こんにちは。
今回は、人を判断する基準について述べます。
新約聖書 マタイによる福音書 十二章三十三節〜五十節(拙訳)
「木が良ければその実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなはれ。木は、実によって知られるからや。蝮の子らよ、悪い存在で、どないしてええ事を言えようか。心に大量にあることから口は話すからや。善い人は、心のええ倉からええもんを取り出し、悪い人は、悪い倉から悪いもんを取り出す。せやけど、あんた方に言うとく。もし人々が話したならそのすべての無益な言葉は、人々は裁きの日にそれらについて弁明するだろう。あんたは、あんたの言葉によって義とされ、また、あんたの言葉によって有罪宣告され罪ある者とされるだろうからや。」
その時、何人かの律法学者とファリサイ派の人々が答えて「先生、あんたからしるしを見たいです」と言う。
しかし、(イエスは)答えて彼らに言わはった。「邪悪な世代や姦通者はしるしを求めるが、預言者ヨナのしるしの他には、そないな者にしるしは与えられへんだろう。ヨナは三日三晩、大魚の腹の中に居ったように、かように人の子も三日三晩、大地の最深部に居るだろうからや。ニネベの男たちは裁きの時、この世代の者たちと共に立ち上がり、彼ら(その世代の者)に有罪宣告するだろう。なぜなら、(ニネベの男たちは)ヨナの説教で悔い改めたからや。そして、見よ、ヨナより優れてるのがここに(ある)。南の女王は裁きの時、この世代の者たちと共に立ち上がり、彼ら(その世代の者)に有罪宣告するだろう。なぜなら、(彼女は)ソロモンの知恵を聞くために、地の果てから来たからや。そして、見よ、ソロモンより優れてるのがここに(ある)。」
ところで、「汚れた霊は、人から出て行くと、休息を求めて水が無い場所を調べるが、見付からへん。そこで、『出て来た我が家に戻ろう』と言う。そして、戻って来ると、空になっており、掃除されて、装飾された事を知る。そこで、出掛けて行き、自分よりも悪い他の七つの霊を一緒に連れて来て、そこに入って住み着く。そうなると、その人の最後は最初よりも悪くなる。この悪い世代の者たちにもかようになるだう。」
しかし、未だ群衆に彼(イエス)の話をしてるとき、見よ、彼の母と兄弟たちが、話すために彼(イエス)を求めて外で立っていた。
更に、ある人がイエスに、「見よ、あんたの母とあんたの兄弟たちが、話すためにあんたを求めて外に立った」と言うた。
しかし、(イエスは)その人に言われた事に答えて言わはった。「我が母は誰か。我が兄弟は誰か。」そして、彼の弟子たちの方に手を伸ばして言わはった。「見よ、我が母、我が兄弟たちや。天の我が父の御意志を行う者は誰でも、我が兄弟、姉妹、母であるからや。」
一、人を実で判断せないかん
上記聖句に「木が良ければその実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなはれ。木は、実によって知られるからや。」とあるとおり、主イエスは人を木と例え、実を人の言動と例えはった。人が良ければ、その言動も良いのであり、人が悪ければ、その言動も悪い。なぜなら、人はその言動によって判断されるからや。言動とは、人が発する言葉と人が実際にする行いの事や。せやから、常々、人を判断する際は、言葉と行いに着目し、それによってその人間性の良し悪しを判断すべきなんや。決して、その人の外見、社会的地位、肩書き、財産、名声、縁故等で判断してはならんのや。しかし、この俗悪な世においては、この主イエスの教えを知らぬ無知で愚かな人間が多く、多数派は、人を判断する際に外見で判断したり、社会的地位や肩書きがある人や有名人というだけで特別扱いしたり、場合によってはそれらを持たぬ人と待遇を変えるという差別をする愚民も多い。ほんまに多いやろ。テレビなんかを見ても顕著なとおりで、自分の利益のために、テレビ局や芸能人に対して胡麻をする愚民が多く、一般人にはせえへん特別待遇をする。外面だけええかっこしいの愚民は、同じ類の人間を騙せても、拙者を騙す事はでけへんからな。もし、人を見極めるのに失敗したないなら、この主イエスの教えを肝に銘じ、人の言動のみでその人の本質を判断すべきで、その他の余計な情報に惑わされたりして判断を誤るべきではない。
