地獄行きを甘く見るな

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こんにちは。
 
今回は、地獄行きを甘く見るなについて述べます。


 

新約聖書 マルコによる福音書 九章四十二節〜五十節(拙訳)
そして、「我を信じてる小さな者の一人に罪を犯させる者は、その首に石臼の石を掛けられて、海に投げ込まれる方がその者にとって良い。また、もしあんたの片手があんたに罪を犯させるなら、それを切断しなはれ。両手を持ったまま地獄に行って消えへん火の中に行くより、不自由になって(永遠の)命に入る方があんたにとって良い。そこはその者らの蛆が死なへん所で、火は消されへん。
又は、もしあんたの片足があんたに罪を犯させるなら、それを切断しなはれ。両足を持ったまま地獄に、消えへん火の中に投げ込まれるより、不自由になって(永遠の)命に入る方があんたにとって良い。そこはその者らの蛆が死なへん所で、火は消されへん。
又は、もしあんたの片目があんたに罪を犯させるなら、それを引きちぎれ。両目を持ったまま火の地獄に投げ込まれるより、一つ目で神の王国に入る方が良い。
そこはその者らの蛆が死なへん所で、火は消されへん。
すべての者は火で塩味を付けられ、すべての犠牲は塩で味付けされるだろうからや。塩は良い。せやけど、塩は塩気が無くなるなら、何によってそれに味を付けるだろうか。自身の内に塩を持ちなはれ。そして、互いに平和を保ちなはれ。」

一、主イエスを信じてる者に罪を犯させるのは重罪
上記聖句のとおり、主イエスは、「我を信じてる小さな者の一人に罪を犯させる者は、その首に石臼の石を掛けられて、海に投げ込まれる方がその者にとって良い。」と教えはった。主イエスを信じてる小さな者とは、真のキリスト者であり、かつ、この世で取るに足りないと思われるような目立たず、権力も無く、この世の富も持たぬ者を指す。もしこの世の権力や権威を持ってる人や金持ちの人なら、「小さな者」とは言えへんからや。その小さな真のキリスト者の信仰を邪魔したり、嘘をついて騙したり不当に強要する等してその人に罪を犯させるという悪行をする者は海に沈められた方がマシと言えるような死後の裁きが待ってることを暗示してる。主イエスは、かようにこの世では小さい真のキリスト者の味方であり、それ以外の人間の味方はせえへん。
そして、当然、ローマ教皇はこの「小さなキリスト者」に当てはまらへん。なぜなら、教皇はバチカン市国の国家元首及び権力者であり、金持ちでもあり、カトリックという主イエスの教えに逆らう反キリスト教(パウロ教)を掲げ、実際は太陽神崇拝をしてる偶像崇拝者、異教徒、異端者、悪魔崇拝者や。それ故、ローマ教皇をはじめ、カトリック教徒らもその分派の正教会やプロテスタント等も「小さなキリスト者」に該当せえへん。「真のキリスト者」と拙者が言うてるんは、かような偽キリスト者(パウロ教信者)ではなく、正当な根拠も無いのに真の聖書福音に異議を唱えて偽り呼ばわりする自称キリスト者でもなく、主イエスを仲介者とする新契約に基づいて神の律法を守るほんまもんのキリスト者という意味で言うてる。世間の多数派は、未だにこれを理解してへん。パウロ教信者どもをキリスト者であると勘違いを続け、「キリスト教は悪だ」、「聖書は支配層の計画書だ」等といった嘘を頑なに信じて垂れ流してる輩が多いが、実にみっともないさかい、さっさとやめるべきや。この世で小さな存在たる真のキリスト者に対して罪を犯させる者は海に沈められる方が良いと言われて程に悪い行いであると認識すべきや。まさに地獄行きとも言える悪行やからや。真のキリスト者を邪魔するな。また、迫害もするな。それが作為的であろうと、不作為であろうとも関係無く、真のキリスト者を貶めようと企んで言う言葉や行いはすべて悪行であり、神はそれを決して忘れず、その者への裁きの際に刑罰をより重くしはるだろう。悪い人間は、その邪悪さ故に、それでも構わずに真のキリスト者を憎んで迫害するんでしょうけど…。
なお、市販の聖書では「つまずき」と訳されてるが、曖昧な物言いであり、本質を突いた言葉ではない故、拙者はそれを誤訳と看做す。原語では、罪を犯させるという意味があり、それは神の律法に反することをやらせることで、そのように仕向けることも含みます。この事からも、主イエスはモーセの律法を廃止したんやのうて、律法違犯を決して許してる訳ではないことが分かります。パウロ教信者は読解力が無く、主イエスと使徒ヨハネの言葉を無視して、偽使徒パウロの言葉を重視してる故、罪の定義をまったく理解してへん。拙者が複数の過去記事で既に論証済み故、ここでは細かく言わへんが、簡単に言えば、神の律法に反することが罪で、不信仰自体も律法違犯であり、罪です。人間の法律(刑法等)に反すれば犯罪であるのと一緒です。神の律法に違犯すればその者は犯罪者であり、聖書では罪人と書かれてるが、罪人は犯罪者と同じ意味や(但し、この世では違憲な法律は無効故、無視して良い)。この世においては、神にとって殆どすべての人間は罪人、犯罪者です。なぜなら、生まれてから死ぬまで一度も神の律法に違犯せずに生涯を終える人間は存在せえへんからや。せやから、悔い改めるという新生をせずに、生まれたままの状態では地獄行きは確実で、救いが無いさかい、神は人間に悔い改めを勧め、律法違犯の罪を犯すのをやめ、主イエスの信仰を持って律法を守るという契約を履行するなら、その人間を救うと明言しはってます。そして、救いもその人だけであり、親とか子供にも関係することもない故、自分の親が真のキリスト者だから安泰とか、自分の子供が真のキリスト者だから安泰ということではない。罪も同じで、悔い改めへん本人が裁かれるのであって、遺伝もせえへんし、親や子供や親戚等も関係無い。聖書にはそのことが明記されてる。せやから、聖書を読みもせえへん、真の聖書福音を拒絶するようでは自ら救いを拒絶して地獄行きを希望してるようなものです。せやから、不信仰で世俗的に生きてるだけの人間が、死後に天国に行けるなんて思うなってことです。たとえ聖書に関心を示しても、信仰が長続きせえへん者も居るし、パウロ教という偽キリスト教に逸れる者も居るし、偽預言者や偽教師の嘘に引っ掛かって堕落する者も居る。
