
私がこのブログを更新するのは、これが最後となります。
現世で私がなすべきことは全て終えました。
幕引きは自分でしようと思います。
48年間の人生、本当に色々なことがありました。
多くの人と出会い、別れ、最後には誰もが私の周りから去りました。
保育の世界という輝かしく暖かな道を目指したのが8か月前。
過去に大きな過ちを犯した私には、その夢を抱く資格すらなかったようです。
でも、1日だけでも、先生になれてよかった。
それだけじゃない。私の人生にはいいことが沢山ありました。
小学生の時、家に友達が10人来たことがあります。
中学生の時、私には眩しすぎて手の届かない存在と思っていた女子と恋仲になりました。
その先はあまりいい青春ではなかったのですが、二人目の妻は私の人生でも最大の理解者でした。彼女と二人の息子と過ごした時間が最も幸せでした。
警察官にはならない方がよかったかもしれません。
かといってもうひとつ内定をもらっていたSEになれたかというと、ちょっと疑問。
私は結局のところ、生前の父のような仕事人間ではなく、家庭人間だったのです。
仕事のために家庭があるのではなく、家庭のために仕事があるという考え方。
仕事で成功できなくても、心を通わせる大切な女性と、私がいなければ生きていくことすらできない子供たちさえいれば幸せ。
そういう人間なのです。
本来の自分を見失い、どこで羅針盤通りの人生の航海ができなくなったのか、自分ではよくわかります。
高校受験です。
間違った高校に行ったばかりに、ひ弱な家庭人間の私が、種目こそ違えどバリバリのスポーツマンである兄の真似事をした結果、大学受験に一度失敗し、次年度に一校合格したはいいけど、よせばいいのにまた兄の真似事をしてスポーツをしてしまい…熱中するあまり、複数の女性の想いに気付きながらも遠ざけてしまうという謎の行動までしてしまい、結果8年間彼女ができなくなりました。
男の世界が楽しくないわけではありません。
だからこそ、本当になりたい自分を見失ってから、同僚たちと競い合ってのし上がっていくことで、無駄に強い闘争心だけが一人歩きしていき、体もどんどんたくましくなりました。
なぜそうなろうとしたのか?私は兄のように強くはないのに。
食べる量も体の仕組み自体も全く違う。闘争心や覇気だって異質で方向性が違うから、同じ習い事をしても追いつくことは決してなかった(むしろ差が開く一方)し、喧嘩したって勝てたことなどなかった。
思春期にはとっくに気付いていたはずだったのですが、私は兄と違うことをしませんでした。
その答えは単純なこと。私が弟だからです。
最も身近な肉親であり、1歳しか違わない直近の先輩。性別だって同じ。
兄が通る道を、すぐ後から私が追いかける状況で、兄の背中をずっと見ていました。
追いつこうとしたとか、兄の成功体験や失敗体験を見習おうという魂胆は全くなく、ただできない弟ができる兄を眺めていたというだけ。
そうしているうちに、兄がつけた大きな足跡を、小さな足の私が踏んでいくようになったのです。
弟が可愛くない兄などいないように、兄の背中を見ない弟など存在し得ないのです。
私の子二人もそうだったように。
ラオウとトキ(北斗の拳)。
兄を追う弟の典型例。私が敬愛してやまない二人です。

シュバルツ(キョウジ)とドモン(機動武闘伝Gガンダム)。
壮絶な運命を背負った二人。兄への想いがなければドモンの旅は始まらなかったでしょう。
キン肉アタルとスグル(キン肉マン)。
アタルは突然現れた渦中の人にも関わらず、全超人に喝と存在を刻んだ「大人の男」でしたね。

甲斐の魔犬・赤虎と黒虎(銀牙 流れ星銀)。
気性の荒すぎる黒虎を黙らせるのは、ベンと赤虎くらいでしょう。

犬飼小次郎、武蔵と知三郎(ドカベン)。
知三郎が兄二人と体つきが違うのに同じ道を選び、独自の地位を築いて、武蔵のいる土佐丸高校を破って甲子園出場を決めたのは凄いことです。
不死川実弥と玄弥(鬼滅の刃)。
呼吸を使えない玄弥を危険な道に進ませないためにあらゆる手段を尽くした実弥でしたが、ついてきてしまった玄弥がやがて極限の戦いの中、兄を守るために犠牲に。
私なら玄弥の気持ちがわかります。兄と分かり合えぬまま平穏な暮らしをしていくより、分かり合えて逝くこの方がずっと幸せなのだと。
マリオとルイージ(スーパーマリオブラザーズ)。
彼らは、なんというかルイージのマリオ愛が強すぎる気がします。
エドガーとマッシュ(ファイナルファンタジーⅥ)。
キン肉マン兄弟と立場が逆ですが、この二人の絆はケフカ戦前とエンディングに集約されているでしょう。
「だから俺は強くなろうとしたんだ。」


孫策と孫権(三國志)。
息子の孫紹ではなく弟の孫権を後継に指名したのが、いかにも孫策らしいですね。
父より大きくなった孫策と、その兄より大きくなった孫権。立場が人を育てる以前に、乱世が英雄を育てた側面もあるでしょう。
平和な世に英雄と呼べる政治家が現れないのは残念なことです。
曹丕と曹植(三國志)。
決断と行動が早く、信用する臣と信用しない臣をはっきり分ける曹丕と、文才だけが突出していた曹植。
もっと二人で話す時間があればよかったのに、時代と双方の側近がそれを許さなかった残念な関係ではありますが、豆がらの詩に兄への想いが込められていますね。
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そして一輝と瞬(聖闘士星矢)。
私と兄のイメージに最も近いのはこれでしょう。
群れるのが嫌いで誰にも媚びないどころか、瞬のためなら神にすらも喧嘩を売る一輝と、泣き虫のくせに我慢強くて、人を傷つけるのが嫌いな反面、触れてはならないものに触れられると手が付けられない瞬。
ほぼドンピシャです。
本当の自分は、ただ自分と同じ弱い人と支え合いたいだけなのに、その違和感に気づいた頃にはもう、人生の修正が利かなくなっていました。
それでも、いい人生だったと思います。
強い自分も弱い自分も、嘘偽りない本来の姿。
人生の終焉を迎えるのが今という発達段階だからこそ、自分で自分がよくわかります。
保育士試験の心理学の科目で、エリクソンの漸成的発達理論というのを学びましたが、あれはよくできているなと思いました。
それによると、壮年期の発達課題は「世代性」で、クリアすると「世話」を獲得し、失敗すると「停滞」という危機を迎えるといいます。
子供たちと引き離されてしまった私の場合はまさに「停滞」です。
だからこそ保育の道がぴったりだと思って挑んだのですが、無駄のようでしたね。
強き者たちと競うより、力なき幼な子によりそうことを生業とし、暖かな陽だまりの中で生きたかった。
でも、もういいのです。
死ぬことについて不思議と悲しみや怖さは沸いてきません。
決意というものもない。あるがまま、なすがまま終わりへと向かう自分を俯瞰で見ても、なるべくしてなるんだなという形に見えます。
ですから、私は関わった人たちの心からも、そっといなくなります。
こちらをご覧頂いたみなさんにも感謝いたします。
父、母、愛した女性、息子たち、友…次々と脳裏に浮かぶ最後の大きな面影は…
兄上、あなたでした。
もはや、あなた以外の存在などどうでもいい。
だから私の生きた証をあなただけに託します。
どうか、どうか私の分まで幸せに生き抜いてください。
行きつく先が無か有かわかりませんが、行ってまいります。
それでは。