そして、判断するにあたり、自らの主観的判断や感情によって判断したらあかん。例えば、人には好き嫌いがあり、嫌いという感情を抱いた相手には、その人が何をしても好かんとなって、否定的な思いを抱くに違いないだろう。しかし、かような感情的な判断や対応をしてては、確実に失敗すると警告しておく。なぜなら、あんたらの主観や好き嫌いなんてどうでもええし、神の基準にも合致せえへんし、愚かにも自分自身が正しいと思い込んでる高慢さがあるからや。なんで自分の好き嫌いの感情が絶対に正しいと言えるのか。言えると思ってる人らは皆、頭と心が悪過ぎる。何ら客観的根拠や証拠に基づかず、「なんとなく」とか「直感」等と意味不明で曖昧な事で判断する愚民が多い。しかし、かような浅はかで誤った判断や対応をした際、場合によっては取り返しがつかへん愚行をする事になると肝に銘じ、そうならんように注意しなはれ。
二、悪人からは悪い言葉しか出えへん
上記聖句のとおり、主イエスは、「蝮の子らよ、悪い存在で、どないしてええ事を言えようか。心に大量にあることから口は話すからや。」と明確に言わはった。ここで主イエスから「蝮の子らよ」と言われてるのは、文脈的にファリサイ派の人々や。蝮の子は、言い換えれば、悪魔の子と同じや。そして、律法学者やファリサイ派の人々らが「悪い存在」と主イエスから非難されてることも分かる。聖書を理解でけへん読解力が無い人のために、分かり易く、彼らが悪い存在とされた理由を単刀直入に言う。律法学者やファリサイ派の人々らが主イエスから非難された理由は、彼らが律法を擁護するという建前を取りながら、実際には律法を守っておらず、律法を制定しはった神の御意志を理解もせず、形式だけ守ったつもりになって自己満足して敬虔ぶっているが、性格は悪くて放縦であり、善い行いは一切せず、彼らの仲間に偽教義を教え込み、より悪い地獄の子を作ってた偽善者であり、メシアである主イエスに敵対したからや。彼らが律法を守る事やそのように教えた事自体を非難されたのではない。くれぐれも勘違いせんように。
現代では、パウロ教信者集団であるカトリック、正教会、プロテスタント、その他聖書を悪用するカルト宗教すべて、教会に所属せえへん個人でもパウロ教信者であるなら誰でも、かつてのファリサイ派にも劣る存在であり、パウロを信じて擁護する者は誰でも反キリストであり、パウロと同じファリサイ派であり、主イエスと真のキリスト者に敵対する滅びの子と言える。一世紀当時のファリサイ派は律法を擁護してるだけマシで、パウロ教信者どもは律法をまったく擁護せず(十戒だけ有効としても不十分)、擁護どころか十字架によって廃止されたという嘘を吹聴した偽使徒パウロの偽教義を盲信し、かような反キリスト発言をして堂々と律法を無視して違犯し、悔い改めを拒絶してる故、神の目に正しいと認められることは決してないからや。また、拙者に対して正当な理由も無く楯突き、悪口を言うてる者どもも同じや。彼らの言葉を見聞きして明確に分かるとおり、悪い事しか言わへんやろ。彼らの言葉が悪いと判断でけへんのなら、その者も同じ穴の狢であるからや。もし拙者の言葉が悪いと思うのなら、その者が反キリストで、価値観が真逆故に、悪い言葉をええ言葉とし、ええ言葉を悪い言葉とし、正常な判断がでけへんことに原因がある。本人らはその事実を理解出来ず、自分らの立場や考え方こそが正しいと高慢になっており、改心が非常に困難な場合が多い。かような人は救われ難い。そして、パウロ教信者どもは、心が悪い故、口から悪い言葉しか出てけえへん。ローマ教皇をはじめとし、すべてのパウロ教信者らの口からは何もええ言葉は出てけえへんし、行いも悪い。
三、善人と悪人は心がまったく異なる故、言葉も行いも異なる