二千十七年の過去記事「現イスラエル国家は聖書のイスラエルではない」で書いたとおり、世界情勢的にも偽イスラエル(シオニスト)とイラン(イスラム)が衝突し始めてる。これは、アルバート・パイクというフリーメーソンが計画してる第三次世界大戦の取っ掛かりとも受け取れ、日本では改憲を推進する売国奴が活動を活発化させており、改憲を許せば現憲法が保障する三大原理が否定され、日本も戦争に巻き込まれるのは確実であり、基本的人権も制限されて実質的に喪失する故、いつまでも自由な時間があると思うべきではない。ほんまに手遅れになる前に、拙者の勧めを聞き入れて悔い改め、救いに繋がるキリスト道を歩みましょう。

二、肉体は罪を犯す媒体でもある
上記聖句のとおり、主イエスは、「また、もしあんたの片手があんたに罪を犯させるなら、それを切断しなはれ。両手を持ったまま地獄に行って消えへん火の中に行くより、不自由になって(永遠の)命に入る方があんたにとって良い。そこはその者らの蛆が死なへん所で、火は消されへん。又は、もしあんたの片足があんたに罪を犯させるなら、それを切断しなはれ。両足を持ったまま地獄に、消えへん火の中に投げ込まれるより、不自由になって(永遠の)命に入る方があんたにとって良い。そこはその者らの蛆が死なへん所で、火は消されへん。又は、もしあんたの片目があんたに罪を犯させるなら、それを引きちぎれ。両目を持ったまま火の地獄に投げ込まれるより、一つ目で神の王国に入る方が良い。そこはその者らの蛆が死なへん所で、火は消されへん。」と教えはった。
最初は手、次に足、最後に目です。人間は四足歩行の動物とは異なり、手があって、様々な作業をする。手は、人間にとって必要な器官の一つではあるが、心臓や肝臓等とは異なり、無ければ生存不可能というものではない。手は、善い業をすることが可能な一方で、悪い事をするのにも使われ得る。実際、多くの人間は悪い事に使てる割合が高い。何かを盗む、他人に嫌がらせをする、暴力を振るう(殴ったり凶器を使用する)、わいせつ行為をする、誹謗中傷や嘘をネット上に投稿する、賄賂の受け渡し、その他色々な悪事のために手を使う人間が多い。そないな悪事をやめられへんのなら、その行為を行う媒体そのものを無くしてしまい、身体不自由になって、罪を犯すにも犯すことがでけへん状態にしてしまった方がその者にとって良いと主イエスは教えはった。勿論、片手を切断しろというのは本気で言うてるのではないが、片手を切断して身体が不自由になる方が地獄行きになるよりは良いと言われてる事実を軽んじたらあかんで。この世で生きるのに片手が無いとなれば、身体障害者になり、普通の暮らしは難しくなる故、誰も進んでそうしたいなんて思わへんでしょう。しかし、地獄行きよりはマシなんです。それは、身体不自由になるよりも地獄行きになるのは遥かにきついということです。せやから、神の律法に反するという罪を犯して地獄行きになることを甘く見るべきではないし、地獄行きは何としても避けるべき、そのためには主イエスの信仰を持って神の律法を遵守する必要があると理解せないかん。
手だけでなくて、足も同様や。足も人間の活動には必要なものであるが、これも内臓の主要臓器とは異なり、無くても生存可能や。足も、手と同様に善い業をすることが可能な一方で、悪い事をするのにも使われ得る。実際、多くの人間は悪い事に使てる割合が高い。悪事をするために移動する、悪事を働いた後で走って逃げる、他人に嫌がらせをする、暴力を振るう(踏みつけたり、蹴る)、その他色々な悪事のために足を使う人間が多い。そないな悪事をやめられへんのなら、その行為を行う媒体そのものを無くしてしまい、身体不自由になって、罪を犯すにも犯すことがでけへん状態にしてしまった方がその者にとって良いと主イエスは教えはった。片足を無くすのも身体障害者になり、日常生活に支障をきたす。階段の昇り降りがきつくなる、何処でも行きたい所に気軽に行けなくなる、杖や義足や車椅子生活になり、かなりの負担になろう。しかし、これでも地獄行きよりはマシなんです。手のことに続いて繰り返し言われてることから、地獄行きになることを甘く見るべきではないし、地獄行きは何としても避けるべきことであると理解せないかん。
そして、最後に、目です。これは先の手足とは若干異なる。手足の時は、「消えへん火の中に投げ込まれるより、不自由になって(永遠の)命に入る方があんたにとって良い。」やったのが、目の時は、「火の地獄に投げ込まれるより、一つ目で神の王国に入る方が良い。」に変わってる。これは段階を示してる。拙者が説明したとおり、人間は他の動物と大きく異なる点は、手を持ってる点であり、それで他の動物はせえへんような高度な事を行う。何かを作る、文字を書く、絵を描く、機械を操作する等といったことです。かようなことは他の動物はせえへん(勿論、人間が訓練をすれば作業可能なこともあろうが、動物が自主的に行うことはない)。足も、手と同じ位に肉体としては重要な器官であり、無いと不便極まりない。しかし、そんな手足ですら、片方を失って不自由になるのは地獄行きになって消えへん火の中に投げ込まれるよりも良いと教えられてる。そして、目は手足の後であり、頻度的な意味では手が最も罪を犯す確率が高く、次に足が罪を犯すのに使われ、最後に目である。目がどうやって罪を犯すのかと思うだろうが、主イエスは、女を見て情欲を抱くなら心の中でその女と姦通することになり、罪となると明確に教えはった(マタイ五章二十八節参照)。一般に男の方が女よりも性欲が強い傾向にあるため、かような言い方やが、逆も然りで、性欲が強い女が他の男を見て欲情しても同じく罪である。これは実際には強姦や同意の下での性交であっても罪である。合法の性行為は、結婚した者、かつ、相手が当該配偶者だけであり、それ以外はすべて神の律法に反し、姦通に当たる。更に、離婚した者が再婚したり、離婚した者と結婚することも姦通の罪を犯すことになる。それらを過去にしたなら悔い改めて、やめなければ地獄行きになる。目で見て想像するだけでも姦通であり、それ故、かように情欲を抱く原因となる目なんて無い方がマシという意味で、そないな罪を犯させる原因となってる目を引きちぎれと仰せではあるが、本気で実際にそうしろという意味ではない。仮にそうして身体不自由になっても、地獄行きよりはマシと言われてる比較対象であり、それ位に手と足を制御したとしても、目ですら簡単に罪を犯す可能性があるということに人間は十分注意せなあかんということや。手足のみならず目をも完全に制御して罪を犯さないようになれば、神の王国に入るということを主イエスはこの話の流れで教えはってる。今ではスマホ等といった物により、容易に目で罪を犯す人も増えてる。当ブログや当動画を見たり、その他有益な情報を収集したり、信仰の兄弟と交流するため等と善い事に使えばええが、反対に、罪を犯す目的でスマホを操作する手も罪を犯す媒体になってることも注意が必要や。
