの流れで扱われる。
原発については、1973年になってはじめて「日本労働年鑑」でとりあげられるが、それは「公害反対闘争」の項目に含まれ、扱いはきわめて小さかった。
1986年には「日本労働年鑑」で一度「反核」のなかに「原発」が含まれ、1989年には「反原発運動」は扱いが大きくなる。ところが1990年以降は「原水爆」と「原発」は別のテーマとしてあつかわれてゆく。
***
・武谷は、1972年、原発を「夢の技術にすぎない」「技術として全く完成されていない」とし「そのまま続けていったら、非常におそるべきことがおこる」(「経済評論」6月号)とまで述べるに至る。
・1975年に武谷は、高木仁三郎とともに原子力情報資料室を設立し代表となる
・1976年に武谷は「原子力発電」(岩波新書)を刊行し、明確に「原発批判」の立場を明確にする。
***
このように、本書では、大半を武谷の思索を追いかけることに費やしているが、原発を推進し続けてきた人物として、平野義太郎、有澤廣巳の二人が簡単にとりあげられている。
***
加藤は、平野義太郎こそ、「原子力の平和利用」を最初にはっきりと述べた「社会科学者」だ、とみなす。
・1948年、平野は「戦争と平和における科学の役割」(「中央公論」4月号)において、原子力の両面性を語り、平和の面を促進すべきだと主張する。
・同年、平野は「世界平和における科学の役割」(「国民の科学」6月号)において、原発や放射線治療などを平和利用の具体例として挙げる。
(以下、有澤廣巳についての言及も含めて省略)
***
本書を読むと共産党の原発政策(すなわち「理解」「認識」)は以下のような変遷を遂げたといえる。
当初は武谷の考えを下敷きに、原発など平和利用は推進すべきとした。また、軍事利用についてはソ連は肯定し米国は否定した。
社会党などは1970年代から次第に原発に反対しはじめるが、共産党は中ソの軍事利用には反対しはじめるが、原発は変わらず推進する立場をとった。
チェ ルノブイリ事故に対して共産党は、あくまでも「社会主義生成期」の「未熟な技術」が理由での事故であるという釈明をするが、次第に「段階的撤退」を述べは じめるが、2000年以降も「原子力の平和利用」の推進は路線を変えずに現在に至っているところは、かなりの一貫性がある。
しかしその「科学的」な認識力は、残念ながら「原発」に対しては十分に向けられていなかったのではないか、と言わざるを得ない。
「3.11」以降は、すでに自明となったが、今まではあいまいにされてきたこと、それは、原発による「潜在的核武装」という視点である。
ここには二つの意味がある。
まず、原発を本当に科学的に認識、把握し、その問題点や可能性を精査したうえで、これまでの主義主張があったのかどうか。
第二に、原発から産み出されるプルトニウムを軍事的に利用しうるという「潜在的核武装」という考えに対して、どこまで理解していたのか、また、もし理解していたとしたら、どのように理解していたのか。
できれば、もう少しつきつめたいところだが、本当の意味でつきつめねばならないのは、己の思考や行動、生活様式である。
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