上記聖句のとおり、主イエスは、「善い人は、心のええ倉からええもんを取り出し、悪い人は、悪い倉から悪いもんを取り出す。」と言わはった。善人は、心がええさかい、言葉もええものである。但し、これは言い方等を問題にしてるんやないし、あくまで重要なのは内容であり、この悪い世の中の基準で考えてはならん事に注意が必要や。万人受けするような当たり障りの無い言葉、悪い人間にとって耳触りが良い甘やかす言葉、罪人に悔い改めをさせへんような言葉、悪い権力者や富裕層等に迎合するような言葉は、ええ言葉と判断でけへんからや。しかし、この世では、否定的な事を言わへんようにするとか、事実であっても誰かにとって不都合なものなら直接的な言葉を避けて回りくどい言い方をしたり、政治的妥当性(political correctness)という建前で一定の言葉の使用を不当に禁じたり、ネット上の投稿を検閲して削除したり凍結や削除等の不当な処置をしたり、あまりにふんわりし過ぎて何が言いたいのか分かりづらいような言葉を選ぶ傾向が強くなってきてると感じる。しかし、これらは、神の目に善しとされる行いではない。せやから、この悪い世で権力を持ってるローマ教皇、国際機関、各国政府、報道機関、教育機関(学校等)等が言うてるような事は殆ど間違いばかりであり、悪人にはきちんとその悪さを指摘し、改めるように言うべきや。主イエスもファリサイ派や律法学者や一般人に対して分け隔てなく悔い改めを宣べ伝えたとおりで、人によって言葉や態度を変える必要は無い。しかし、実際には、保身を考えて言うべき事を言わず、放置し、利益のために他人に媚を売る者が多いが、そないな者も悪人や。会社でもそれは顕著であろう。上長に対して率直に物言えぬ人が多いであろう。正直に言えば、関係が悪くなる、人事評価に悪影響が出る、最悪の場合は解雇されると恐れるあまり、言いたい事を言わずに我慢してる人が多いでしょう。学校でも同じで、内申書や成績表等を書く教師に悪い評価をされたくなくて胡麻をすったり、理不尽な事を言うたり行ったりする先輩や怖い同級生等に何も言えず従ったりして、いじめられるのを恐れて悪い行いに加担したりすれば悪人に成り下がる。しかし、こないな社会は健全ではないし、悪人ばかりが世にのさばることになる。大人の社会も子供の社会も悪い者が多い。その結果がこの悪い現代社会であり、「この世全体が悪い者の中にある」(ヨハネ一 五章十九節拙訳)のとおりになってるのが分かるでしょう。主イエスと十二使徒の言葉は、ほんまに正しい事ばかりであり、聖書から勉強せえへんのは非常に勿体無いし、天国行きになる可能性を自ら閉ざすことになる。神の御言葉が書かれる聖書を毛嫌いしたり、神の律法を無視して違犯したり、偽使徒パウロを狂信したり、そういった事をする者たちは悪魔の子やから、神を嫌って無関心で在り続け、神の教えを守らへん故に地獄行きになる。これは論理的帰結や。もし「自分は悪魔の子ではない」と言い張るなら、聖書を読み、世の大多数の人間や自分自身の間違いに気付き、自分を捨て、世の権威に盲従せず、主イエスを模範として倣う生き方を選択する筈です。かように、行いがすべてを証明します。口先で何と言おうとどうでもよく、口で言うたなら、きちんと行いで示さねば、それは嘘つきということになり、かような事をする者も地獄行きになるのです。
四、自分の言葉に責任を持とう
上記聖句のとおり、主イエスは、「もし人々が話したならそのすべての無益な言葉は、人々は裁きの日にそれらについて弁明するだろう。あんたは、あんたの言葉によって義とされ、また、あんたの言葉によって有罪宣告され罪ある者とされるだろうからや。」と言わはり、人間が話した言葉(ネット上や手紙で書いた言葉も含む)次第で、義とされたり、罪人とされるということで、発する言葉の責任は重いことが分かる。裁きの日とは、各自の生命が終わり、神の御前で受ける最後の審判の時であり、各自が発した生前の言葉が吟味され、神の御意志に適うものであったり、神の律法や神の教えに適合するええ言葉なら義とされるが、そうでない言葉はすべて悪とされ、有罪宣告され、地獄行きになることを知らないかん。日々、気軽に冗談のつもりで話したこともすべて記録されており、それらの責任を後で問われることになる。