東北地方の豪雨災害に会われた方々に、お見舞いを申し上げます。
被害は思ったよりひどい状況で胸が痛みます。ニュースは被害状況より、
パリ五輪に時間を取ってるようですね。スポンサーや記者やキャスターを送り
込んでる事情もあるでしょうが、国内の危機にはきちんと目を向けた報道をして
欲しいものです。
昨日は宅配の方が荷物を届けに来たのですが、ラブはいち早く玄関に向かい玄関を
開けると同時に飛び出し、配達業者の方の足元に絡まり熱烈歓迎をしてましたよ。
犬が苦手な方でなくて良かったです。
ここにはあえて映像を載せませんが、高校生馬術大会に出席の佳子さん。
挨拶文の使いまわしより気になったのは、読み上げる声が空気漏れのような
母親に似せてきたのかお婆さんに似せたのかと思いましたよ。
婆のプロデュースでしょうかね・・・
今日は、敬宮様の少し前の話をしたいなと思っています。
敬宮様が激やせし拒食症と言われた2017年2月、
敬宮様を敬愛する方々は、あまり思い出したくないかもしれません。
この頃、いろいろな精神科医が拒食症について雑誌や週刊誌で
敬宮様の危機的状況を話していました。
下の記事はそうしたことを書いてますが読んでも読まなくてもいいですよ。
私は通学している激やせの写真を始めて見て、ここまで追い込まれていたと驚いたんです、
まさに命の危機そのものでしょう。
2016年激やせで有名な写真15歳誕生日
この頃をあえて今記事にするのは、忘れてはいけないと思うからです。
雅子皇后は適応障害で療養中とされ、さらに敬宮様を拒食症に仕立てあげ・・
自分の罪を隠すだけでなく、この時にあわよくば当時の皇太子ご一家を引きずりおろし、
皇統を移す仕上げにしようとした・・・人がいたんです。
この頃は、2016年9月のビデオメッセージで生前退位の意向が示された半年後です。
実際に激やせが始まったのは2016年からですが、
2017年2月に激やせ報道が盛んに取り上げられます。
これは2月の当時の皇太子殿下のお誕生日会見での発言にリンクしていると思います。
お誕生日会見で皇太子殿下は、敬宮様の養育方針について
【愛子の養育方針ですが,愛子にはどのような立場に将来なるにせよ,一人の人間として立派に育ってほしい】誕生日か会見から一部抜粋
この「どのような立場になるにせよ」に激しく反応したのが
隠居夫人だったでしょう。
そして拒食症のキャンペーン記事です。
実際にはこの頃には、敬宮様は激やせから脱却しつつあったのですから、
別の意図があったと思うのが自然です。
余談ですがこの頃、記者会は敬宮様とお呼びしています。
また皇太子殿下は非常に丁寧に雅子妃の病状を説明し、回復傾向にあるとも話されています。
この週刊現代の記事には、皇太子殿下が誕生日会見後のお茶会でのオフレコ発言が
載っています。
【「食事もしていますし、雅子もしっかり支えていますから、いまは体調も良くなって普通に通学するようになっています。心配していただいてありがとう。大丈夫です」】記事一部抜粋
激やせから回復中の2017年4月学習院高等科入学
2017年6月に生前退位特例法が成立しました。
今なら拒食症ではなかったとはっきりわかります。
激やせになったのには、別の要因があったと私は考えてますよ。
さて、やはり全部を書くのは難しいですね。
明日は激やせの理由や拒食症にして隠したこと、を中心にお話しましょう。
今日はここまで
今日も読んで頂きありがとうございます。
昨日の記事で、敬宮様が激やせしたのは2016年の15歳の頃で、
同年7月には明仁天皇の生前退位を国民に理解してもらいたいとビデオが公表されたと
書きました。
2017年、2月当時皇太子だった今上陛下が見誕生日会見で発言した、
敬宮様が「将来どのような立場になるにせよ」という言葉に隠居夫人が反応し
激やせから抜け出しつつあった敬宮様の拒食症キャンペーンかと思う報道が続いたのは、
この機会に雅子皇后と敬宮を排除する狙いがあっただろうとも書きました。
しかしなぜ、敬宮様は激やせしたのでしょうか?