なお、目について、片目というと、悪魔崇拝者の支配層や富裕層等について調べた人はホルスの目、ピラミッドの頂点にある片目を思い浮かべ、聖書を貶すために良からぬ嘘を撒き散らそうとする悪意ある愚か者が居るやろから、予め断っておく。ここではかような悪魔崇拝の意味は無く、先の手と足の話と同じで、片方が無くなると不自由になるということで、その不自由さは地獄行きよりもマシという意味の話でしかあらへん。当該聖句の文脈を無視して、切り取りをしてそこだけを強調したりして、「ホルスの目と同じだ」、「ピラミッドの頂点にある片目の象徴だから、聖書は悪魔崇拝だ」等ということを思ってもみるな、又、かような中傷をするな。決して悪魔崇拝者の支配層と同じとか、同じ事を言うてるのではない。決して誤解無きよう。
それにしても、地獄は身体不自由になるよりも比較にならん程にきつい。きついという言葉すら生温いかもしれへん。そのきつさは想像を絶する。キリストの再臨前において、この世で生きてる間は経験でけへん事やからや。なんせ悪魔(堕天使)も投げ込まれる所やさかい。悪魔(堕天使)は、元々は神に仕える者である天使として造られた被造物なのに、その分を弁えずに自ら神になろうとして驕り高ぶり、神に反逆して敗北し、既に地獄行きが定められてる。その神の判決が覆ることはない。悪魔(堕天使)もそれを重々理解しており、その時が来るのを戦々恐々としつつ、神が許可しはる範囲内においてこの世が終わるまで悪事を行う。
また、地獄(ゲヘナ)は、黙示録では「火の池」と表現されてる(黙示録十九章二十節、二十章十四節、十五節)。なお、ペトロ二の二章四節は市販聖書では地獄とあるが、誤訳である。陰府の深淵と言えるような所で、ゲヘナという単語が使用されず別の単語やからや。黙示録の記述から、獣と偽預言者、神に選ばれず命の書に名前が書かれてへん者(明らかに不信仰者、異教徒(パウロ教信者を含む)、偽りを信じたり正しい行いをしてへんのに自分自身が正しいと勘違いしてる高慢な自称キリスト者のこと)は悪魔と同じ地獄、火の池に投げ込まれ、そこで永遠に責め苦に苛まれる(黙示録二十章十節)。地獄では終わりが無い(永遠の)苦しみです。せやから、これを軽んじるとか知らんと言うて現実逃避しても何の解決にもならないばかりか、ほんまに頭がおかしいんですよ。その事について実感が無いからとか、実際に見た訳ではないからとか、証拠が無いから信じひんとか、ほんまに不信仰であることを正当化するような言い訳をする人が多いが、それは神に選ばれぬ故と拙者は思てます。進化論や地動説及び大地球体説や宇宙やウイルス等といった存在証明も無く実在しない嘘を軽々と信じるくせに、聖書と神を否定したり、天国と地獄を否定する愚か者は神の王国に相応しない。神に選ばれぬ以上は救われへんのも事実やさかい、それはしゃあない。人間が救われると思う人が救われるのではないからや。永遠の命を与えるのも地獄行きに定めるも、すべて裁き主である主なる神やさかい、人間が決める立場にない。「地獄は存在しない」という反聖書的な嘘や妄想を頑なに信じたり、聖書を信じひんのも一応自由ではあるが、後で実際に地獄行きになってどないな反応をするのかね。目も当てられない惨めさや。
地獄は、悪魔(堕天使)以外としては悪人が行く所であり、世の権威を持つ獣たる人間や偽預言者は勿論のことで、彼らに惑わされ、彼らに聞き従い、獣の像を拝み、獣の刻印を押された多数派の人間、即ち、真のキリスト者以外の人間全員が地獄行きになる。獣の刻印を受けた者は確実に地獄行きになり、もはや後戻りは出来ず、取り返しがつかへん。自分で念入りに調べもせずに安易に世の権威(政府や報道機関や御用学者等)を信じて、盲目的にワクを打つような人もあかん。取り返しがつかへん行為をしてると思わへん程に盲目やから、そないな人は救いようがない。しかし、ワクだけが獣の刻印という意味やのうて、過去記事でも説明したことで、獣たる人間の秩序に従うことで押される目に見えぬ刻印です。獣たる人間は、実際にワクを肯定して人々に勧めてた。ワクの本質と欺瞞すら見抜けへんのなら、後で来る罠も到底見抜けへんであろう。段階的に篩に掛けられてると思うべきや。もっとも、聖書を読まぬ時点で、主イエスの信仰を持たぬ時点で、神の律法に違犯する悪事をやめへん時点で、ワクを避けただけは不十分であり、明るい希望なんて無いと思うべきです。悔い改めるなら、聖書を読んで主イエスの信仰を持ち、神の律法を守る等と拙者が宣べ伝えてきたことを実行する筈やさかい。それをせえへん人は全員あかん。そして、獣の像を拝まへん、獣の刻印を受けへん神の民は殺されると黙示録十三章十五節に書かれてる。神の民は、かように信仰と神の律法を自分の命よりも大事にして殉教することになろう。しかし、神の民以外は臆病で保身に走るだろうし、そもそも信仰も無ければ、神への愛も無くて神の律法を守らへん者どもは、獣たる人間に従い、獣の刻印を押され、神の民を迫害し、最終的には地獄行きになる。これは黙示録十九章二十節に書かれてる事実であり、拙者の妄想ではない。拙者を教祖だのと事実に反する狂った誹謗中傷をしてる犯罪者や偉そうに上から目線で否定的な事を言うてくる者が未だに居るが、それは聖霊を侮辱するという赦されざる罪であることを知れ。