下品で卑猥な言葉、自分の立場を弁えへんような言葉、高慢で尊大な態度や性格から発せられる言葉、怒りや恨み等といった感情的になって出てきた言葉、他者を誹謗中傷した言葉、自分の利益のために他者に媚びへつらった言葉、事実と異なる嘘、その他すべての悪い言葉は、神からええ評価は得られず、義と認められることはないだろう。無益な言葉ですら弁明を求められ、言葉を発するからには何かしらの意図に基づくものであるべきで、意味の無い言葉、役に立たへん(無益)な言葉も控えるべきということも分かるであろう。せやから、何を話すか、話す前によう吟味してから言葉を発するようにしましょう。拙者が何年も前から注意してるとおり、当ブログへの投稿や感想もそうで、しょうもない感情的な言葉や記事に無関係な話なんか要らんし、話すからにはきちんと考えた上ですべきです。平素からもっと思慮深くなって、役に立つ建設的な事を言うようにしてください。
五、悪魔の子は言葉や行いで人を判断出来ず、しるし(奇跡等)を欲しがる
上記聖句のとおり、主イエスは「邪悪な世代や姦通者はしるしを求める」と明確に断言しはった。邪悪な者や神以外のものにうつつを抜かしたり信じたりする偶像崇拝者(姦通者)、字義通りの姦通者(不倫する既婚者、独身でも他者と性行為をした者等)といった罪人の多くは、人を言葉や行いから判断出来ず、目に見える力を欲する。しるし(奇跡等)が分かり易いからで、脳を使う必要性が無いからね。「この人はどういう人なんだろう」と思ったら、まずは話を聞いてみるとか、過去の言動を確認してみたりして、分析するのが通常であるが、それらがでけへん、または面倒くさがり、正当な理由も無く相手を疑い、思考や調査等をすることを怠り、「力を見せろ」、「しるしを見せろ」等と言って相手に目に見える形で要求する。要は、こないな邪悪な者たちは能無しなんですよね。
文脈から、主イエスが言葉によって義とされ、または、有罪宣告されて罪人とされると言わはった直後に、「何人かの律法学者とファリサイ派の人々が答えて「先生、あんたからしるしを見たいです」と言う」たことから、彼らは主イエスの話をまったく聞いておらず、目に見えるしるしを要求した。もう分かりますよね。彼らが人の話をまったく聞かず、内容も理解しておらず、考えることがでけへんから目に見えるしるしを見たいと愚かな要求をした。現代でも同じであり、過去記事「偽りの霊による働きへの警告 前編」でも触れたとおりで、邪悪な人間ほど、しるしで自分を正当化したり、しるしによって信じて従うかを決める。しかし、主イエスの御言葉のとおり、そないな事をする者は救われまへん。せやから、賢くなるように必死に努力しましょう。怠惰であってもあかん。
六、主イエスは預言者ヨナやソロモン王よりも優れてる
上記聖句のとおり、主イエス自ら「ヨナより優れてるのがここに。ソロモンより優れてるのがここに。」と言わはった。そもそも、主イエスは神なんやから、当たり前であり、人間と比較にならへん。ソロモン王は、聖書から明らかなとおり、古代イスラエル王国の全盛期を迎えた時の王であり、彼は主なる神に従順であった時は知恵に満たされ、多くの人を感心させ、財力もふんだんにあり、それ故、多くの人々の尊敬と憧れの的になった。しかし、そんなソロモンは、晩年には異邦人の女にたぶらかされ、不信仰になって道を逸れて主なる神を裏切った。そのソロモンの背信のせいで、後で古代イスラエル王国は分裂した上、滅んでしまった。その影響で、古代イスラエル人は東方に移動し、今の日本が出来上がったことは拙者が作成した過去動画「真の聖書福音と預言 【第八回】日本はイスラエルである Bible, Jesus Christ, The true biblical Gospel and Prophecy」でも明らかや。ソロモン王の失敗からも、不信仰であることの悪さ、途中で信仰から脱落して道を逸れることの悪さが分かるやろ。人間でも自分を裏切った人をええようには思わへんやろ。神も同じであることを忘れたらあかんで。