マリアのディベートブログ

マリアのディベートブログ

元AIUDSのマリアです。投稿は不定期です。

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いやま~じで「女は自衛のために夜道歩くな」ナラティブがないほうが夜道の女性の数増えて安心なのだがと思うわ。
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私と仲の良い人は大体知っているように私の趣味の一つに夜中の徘徊があった。

これは、メンタルヘルスが盛大に爆発をしているときに落ち着かせるためでもあるし、卒論を書くときに思考を整理するためでもあったし、ルームメイトの睡眠を妨害せずにディベート友達と議論をするためでもあった。

深夜のお散歩中に身の危険を感じたことは何度もあるし追いかけられて交番に逃げ込んだことは二回ある。酔っぱらいの集団に絡まれて半泣きで友達に電話をしたこともあれば、文字通り道端の茂みの後ろに隠れたことも、全力ダッシュをしたこともある。

 

そういう経験を発信すると必ず「危ないからこの時間に散歩はしないほうがいい」と頼んでないのに助言をくれる男性が出没する。女性が夜道歩くべきかどうかは別にして、「こいつらすげえ」と毎回思う。おそらく、純粋な善意に満ち溢れていて、恐ろしいほど馬鹿なのだろう。知らない男に付け回れた直後の女性に「夜道が危ない」ということを、女性が常に感じる夜道の恐怖をわかりえない立場でわざわざ教えてくれるのだ。その図々しさと当事者に求められていない意見を送り付ける無駄な行動力があることに敬意と殺意を感じてしまう。(その行動力が後輩にアルハラする同期やしつこく女性に迫る友人に向けられたら非常に助かるのだが残念ながらそれは見たことがない)

 

私たちは自分で考えることができるので男性ののアドバイスを求めていない。日本はほかの多くの国と同じように女性が安心して夜道を歩くことはできないし、危ない目にあったときに警察やSNSで責められる。それを分かったうえでも、夜中に生理が来てコンビニに行かなければいけないこともあるし、その時の精神的な状況的に外に出なければいけないと判断することもあるし、シンプルにお散歩がしたいときもある。その結果として嫌なことが起こったらそれを踏まえてその先どうするかを自分で考えるし自分で決める。そこに「OOくんが夜道は危ないよって教えてくれたからお散歩や~めた!」ってなると思っているのならそれは私たちを馬鹿にしているとしか思えない。夜道で起こりうる嫌なことリストに「友人/知人からの善意アドバイス」を含めに来ないでほしい。私はお散歩がしたいし、善意の攻撃で何かあった時の発信をやめることもしたくないので。

 

 

 

 

こんにちは。マリアです。

 

前提としてこれは特定の人物や団体の人格を否定するものではなく、個人の解釈で学生大会とその参加資格についていただいた指摘に対しての見解をまとめたものです。あんぱんのノートにも触れる点はありますがこのブログは「学生の定義」についてではなく「学生大会とはどういうコンセプトなのか」という点をメインに書きます。

 

サインポスト

1. 学生大会は「敷居が低い」大会であるべきなのか

2. なぜ(少なくともJPDUTの)学生大会の学生の定義はWUDCと統一すべきか。

3. オルタナと愚痴

 

 

1. 学生大会は「非ガチ勢の安全圏」の大会というコンセプトであるべきなのか

 

まず大前提ですが、各大会によってコンセプトは変わっていいし大会側に守りたいコンセプトがあるのなら、それは申し込みの段階で表明されているべきです。当然実績のない人用の大会もあるべきですがその目的を「学生大会」という形で実現させるのは効果的ではありませんし(理由2で後述します)秋TやRyosoを「学生大会なのだからオープン大会でブレイクできる人が出場して後輩からブレイク権を奪うのは倫理的に問題がある」という先日頂いたご指摘に基づいて敷居の低さを優先させることは2つの理由からYabaiです。

 

理由1:WUDC直前シーズンのBP大会はWUDC参加者にとって重要

今年はオンラインのため、例外的にWUDCがありませんが「学生大会」のコンセプトについて考えるときにこの超例外的なコンテキストの中で話すのは応用性に欠けるため、普段のBPシーズンの流れを一度思い出してみましょう。

 

ディベートガチ勢の多くはWUDCに向けて秋T、冬T、Ryosoといったブレイク制のBP大会に当然参加をします。ブレイク制のあるOpenのBP大会数は多くなく、この中の学生大会である秋TやRyosoの去年の結果を見てみるとやはりWUDC出場予定者がプライズの多くを占めていますし(秋Tに至ってはGFの全チームにWUDC出場予定者がいたはずです)、これらの学生大会がそもそも「オープン大会は怖いけど学生大会ならいけるかも!」という層のための大会であったという前提は現実とはかけ離れているのではないでしょうか。

 