三、滅ぼす火は神の御力
上記で紹介したとおり、地獄で火が消えへんと再三警告されており、何故火が使われるのか、何故水ではないのか、何故風ではないのか、その他の要素ではないのか、疑問に思たり、考えなあかん。それが聖書を研究する時に持つべき正しい疑問であり、それを解決するために聖書を調べる。創世記において、性的倒錯をする等という神の律法違犯である罪を改めずに悪化する一方であったソドムとゴモラが神の怒りを買い、神が火と硫黄を降らせて滅ぼしはった(創世記十九章二十四節〜二十五節参照)。黙示録でも火と硫黄の燃える池が地獄であり、そこに悪魔と悪人が投げ込まれて、そこで苦しむと明確に記載がある(黙示録十四章十節、十九章二十節、二十章十節、二十一章八節参照)。神の律法違犯という罪に対する懲罰のために火が用いられるのは、悪魔と悪い人間に刑罰を与えるのは神の御力によるものであるからと分かる。これは、神の律法に明記されてることでもある。律法には、「あんたの神、主は滅ぼす火の神で、不信仰を許さへんからや。」(申命記四章二十四節拙訳)と書かれてる。このことからも神が火で悪を滅ぼし、不信仰をはじめとする律法違犯の罪に対して懲罰を与えることがはっきりと分かるだろう。せやから、いつまでも聖書を拒絶したり、不信仰であってはならんし、神の律法を無視して破り続けてもあかんことに気付いて、悔い改めい。
そして、上記聖句のとおり、主イエスは、「すべての者は火で塩味を付けられ、すべての犠牲は塩で味付けされるだろうからや。」と教えはった。このすべての者というのは、神の民(真のキリスト者)全員を指し、不信仰者や異教徒(パウロ教信者を含む)等は除外される。マタイ五章十三節にも、主イエスは真のキリスト者は地の塩であり、塩に塩味が無くなれば役に立たんと言わはった。この悪い人間だらけの地において、真のキリスト者だけが地の塩となって神に役立つ働きをする。せやから、塩味の無い塩とは、外形だけ塩、客観的には認められへんのに塩と称してるという訳の分からん物と言える。言い換えれば、塩味の無い塩とは、自称キリスト者の例えであり、神との契約どおりに神の律法を守らず、真の聖書福音の伝道もせず、聖書の研究もせず、信仰の兄弟との交流も大してせず、好き勝手にこの世で生きていて、神や神の民にとって何の役にも立ってへん人間のことや。拙者が散々非難してる傍観者たちのことや。当ブログを読まへんとか拒絶する者は論外であり、たとえ読んでも読むだけで終わり、実際にその内容に従わず、生き方や言動を改めず、相変わらず何も知らなかった時と同じように世俗的に生きてるだけでは、はっきり言うて、救いの希望は薄いで。当ブログに投稿はするものの、何年何か月経っても一向に変わらずとか、進歩が見られへんとか、それも厳しい。本気で努力していれば、普通は、何かしらの進歩を見せて然るべきやからや。例えば、受験勉強を例にしても、大学受験で現役合格を目指すなら、限られた時間内でどれだけ勉強に充てる時間を捻出し、他の無駄を省くか諦めるかです。あれもしたい、これもしたい等と強欲であっては勉強に費やす時間が足りひんし、かような時間の計算もせずに呑気に遊び呆けてては偏差値六十以上の難関大学の一般受験を経ての進学は不可能やからや。社会人を例にしても、一生懸命に働いていて年数を重ねれば熟達して、こなす速度が上がり、こなす業務量も増えたり、業務時間外も勉強して難関資格を取得したりすれば、それで昇進したり昇給したりもするであろう。もし現所属の会社で待遇改善が行われぬのなら、正当に評価して地位や給料を上げてくれる他社に転職すれば良いだろう。かように、一生懸命に努力してれば、何かしらの良い変化が見られます。良い変化が無いのは、その人が怠けてるせいで、成長してへんからに他ならへん。かように、結果から客観的に評価が可能です。言い訳ばっかしてても過ぎた時間は戻ってけえへん。学校や資格を問わず、受験は、受験日までの時間は刻一刻と迫ってきており、言い訳なんかしても待ってくれませんし、言い訳なんかしても無駄です。決められた期日に向けて自分が時間のやりくりを頑張るしかないからです。信仰も同じです。受験のような目に見える期日の設定が無いせいか、あたかも時間に余裕がある、後回しにしても平気なんて軽んじてる愚か者が多い。しかし、かような愚か者は、人生という時間が有限であることを忘れてる。エノクとエリヤというごく一部の例外を除き、すべての人間は第一の死から逃れられへん。なぜなら、この世で永遠に生きることは不可やからや。そして、明日がある保証なんて何処にあるのか。あんたの命が急に尽きないとも限らへんのやで。若いからとて、絶対は無いんやで。明日事故に遭うて死ぬかもしれへんし、変な奴に目を付けられて殺されるかもしれへんし、急な心筋梗塞等により突然死するかもしれへん。せやから、いつまでも時間があると思うなと言うてるんや。加えて、今の世界情勢を見ても戦争があちらこちらで起こり始め、地震や火山活動も活発になってきて、いつ大災害の被害に遭うて死ぬか分からへんのやで。更に、日本人は、改憲されれば人権や自由を喪失し、聖書を勉強することもでけへんようになるかもしれへん。過去記事で紹介したとおり、実際、日本で戦前は治安維持法という悪法により、世の悪人から聖書の教えを不当に危険視されて弾圧を受けた。悪夢の安倍政権時に、共謀罪という現代の治安維持法も無理やり成立させられた。違憲無効な法律故に現憲法下では効力を持たへんが、自民党や参政党等が提唱してる内容で改憲されてしまうと、それが善人を迫害する材料にされるだろう。せやから、いつまでも自由な時間があると思うなと言うてるんや。何遍言うても分かってへん人が多いけど、拙者が言う事を本気にせえへん者は、ノアの時に大洪水が来ると警告した時に嘲笑ったり、相手にせえへんかった七十万人の大衆側の人間や。これも何遍も言うてるけど、多数派は救われへんさかい、周囲の人間を見て同じようになろうとするな。