直接、神の御顔や御発言を見聞きすることがないさかい、神から悪く思われてると都合良く思わへん人が多いが、それは神を侮り、舐め切ってる。そないな悪い人間が救われると思うでない。聖書にもあるとおり、過去に拙者が何遍も言うたとおり、神は心を人間の心の中をも見透かすお方や。何一つ隠し事はでけへんのに、隠せてると思い込んでるなら、その者は愚か者や。優れたお方である主イエスから学び、その弟子(キリスト者)になりたいなら、心の底から悔い改め、従う必要がある。そのためには、この世で上手くやり過ごそうとか、贅沢しようとか、ええ思いをしよう等と思てたらあかん。
七、油断してると以前よりも悪くなる
上記聖句のとおり、主イエスは「汚れた霊は、人から出て行くと、休息を求めて水が無い場所を調べるが、見付からへん。そこで、『出て来た我が家に戻ろう』と言う。そして、戻って来ると、空になっており、掃除されて、装飾された事を知る。そこで、出掛けて行き、自分よりも悪い他の七つの霊を一緒に連れて来て、そこに入って住み着く。そうなると、その人の最後は最初よりも悪くなる。この悪い世代の者たちにもかようになるだう。」と言わはった。これは、悪霊が人から出て行って、その人がまともになったり、キリスト者になると言うたとしても、油断してると、悪霊が戻ってきて、更に戻る際に他の悪霊も一緒に連れて来て、住み着く結果、その人の状態は最初の状態よりも更に悪くなることが言われてる。悪い世代の者たちもそうなるとも言われており、当時のだけでなく、現代にも適用されることや。そないな人を幾人か実際に拙者は見てきたからや。当教会に入ってキリスト者として残りの人生を生きて行くと言うて入ってきたものの、途中でおかしくなり、翻意し、追放処分にせざるを得なくなった人たちが居った。理由は様々で、主イエスに逆らう、主イエスの教えを曲解して根拠も無いのに自分が正しいと強く思い込んで他者を偉そうに非難する、怠惰で何も役に立つことをせえへん、義務感から嫌々やってるように見えて後ろ向きな姿勢が明らか等です。こういった点は、聖書に照らしても神の民の品性や行いには相応しくないのは明らかや。霊は目に見えず、分かりにくいんやけども、その人の言動によって判断すればやはり否応無しに分かるものです。上記一で書いたとおりで、主イエスの教えは正しく、人は言動で判断すべきなんです。ええ人ならば、言動もええ筈であり、悪い言葉や悪い行いをする筈がなく、もし悪い言動をするなら、その人は悪人であるというのが客観的判断であり、正しい評価の仕方です。せやかて、一時の気の迷いもあるかもしれまへん。もし一時的なら、すぐにええ状態に戻る筈で、長い間悪い状態が続くなら、もうその人はあかんのであろうという推察が出来る。悪い言動をする人には悪霊が憑いてることが殆どで、神や神の民に対してええ言動をせえへん。自分自身をキリスト者であると言いながら、平素から悪い言動をしてる人やキリスト者としての義務(律法遵守、聖書研究、聖書福音伝道(パウロの偽福音ではない)やその他慈愛あるええ行い)を果たさへん人らは皆、嘘つきであり、地獄の子や。キリスト者と名乗りながらもキリスト者らしい行いをせず、むしろ不品行や罪を犯し続けてる世の諸教会や諸教派に属する自称聖職者(ローマ教皇、枢機卿、司教、司祭、神父、牧師等)らは、全員あかん。彼らはパウロ教徒、パウロ教信者でしかなく、主イエスの教えに逆らう反キリストやからや。律法を廃止されたと言うたり、たとえ律法を擁護することを言いながらも律法を実際に守ってへんのなら有言不実行の嘘つきであり、悪魔の子と言える。口ではなんぼでも言えるっていうのがあるさかい、言葉だけやのうて、行いも吟味せないかん。繰り返し言うが、人を判断する際は、言葉と行いで見極めなはれ。
八、神の民は天の父なる神の御意志を行う者のみ