当然大会時期とブレイク制という形態、ブレイクラウンドからWUDC参加資格のない社会人が排除されていて資格のある現役がWUDC練習としてブレイクラウンドまで行ける点などから推測される参加者層的に一般に大会のレベルが高くなるのは当然でしょう。そのような大会を今になって「学生大会だから」強い人は出るべきでないと言い始めるのは謎(3にも書きますが自分で大会作れよ×大会内のAccessibility 向上の工夫をすべき)であり、コンセプト的に実績保有者を排除するなら来年以降、特に地理的な制限のある関西のWUDC出場チームの練習の機会が大幅に減ってしまうことになりかねません。

 

WUDCに出るような強者より大会に出づらい弱者を優先しろ!という点については2でそもそも学生大会という形態だけでそれが実現できるわけないじゃん関係なくね?というお話でも対応しますが少なくとも例年の主要な学生大会ってそもそもデフォで弱者救済的コンセプトあったっけ?という点を考えていただけたらと思います。


 

理由2:学生であることと大会のレベルって関係なさ過ぎて笑う。

 

これは当たり前ですね。近年しゅんやさんなどの影響でECCの先生方が比較的初心者でありながらオープン大会にチャレンジされることも増えていますし(素晴らしい!!)、オープン大会でも実績を残せている私でも歯が立たないのではないかという高いレベルの高校生もいらっしゃいます。実力と学生であるかは関係ありませんし、論理的に考えるとTGIさんのツイートの通り、社会人になってディベート練習の機会が減っている人に比べて週3+自主練をする現役ガチ勢の方が実力があることも多いでしょう。つまり、別に「学生大会」というシステムをとることが大会のレベル調整をする上で本当に有効なのかという点には懐疑的になるべきなのです。オープン大会のFTHNのレベルよりは秋Tの方がレベルが高かったですし、オーストラルズやにゃおも学生大会なのでひとまとめにするには無理がありすぎます。実績を制限する新手の大会ができればそれは素晴らしいと思いますが、少なくとも「学生大会」の枠組みからは外れるでしょう。

 

では、Twitter上で指摘があったディベート以外のソフトな点についてみていきましょう。

 

A. 実力にかかわらず年上の圧が怖い人もいる

B. 同年代でわちゃわちゃしたい

 

はい、どうぞ学生大会で同い年見つけてわちゃわちゃしてください。

ただ一点明記しておきたいのは私の大学の後輩にも人生の先輩がたくさんいましたし、いろんな事情で一度社会人を経てから遅れて大学に入ったり、休学や留学を経て社会人でもおかしくない年齢の方もこのコミュニティには一定数いらっしゃいます。

が、一般に学生大会であればそのコンセプトにかかわらず若い年齢層が増えるので交流がしやすいのはいいのではないでしょうか。それが数名年上の参加者が増えることで不可能になるとは考えられにくいでしょう。

 

つまりここまでで言えるのは1. 学生であることと実力は関係ない、2. 学生であること=同い年ではないしその傾向が強いことは別にコンセプトと関係なくない?

ということです。

 

長くなってきましたが続けます。

 

2. なぜ(少なくともJPDUTの)学生大会の学生の定義はWUDCと統一すべきか。

統一されていないとややこしいからです。JPDUからWUDCに出場するチームの特に正規留学生のいるチームはその多くが9月入学8月卒業です。私もコロナでキャンセルされていなかったら8月に卒業しましたがまたWUDCに参加予定でした。その中で秋Tは参加資格あげないから別のチームで出てねっていうのはチーム的に迷惑なうえ、ディベート歴的には既卒でも学生の同期と全く同等なので特にフェアネス的な観点から問題があるともいえないでしょう。実際去年も今年もWUDCの定義に基づいて参加が認められている既卒ディベーターはいるので今それを変えるべきというのは良くわかりません。

 

社会人からの出戻りはどうなるんだ!に関してもWUDCと統一しておけばよいのではないでしょうか。(放送大学に入ってWUDC無限ループはアイデアとしては面白いですが制度上WUDCの参加には回数制限があるので不可能です)

 

3. オルタナ兼愚痴

 

さて、学生大会のコンセプトのディスコースの一部が意味不明すぎて上にまとめさせてもらいましたが、「ディベート非ガチ勢が大会に出づらい」という問題や「オーソリ怖い」という問題自体はその通りだと思います(むしろずっと提唱していた)

これはお節介な意見かもしれませんが、既存の大会のコミや参加者個人に大会直前に言いがかりをつけるだけではなくて、同時に非ガチ勢向けに実績に制限をかけた大会を自ら作ったり(自己申告制にはなりますがレジの時にディベーターCVを提出されるのは難しくないです。梅子でもYale-NUSでも高校ディベート経験者であるかどうか、また言語環境による障壁を考慮した制限をかけましたし、参加権は大会のコンセプトや目指すレベル感に応じて調整しています)、リソースの無い中小の練習を手伝ったり、大会で一緒に組んでみたり、JPDUに規約改正の提言を行ったり、批判だけで終わるのではなくて具体的な解決策や定義を提唱することに費やしたらどうかと思います。

 

また、話はずれますが京大のますべさんがコミ目線でロジ的にオンラインの今出場制限をかけるとやばくなるお話を分かり易くFBに投稿してくださっているので是非そちらもご参照ください。

 