上述のとおり、真のキリスト者は地の塩で、塩味がある。それは火という神の力によるものと言える。料理に使うような物質的な塩を意味してるんやない。そして、「すべての犠牲」とは、神と共に居るに相応しい真のキリスト者を指す。信仰のために命を張るという意味での犠牲であり、悪魔崇拝のような人身御供を意味するのではない。神にとっては、福音や神のために悪い人間どもに立ち向かい、最悪の場合殺されることもあり、命を張ってくれたとして栄誉ある犠牲という見方を神はしはるからや。主イエス御自身はその模範となり、無罪なのに死刑を受忍しはったことから主イエス御自身も犠牲になった経験があり、それ故、真のキリスト者にも主イエスの跡に続くようにと模範を残し張った。この考えは、使徒ペトロも同じような事を語ったことからも正しいと分かるやろ(ペトロ一 二章二十一節参照)。犠牲になる尊い真のキリスト者は塩で味付けされ、味気無い人間にはならへん。政府等に扇動されたり脅迫されて、不本意ながらも戦争に参加し、戦死という犠牲になってもまったく栄誉ある犠牲ではないことに注意やで。自民党をはじめ与野党が共謀して改憲しようとしてる今の時代、戦前回帰が危惧され、国民の主権と自由と人権を守るために不当な改憲を阻止すべく必死の抵抗をせず、改憲後にのうのうと戦争に参加するアホどもは過去の歴史を学ばへんかった屑人間として記憶されるだけや。味気無いのは、繰り返すが、怠けて何も有益な事をせえへん自称キリスト者、自称無神論者の不信仰者、異教徒(パウロ教信者を含む)等が挙げられる。拙者から見ても、かような人間はほんまに味気無い。

四、塩を持つ人間になれ
上記聖句のとおり、主イエスは、「塩は良い。せやけど、塩は塩気が無くなるなら、何によってそれに味を付けるだろうか。自身の内に塩を持ちなはれ。そして、互いに平和を保ちなはれ。」と言わはった。塩は塩味があってこそ意味があり、塩気が無くなるなら価値が無いということや。キリスト信仰の途中で脱落した者、口先だけで信仰があるとは言うものの行いや結果が伴わへん自称キリスト者は塩味が無い、味気無いと言えよう。塩味を失った塩はもはや味付けのしようがなく、役立たず故に捨てられると先に紹介したマタイ五章十三節で主イエスが言わはったことである。神から捨てられへんためには、頑張って行いで信仰を示し、結果を出すように励むしかあらへん。しかし、拙者の実感としては、やはり義務感を感じて無理してる人は、前向きでもないし、本心からやりたい事ではないことから、長続きせえへん。それは本質的にその人に神への愛が無いことが原因や。無償の愛と言うように、ほんまもんの愛を持つ人は、愛する者のために見返り等といった報酬が無くても人から指示されなくても自主的に続けるものやからです。人間関係でも同じやろ。大好きな相手に喜んでもらおうとか、誰にも言われずに自主的に頑張るやろ。そないな経験が無いとか気持ちが分からんというのなら、そないな人間は愛を知らへん獣と言え、非常に惨めや。また、言われないと動こうとせえへん人、言われてもやらへんなんていう役に立たずの人間は、地の塩ではないし、真のキリスト者でもない。神のために働かへん役立たずの人間は要らないというのは、主イエスが教えはったタラントンの例え話から分かり、拙者の個人的な意見ではない。
先の「すべての犠牲は塩で味付けされるだろう」という主イエスの御言葉も律法に関係してる。レビ記二章十三節に献げ物には塩をかけよとある。これは、即ち、人間自らを神に献げる(神にとって相応しい神の民になる)には塩を持っていなければならないことを意味する。塩を持たぬ者は、神への献げ物に相応しないからや。もっとも、これは悪魔崇拝のように人間を生贄とする人身御供の意味ではないし、残酷な儀式をするようにとか、神がそれを求めてるのではない。もし人身御供を求めるような宗教は悪魔崇拝と言える故、一切関わってはならない。アブラハムがイサクという息子を献げる描写を悪意によって切り取って「聖書は悪魔崇拝だ」等という嘘を吹聴してる輩も見たことがあるが、ほんまに読解力が無い莫迦な反キリストや。又は、聖書を読んだこともないのに、知ったかぶりの嘘つきで、神と神の民を中傷してるどうしようもない屑人間や。神は、アブラハムが息子を犠牲にしてでも神の命令に従うのかを確かめるために試しただけで、実際に息子を殺させるつもりなんてなかったし、実際に起こらなかった。
犠牲の意味については先に説明したとおり、主イエスを見本と考えれば分かることです。主イエスは、神の民の模範となるべく信仰者として在るべき姿勢や生き方を示して教えはり、又、傷無き神の子羊として十字架刑によって神への犠牲という形を取った。こういうことを意味してるんです。「神のため」と称して、人体を切り刻む等というえげつない悪魔崇拝のような儀式をするといった下卑た事を意味してるのではない。信仰のために、この世の権力者や大衆という悪に屈せず、自分の命すら惜しまず、正しい信仰、ほんまもんの愛を顕現させるのは自身の内に塩を持っていなければ、それがでけへんという教えです。主イエスは冤罪の犠牲者であって、加害者はローマ人のピラトやユダヤ人たちでした。無罪の主イエスを死刑に、しかも散々鞭打ちや侮辱や頭を叩いたりという暴行をした上、残酷な十字架刑にした酷い仕打ちをした悪人こそを非難すべきやろ。現代で言えば、証拠捏造をする等して冤罪を作り上げる警察、検察、裁判官等の権力者、及び、傍観して冤罪被害者を助けようともせず、冤罪被害者を犯罪者扱いする報道機関、当該虚偽報道を信じ込んで冤罪被害者に嫌悪感を持って罵るような庶民も悪人や。無論、主イエスのような犠牲が発生する理由は、この世が悪人だらけやからや。一世紀当時のユダヤはローマ属州として西洋のローマ人から植民地支配を受けて圧政に苦しみ、ユダヤの上層部(領主ヘロデ、祭司長、律法学者、ファリサイ派等)も品性や性格が歪んだ者だらけで、一般庶民も悪徳権力者に同調するような悪人が多かった。せやから、洗礼者ヨハネや主イエスは彼らから嫌われ、疎まれ、殺された。現代日本もかつての古代ユダヤと同じで、歴史を繰り返してる。カトリック、イエズス会が背後から糸を引く英米という西洋人から間接植民地支配を受けて偽日本人(朝鮮系や支那系等)が日本の上層部(政府、官僚、国会、裁判所、検察等)にはびこって、日本国民は不法者による圧政に苦しんでる。拙者が何遍も言うて教えてきた事が真実やとええ加減さっさと気付いて、生き方を変えよ、行動せよ。かように、正しい人間はこの世では嫌われ、疎まれ、優遇されへん。それがこの悪い者が跋扈する仮の世での宿命や。したがって、神の律法を無視し、聖書を曲解して真理を理解してへんと、まるで正しい理解がでけへん。パウロ教信者どもはこの世と世にあるものを愛し、偽使徒パウロの律法廃止論を信奉して主イエスと十二使徒の教えを無視して守らず、罪人のままで悔い改めへん故、絶対に拙者のような考えを持たず、嘘ばかり言うたり、嘘を信じ続けて、結果は不信仰者や異教徒と共に滅びる。カトリック、正教会、プロテスタント等の世の諸教会や諸教派に属する者は地の塩では断じてないし、不信仰者やその他の異教徒も論外。

 