一説には、2012年に紀子妃と悠仁さんが大膳課に侵入したための毒物混入の疑いや
一説には、炭水化物ダイエットが行き過ぎた、などが囁かれました。
15歳といえば思春期で、自我の確立され自立心や反抗期、親離れの時期ですね。
真面目で深く物事をとらえ考えられる敬宮様であることを考えると
やはり、小学生の頃に学習院で母の日に作成したという詩集「カーネーション」
の中におさめられた「おかあさま」の詩がよみがえります。
詩の全文を載せたら禁止タグ扱いになってましたので、動画を載せようとしましたが、
これも禁止タグ扱いですので、ご自分で調べていただきたいです。
あるいはnoteの私のページをご覧ください。
この詩は同じお子様を持つ母親からのリークで、2020年か21年に表に出てきた
ものだそうです。
宮内庁からも何の反応もないという事は、
学習院初等科時代にカーネーションという詩集があったこと、
敬宮様の詩であることは事実でしょう。
私の過去記事で、隠居夫人に「16歳になったら出てお行きなさい」と
言い含められてきたことや皇室典範で16歳になれば自分の意志で
皇族の立場を離れられることなど簡単に書いています。
激やせの時期が16歳を控えたころとも重なることから、
敬宮様は真面目にこの問題をとらえ思い悩んでいたのではないかと、
私は考えます。
そして、両陛下が敬宮様の深い悩みの原因についてお知りになったのも
この頃ではなかったかと思うのです。
ちょっと話がそれますが、
明仁天皇は2010年には生前退位の事を周囲に相談したといいます。
2005年ころという説もあります。
2006年には赤坂に男児が作られましたから、私はこの後と思いますが・・
2012年から美智子様発案で頂上会議が(明仁天皇、皇太子様、秋篠宮)行われてきてました。
この意図は生前退位と、皇太子さまに皇位をあきらめさせること(男児がいない)
雅子妃が公務に支障をきたしてる、などを理由にしたものでしょう。
もしかしたら、天皇の定年制もこの頃には話し合われていたかもしれません。
2012年には聡明な両陛下は、一連の問題が嫁姑や男児がいない問題だけではなく
皇統の移動を狙ったものであることに気づいておられたと
考えるのが自然に思えます。
2013年には、これまた美智子皇后が皇太子に天皇になることを諦めさせられないと、
二人皇后なることを画策しています。
話を戻します。
敬宮様の激やせはこうした皇統の問題の延長線上にあり、
両陛下は隠居夫婦や次男夫婦が考えているのは、単に皇統を移動するだけではなく
排除なのだと気づいたと思います。
私は、2016年の激やせしたと言われる敬宮様と両陛下の濃密な話し合いが
何度となくあっただろうと想像します。
天皇制、おかれた立場、皇族のあるべき姿、国民との向き合い方、祭祀など
真剣な話し合いがなされ、敬宮様も受け止めてこられたのだろうと。
那須でのご静養の時に単にお手振りから、お出迎えの方と会話する機会を持ち
敬宮様も加わるようになったのは、まさにこの頃とつげのりこ氏も書いています。
振り返ると、敬宮様お一人に対しても、いろいろな策を用いて引きずりおろす
為にあれこれとしていましたよ。
笑わない、自閉症、逆さバイバイ、会いに来ない、苛め、登校できない・・
拒食症に仕立て上げることにも失敗しましたね。
その裏にある赤坂の思惑というよりは陰謀ですが、誰が主導してるかもお分かりでしょう。
今、その最後の段階に差し掛かってますよ。
愛子天皇を望む私たちは、自分にできる事をしつつお支えするのみですね。
今日はここまで
今日も読んで頂きありがとうございます。