ここ数年でブレイク枠の拡大やStudent Adjの表彰などは増えてきていますしACのメンバーもまだまだ多様性の問題を抱えているものの下級生や地方出身者、非シス男性も大幅に増えてきています。より多くの層がディベートを楽しめるよう、また障壁を少しでも低くできるよう具体的な改革をここ数年で進めてきた方々やそれを制度に反映させてきたコミに対しては尊敬の念を覚えています。

相手に対して否定的なAssersionの投げてよくわからないまま終わるのではなく、新コンセプトの「安心できる」大会実現(東映杯はその点に関して素晴らしかったのではないでしょうか)や参加資格の明確化まで進めてくださると大喜びです。

 

おしまい

 

なんかディベート関連のこと書こうかなあと考えていたものの有益な情報はすでにほかの方がブログにしてくださってるのでTwitterじゃ書き足りないもやもやを書きます。

 

性生活ってタブーであって、プライベートであって、でもディベートにおいてはポリアモリーがどうとか動物とのセックスはどうかとかを議論するし、最近Twitterでは子供型セックスドールのお話が盛り上がっていて、おもしろいなあと思います。

 

ポリコレ戦士やツイフェミ(私自身もポリコレ推してるしTwitter上でもフェミニストを公言しているのだけど笑)ってなんか他人の性生活に介入する人めちゃ多くね?ってなったので思ったことを書き出してみます。

 

セックスの政治性

 

性って三大欲求の一つだと言われてるくらい人間の生活に重要なものだから、人の行動の抑圧だとかに利用しやすいなって思います。同性愛が違法な国もたくさんあるし、婚前の性交渉が禁止されてる宗教や、違法とまではいわなくても風潮的に女子がいろんな人と寝ると冷たい目で見られるし、戦時中は異性愛者の男性が敵国の男性をレイプする事件が激増するし、弱者に対する性の武器化っていろんな側面から行われています。

 

この中で重要なのは性の政治利用ってその時の社会の”強者”が行うものだということで、日本で避妊用ピルの市販化が男性ばかりの会議で妨げられたなんて言うのはその最たる例じゃないかと思いますし、小児性愛者のドールを使った自慰行為に首を突っ込むシスヘテロなTwitter戦士たちもそれをよく表しているなって思います。

 

他者の性のお話に嫌悪感を覚えるのは性がタブー視されてる社会に生きている以上当然なのでそれを武器化するのも(意識的であれ無意識にであれ)とっても簡単かつ有効な戦略なのでしょう。

 

ポリコレの変化

 

 

Twitter上で小児性愛者のセックスドールを法規制するべきだって言ってる人たちの感覚では恐らく”自らこそが抑圧されている側”だと考えていると思います。往々にしてその感覚は完全に間違っているわけではなくて、もちろん性暴力被害にあう子供は弱者だし(法律やばくて親にレイプされても助けてもらえなかったりするので)フェミニズムやポリコレを掲げる人の多くは女性や性的少数者や貧困層に対する構造的差別を目の当たりにしてきたからこそ、反差別を掲げて戦おうとしているのでしょう。

 

だけど、今のポリコレやフェミニズムは”抑圧に立ち向かう側”から”抑圧する側”に移行しているのではないかなと感じることが増えてきました。これは必ずしも悪いことではなくて本当にやばい制度とかに対する社会運動(#kotooとかもバズったからこそ社会的問題意識が広まった)としての力が大きくなってることは喜ばしいことだと思います。

 

(以下疲れたのでため口)

 

でも、気を付けなければいけないのは運動の対象が運動よりも少数派や社会的弱者への攻撃に移行していくときで、運動のもとにある感情が”不条理に対する怒り”から”キモイ”や”嫌悪感”に移行していく時だと思う。上記で述べたように他者の性への介入は少数者→強者の形で起こることはほとんどない。小児性愛者のコミュニティーは”小学生とのセックスを合法化しろ!”なんて運動をしていないし、ポリアモリーの人たちは”みんなポリアモリーになれ”って強制していない。

 

ポリコレやツイフェミは自らの影響力がどれほどまで大きくなってきているのか、そしてそれがどれほどの加害性を持ちうるのかを意識しながら運動しなければその暴走によって次の少数派が選ばれて抑圧されて、負のサイクルが回っていくだけでしょう。(カナダのリベラルなLGBTコニュニティーにおけるセクシズム/トランス女性差別の問題みたいに)嫌悪感の扇動性はものすごいので利用したくなる気持ちは分かるし自分の直感的に感じる嫌悪感を肯定する運動に参加したくなるのも非常に理解できるもののこれまで女性に押し連れられていた性の規範から外れようとしていた活動家たちも”嫌悪感”によって社会的に叩かれていたことを忘れなければいけないし、ポピュリズム的な運動の方法になってしまうと守りたかった女性たちの自由も多数派の”嫌悪感”によって妨げられうる社会になってしまう。

 

 

私たちポリコレ戦士/ツイフェミたちが叩くべき対象は不十分な性教育であって、時代遅れで抑圧的な法律とかの”不条理”であって、個々人のセックスライフや趣向に対して感じる”キモイ”であってはいけないと思う。