五、余談
この太陽暦二千二十五年七月に参議院議員選挙がありました。自民党や公明党の与党議員は数を減らし、参政党が躍進した。しかし、どの国会議員を見ても旧憲法(大日本帝国憲法)と同じような内容への改憲を支持したり、徴兵も肯定したりといったおかしな人しか居らず、拙者が言うてきたとおり、「与野党グル」なのが明白です。無所属でもあかん人ばかり。なぜなら、誰も改憲反対を言わず、世界保健機関(WHO)からの脱退を言わず、コロナ犯罪(存在しないウイルスという脅威を煽ってマスクやワクチンという有害無益な物を他人に強要し、多くの人命を奪い、傷害も加えた大犯罪)を非難せず、5G等という強電磁波の危険性を言わへんし廃止させようともせえず、政府からの監視管理に悪用されてる個人番号券やその制度の危険性を言わず反対せえへんからです。これらが何を意味するか。すべて支配層側の仕込みの人間しか居らんか、又は、世の真相を知らぬ愚か者しか居らんかのどちらかです。過去記事で拙者が言うたとおり、選挙において立候補するには供託金三百万円も必要になり、法定得票数に達しない場合は没収されます。そして、三百万円という金額は、海外諸国に比べて異常な高額であり、不当な差別であり、憲法違反であり、本来は許されへんものです。憲法四十四条「両議院の議員及びその選挙人の資格は、法律でこれを定める。但し、人種、信条、性別、社会的身分、門地、教育、財産又は収入によつて差別してはならない。」に違反してるからや。三百万円という高額な供託金を簡単に払えたり、かつ、当選せずに没収されても生活に支障がまったく無いという金持ちしか参入でけへんのは、明らかに「財産又は収入によつて差別」してるからです。また、憲法十四条一項「すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。」という「経済的」という点において差別されてるのが実態であり、高額な供託金制度はこの条項にも反しており、違憲無効となる故、供託金制度は廃止されるべきやし、これまでの選挙結果もすべて違憲です。なぜなら、日本での三百万円という高額な供託金の壁のせいで、まともな人が経済的理由で立候補を断念してきた人が多い筈やからや。せやから、少なくとも、外国の先進国並みの低額(数万円程度まで)にすべきです。かような違憲状態を何十年も放置してるから、明治維新以来続く薩長閥出身の金持ち売国奴家系や元芸能人等という無能が高額な歳費を受け取って日本国民を裏切る政治家の地位を保持し続けるという、本来あってはならない状態が長く続いてるのです。実際、不正に選ばれた現代の政治家どもは日本国民のことを想っておらず、自分の利益ばかり考えており、支配層や官僚等から指示されたことを忠実に言うたりする役者に過ぎひん。簡単に高額な供託金を払える金持ち、役者に過ぎひん操り人形の政治家の後ろに隠れて欧米と通じてる悪徳官僚らは、悪魔崇拝者である欧米の支配層に媚びへつらう悪い人間ばかりやから日本国民を虐げるような政策を長年続けてるやろ。かような無様な状態で民主主義と偉そうに偽って堂々と謳ってるのが社会主義国の日本であり、資本主義国と嘘をついてる日本政府や報道機関や学校教育で、悪人どもにすっかり洗脳されておとなしく無抵抗で従う多くの日本国民も恥じて、悔い改めるべきや。コロナ犯罪から数年を経た今でもこの世の異常さに気付かへん人が多いし、指摘もせず、是正しようと行動せえへん人は、ほんまに頭おかしいですよ。理不尽に暗殺された石井紘基氏も旧ソ連を研究して社会主義国の仕組みを理解し、日本の統治機構もそれと酷似してることから社会主義国として認識し、それを改めへんのならいずれ崩壊すると警鐘を鳴らしてた。そして、拙者が言うてきたとおり、多くの日本人が憲法、法律、政治、経済等に無知であり、たとえ知識があっても何もせえへん無能ばかりやから、日本人が減り続けることで日本は衰退し続けており、大量の移民外国人にいずれ乗っ取られ支配されて滅びます。ほんまに滅亡寸前です。それも多くの無知無能で臆病な日本国民のせいです。前回記事「真の栄光は艱難を経て得られる」で安保闘争について紹介もしたとおり、昔の日本人は現代の日本人のような行動せえへん臆病者ではなかった。先の大戦に関して伊丹万作氏の言葉を引用したように、戦前戦中の日本人らも政府に騙され盲従した落ち度ある人間であったが、それでも現代人のあんたらよりはマシです。現代日本人は、ほんまに史上最悪です。品性も身なり(西洋かぶれして洋服を着る等)もです。加えて、聖書を読みもせえへんし、たとえ読んでも読解力も無く、パウロ教に逸れたり、怠惰で遊び呆けるし、正当な根拠も無く無駄に拙者に楯突くような人も居り、まったく取り柄が無い。
創世記十八章で、主なる神はソドムとゴモラの堕落を見過ごせぬとして、滅ぼそうとしはった際、アブラハムはソドムのために取り成した。そこには、アブラハムの甥であるロトが住んでたからや。その際、五十人の正しい人間が居れば町を滅ぼさへんと、主は言わはった。その後で、アブラハムは人数を減らして交渉するが、最終的に十人の正しい人がその町に居れば滅ぼさへんとして終わった。しかし、その直後の創世記十九章になって、二人の御使いがソドムを訪れた。それは、主なる神がソドムに十人の正しい人間を見出だせず滅ぼすことを決定し、アブラハムのために彼の身内のロトをソドムから避難させるためであった。ロト自身が正しい人間であったからではない。結果から見れば、アブラハムの取り成しは功を奏さず、ソドムは滅ぼされることになった。なぜなら、ソドムにたった十人の正しい人間が居らんかったからや。もし十人以上の正しい人間がソドムに居ったなら、主なる神はソドムをその義人たちのために滅ぼさずに我慢すると仰せやったからや。しかし、主は、ソドムとゴモラを滅ぼすと決め、実際に滅ぼしはった。この事からも如何にこの世には神の目に義人と認めるに足る人間が少ないか分かるというもの。アブラハムとの交渉により、主なる神は義人が十人居ればその人たちが住む場所を滅ぼさへんと言うたのは、その義人たちが巻き添えを食らうからです。この事から「正しい人間が十人」というのが一つの基準であり、それに満たぬのなら、超少数の正しい者やその縁故者を退避させ、その場所ごと他の悪人どもを滅ぼすのに神は躊躇せえへんと知るべきや。神は、正しい信仰を持ち、神の律法を守り、自分の命を失うことも恐れずに神を愛して忠実に従う者だけを救いはるからや。せやから、神に逆らう不信仰者や異教徒らはどうでもいいのであり、滅ぼすことを厭わへん。現在滅ぼさずに取っておかれてるのは主なる神に忠実な義人のためであって、不信仰者や異教徒らのためなんかではないことを覚えよ。また、この世全体を滅ぼすのは、キリストの再臨時であり、それまで悪人どもが調子に乗ってこの世で好き放題してるが、それは滅ぼす時が未だ到来してへんだけでしかなく、容認してる訳やないで。先の基準に照らすと、日本も決して安全ではない。愚か者は、「神の裁きはどうした」、「この世は相変わらずじゃないか」等と舐めた口をきくが、勘違いすなよ。慌てんでも、その時が来れば、確実に裁かれる。
この世での義人の少なさと言えば、ノアの時代も同じやった。過去記事「聖書の終末預言 三」で書いたとおり、ヤシャルの書によれば、当時は七十万人程度居った。しかし、救われた人数は、聖書が示すのはノアとその家族の合計八名だけや。これも十人に達しなかった。救われる確率の低さをこれらの事例からも思い知るべきです。しかも、これも実質的には、他の七人を含めず、ノア一人のためであった。当時、神は、生きたまま天に上げられたエノクの息子のメトシェラとノアの二人だけを神に忠実な義人と認めていた。そのメトシェラが人類史上最高齢という天寿を全うした後、義人はノアだけになった。当時のノアは、神がこの世に悪人が多過ぎる故に世界を滅ぼす事を知って、結婚することも子供を持つことも考えてへんかった。しかし、一旦世界が滅びた後、人類が再び地上で増え広がるためにも神から家族を作れと言われたため、ノアは妻を娶り子供を作った。せやから、ノアの家族は人類が途絶えへんようにという理由だけで取って置かれただけであり、彼ら自身が義人やったんやない。ノアの息子のハムの悪行も創世記九章に記載があるとおり、ノアの家族は神の目に適う者ではなかった。せやから、かように聖書が教えるのは、救われるのは狭き門であり、ごく一部の神から選ばれた人だけや。せやのに、なんで多数の不信仰者が救われると思うのか。なんで世界の多数派のパウロ教信者なんかが救われると思うのか。なんで大勢の異教徒なんかが救われると思うのか。もし日本もたった十人の義人が居なければ、滅ぼされるかもしれへんで。日本は一億人以上の人口を持ちながらも、神から認められそうな義人を見付けるのは非常に困難や。実際、拙者自身がその証人であり、現状では日本の見通しは暗く、非常に厳しい。
日本の将来の暗さを話してると、「諸外国はどうなんだ」と質問が飛んで来そうやさかい、予め答えよう。諸外国は、つまり、異邦人が多く居る所であり、主なる神が寵愛する古代イスラエル人とは血統的に無関係な人たちばかりという前提理解が必要や。神は最初から異邦人なんて然して気に留めてへん故に特別に愛されてへんというのもあるし、黙示録で獣や第二の獣とあるように彼らは異邦人で、悪を行う役目を担う。せやから、海外の各国に十人以上の義人が居るか居ないかは重要ではないし、世の終わりまで異邦人は悪役として取って置かれてると言える故、他国のことを考えても意味が無い。そんなことより、日本の心配をせい。せやから、異邦人は神から懲罰を未だ受けずにいるだけでしかなく、彼らが優れてるとか正しいという意味やないし、神から特別待遇を受けてる訳でもない。異邦人どもは、懲罰をあまり受けへんために調子に乗って悪事を働き続けるが、死後に天国に行ける訳ではない。異邦人も救われたければ、キリスト教を偽装してるパウロ教である世の諸教会や諸教派(カトリック、正教会、プロテスタント等)なんかに聞き従うんやのうて、拙者が宣べ伝えてきた真の聖書福音のとおりに悔い改めなければ、地獄行きは必至や。異邦人(外国人)の殆どは、契約の民やないし、不信仰(パウロ教信者やその他の宗教信者も含む)とその悪行故に最終的に地獄行きになる故、日本人は異邦人という古代イスラエルと無関係の外国人を見て、あーだこーだ言うてる場合ではないし、気にしてる場合でもない。他人を気にする前に、もっと自分自身や自国を気にせい。他人の目に付いた屑(小さな落ち度)を気にする前に、自分の目に付いてる梁(大きな落ち度)に気付いて取り除けという主イエスの教えを理解して、行動で示しなはれ。
ともかく、拙者が多くの過去記事や動画で説明した、日本が真正イスラエルであること、日本人の一部が古代イスラエル人の末裔であるという事実を理解せねば始まらへん。現代日本は支那人や朝鮮人等の移民やその移民との混血が進み、日本人全員が古代イスラエル人と言える状態にないことも説明済み。主なる神がダビデの王座をこの世の終わりまで維持するという約束が日本の天皇制に引き継がれてるのも説明済み(他国にはダビデの後から今に至るまで続く王を保持し続ける国が日本以外に無い)。神社は日本にしかなく、歴史が古い神社は律法どおりの造りになってるし、伝統的な和服も律法に適う。イザヤ書では中東から見て東の島々に古代イスラエル人が行くことを預言してる。日本人の遺伝子は、支那人や朝鮮人のとは異なる。日本語とヘブライ語には多くの共通の音と意味がある。これらを総合して、日本が真正イスラエルであることを拙者が既に論証した。ロスチャイルド家によって無理やり建国された中東の偽イスラエルの住民や欧米に多いユダヤ系と言われてる白人どもは、実際はハザール人の末裔でしかなく、聖書のイスラエル人とはまったく無関係であるし、古代イスラエルと何ら共通点が無いし、モーセの律法を守らずにタルムードという悪魔崇拝教典を信じてる自称ユダヤ人の偽ユダヤ人や。せやから、彼らがユダヤ人と名乗ったり報道機関等が彼らをユダヤ人と呼ぶのは嘘や。実際、彼らは、予め主イエスが黙示録で示しはった偽ユダヤ人であることも過去に紹介済み。もし日本が終わって天皇制も無くなるようであれば、主なる神がダビデにした約束の終わりを迎えることを意味し、即ち、それはこの世の終わりが近いということや。もっとも、形式的に日本という国を残しただけで古代イスラエル人の末裔たる純日本人が死に絶えて、異邦人が帰化等して日本人ぶって、かような外国人血統の者が多数派になって日本列島に居座るこの世なんて存在価値が無いさかい、神はこの世を滅ぼしはるであろう。「報復は神が行う」とはこの意味や。せやから、異邦人どもよ、日本を潰したり、純日本人を迫害して喜んでる場合やないで。日本を潰して古代イスラエル人の純日本人を絶やすなら、この世の終わりを近付けてるのと同義と理解せい。日本人は、敵国人である英米人や支那人等の外国人に媚びへつらうのをやめ、西洋かぶれもやめて、不法行為(罪を犯すこと)をやめて、主イエスに立ち返られへんなら滅びるで。主イエスの信仰を持たず、神の律法を守らず、好き勝手にしてる人間の罪も非常に大きく、地獄の刑罰を免れると思うな。イーロン・マスク氏も日本が滅びることに懸念を示したことがあったが、彼は日本の滅亡が世界の滅亡に関わることを知ってるかもしれへん。しかし、米国は、幕末のペリー来航以来ずっと日本の敵で在り続け、日本を滅ぼすために多くの悪事を散々しておきながら、今更同情とか懸念なんて白々しい。本気で憂うなら、米国は日本への間接植民地支配をやめるように行動せい。それを実行せえへんなら、信用に値せえへん。かように、多くの日本人も拙者のように上辺の言葉だけやのうて、行いで人を判断する賢い人間になるように努めよ。有名人がちょっと日本や日本人に寄り添うかのような発言や褒める等のおべんちゃらを言うただけで、すぐに信用したり支持すな。そもそも、政府や有名人なんか基本信用してはならん。なぜなら、支配層側の人間やからや。有名人だから支持するといった単細胞人間になるな。世の権威に盲従するな。見る目を養って賢く振る舞え。臆病になるな。行動せい。さもなくば滅びる。
日本人の一部が古代イスラエル人であり、それ故自動的に古代イスラエル人の末裔全員は、モーセが仲介者となった古い契約の拘束下にある。律法に違犯するという罪を犯して契約違反をすれば呪いがあることも律法に明記され、大量の移民外国人に乗っ取られ、原住民である純日本人が減少し続けて追い詰められつつある現状はまさにそれを示しており、聖書や律法の真実性を証明してる。せやから、聖書や神の律法を軽んじるな。そして、主イエスによって新契約に更新された。しかし、新契約と言えども、律法を無視して守らなくてもええ訳ではない故、拙者は神の律法を守れと言い続けてるんや。律法を守らずともよいと言うたのは偽使徒パウロであり、それを継承してる世の諸教会や諸教派のパウロ教信者どもで、彼らの嘘を信じて神の律法を無視して違犯し続けて悔い改めを拒むなら地獄行きしあらへん。
また、聖書にあるとおり、主なる神は御自身を「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と仰せで、そのヤコブは天使と相撲を取った後、イスラエルと改名し、その子孫であるイスラエル十二部族から派生した古代イスラエル人が神にとっては特別な民族である。日本人はその一部であることを自覚せい。しかし、「日本人として生まれて良かった」と安易に喜ばず、出生を誇るな。なぜなら、出生については、あんたら自身の功績でもないんやから。大事なのは、生まれた後で何をしたかという実績であり、聖書に則り神の目に適う善い事をしたのなら、それは功績になろうが、他人に自慢することでもなく、「当然の事をしただけ」と謙虚に思うべきや。神から特別に愛されてるなら、その愛への裏切り(不信仰であったり、神の律法に違犯すること、西洋かぶれといった異邦人の道に行く等)という背信行為に対しては通常よりも厳しい罰があることも覚悟すべきであり、責任重大であると思て気を引き締めなければならず、古代イスラエル人の末裔であることに浮かれてる余裕なんて無い筈や。せやから、古代イスラエル人の末裔の日本人の不信仰は、異邦人の不信仰よりも罪が重いと言える。日本人が不信仰であったり、神の律法違犯をやめへん等であれば、異邦人に対する罰よりも重い罰が科せられるだろうと覚悟すべきや。せやから、異邦人も神の律法を無視して違犯してええ訳ではないが、特に日本人は神の律法を守るべきで、主イエスの教えに忠実な言動を平素からしてへんようでは、きつい懲らしめに遭う。貧しい人や困ってる人を助けるといった慈愛ある行いも重要やが、自身の救いのためにも主イエスの信仰を持ち、神の律法を守って罪を犯さへんようにするという基本がなっていないと救いの候補者にもなられへんことを忘れるな。せやから、地獄という永遠の破滅たる刑罰を甘く見ず、それを受けへんためにも、拙者の警告を真剣に聞き入れ、もっと理知的に考え、適切な行動をせい。

 


この世がおかしい、悪人や悪い出来事が多過ぎるって、拙者のブログや動画を見れば嫌という程、分かるやろ。この世に期待するんはやめましょう。手遅れになる前に聖書を読んでこれまでの言動と心の中をも改めて、万物の創造主であり、唯一の救い主(メシア)であられる主イエス・キリストに立ち返りなはれ。主イエスへの信仰と、キリストの再臨という希望と、愛を持って完全な者となれるように日々大切に生きましょう。一人でも多くの人が救われることを願っています。
 


 

以上