上記聖句のとおり、「ある人がイエスに、「見よ、あんたの母とあんたの兄弟たちが、話すためにあんたを求めて外に立った」と言う」た際、主イエスは「我が母は誰か。我が兄弟は誰か。」そして、彼の弟子たちの方に手を伸ばして言わはった。「見よ、我が母、我が兄弟たちや。天の我が父の御意志を行う者は誰でも、我が兄弟、姉妹、母であるからや。」と答えはった。主イエスに話し掛けた人は、マリアと主イエスの肉の兄弟たちのことを指して外で待ってると指摘したが、主イエスは彼らを神の民とは認めへんかのような態度と発言をしはったことが地味に注目に値する。この事実だけでも、カトリックのマリア崇拝は頭がおかしい者がする事であり、忌まわしい偶像崇拝者、姦通者である事の証明と言える。主イエスはその人がマリアやマリアが産んだ肉の兄弟とされる人たちを見ても、彼らを御自分の母や兄弟とは認めへんかった。主の弟や妹は複数人居り、あの場でどの弟や妹が居たかは不明や。主の弟ヤコブは他の記事でも書いたとおり、彼だけは違ったかもしれへんけど、その他は救われたか怪しいです。主イエスは、明確に十二使徒の方を指して「見よ、我が母、我が兄弟たちや。」と答えはったことから、神が選びはった者だけが神の民であるとの宣言である。血の繋がりや親族等であるかという点で優遇されるような事は一切無いってことです。多くの人間が、自分の家族や親族等を大事にするやろけど、そないな事だけをしててええ人気取りしてるようでは論外であるし、何より不信仰であるだけでも論外です。そないな人同士が団結しようとも神の御前で義と認められることはないからや。主イエスに家族と認められる、即ち、神の民として認められるには、十二使徒のような真のキリスト者になる以外に道は無く、パウロ教信者でもあかんのや。ええ加減その事に気付き、悔い改めましょう。世俗社会では情勢はどんどん悪くなる一方であり、好転は見込めず、いずれ滅びるこの世にすがった生き方はみっともないし、そろそろ態度を決めかねてた人も本気で行動せな、間に合わへんと思われます。
日本では、最近こちら(HUFFPOST)のとおり、同性の結婚を認めへんのは違憲だと東京高裁が判断を出しました。言うておくが、同性婚なんか認めへんことは合憲です。自然な方法での繁殖行為、生物として人間の在り方から見ても男と女という異性が性的結合をするのが最も自然であり合理的やからや。植物でも動物でも雄と雌の結合、即ち、異性との結合によってでしか繁殖は出来ず、同性なんかくっついても子孫は無いし、未来が無いのは自明やろ。同性同士では繁殖でけへんし、他の人間の力を借りないと子を持つことはでけへんし、父と母という家庭を築く事は不可能やからや。同性なら、父が二人、母が二人という意味不明な状態になるし、こんな事態をおかしいと思わへん人が狂ってる。聖書にも神は男と女に造りはったという創世記にあるとおりで、異性の結合を結婚と定義してる。
せやから、同性同士が結び付くことは神に逆らう悪しき行いであり、律法違犯の罪や(レビ記十八章二十二節)。主イエスの御言葉(マタイ五章十七節)から律法は今も廃止されてへんことから、許容される筈がないのは明らかで、そないな行為をしてる者たちは即刻悔い改める必要がある。性的倒錯をしたりと性に放縦であったソドムに対して火と硫黄を降り注いだ神の怒りからも学ぶべきであり、日本で同性婚が合法なんかになれば、神の怒りは益々大きくなり、大災害が日本に下されてもおかしくはない。ほんまに愚かな行為であると恥じ入るべきなのに、強気に自分たちの不自然な性的嗜好を合法化させようと活動するのは神の目に正しくない。こないな案件を受任した弁護士も、違憲判決を出す日本の裁判官も狂ってるし、欧米の支配層の傀儡である行政権(内閣)が人事権を握ってる裁判所に正義は無い。裁判官らも本心ではおかしいと分かってるだろうが、保身のために逆らえず、狂った判決を出したのだろうと拙者は推察する。過去記事「日本人の問題点 四」で拙者が竹中省吾判事の不審死を紹介したとおり、支配層や行政に不都合で、至極真っ当な判決を出す裁判官は消されるからや。保身のために取り返しのつかへん恥ずべき判決を書いて黒歴史を刻んだ裁判官なんて人として失格であり、彼らはこの世の名誉や地位を保持することを選び、後の世の地獄行きを選んだと思われる。実に愚かな決断や。当ブログ読者は彼らのような行為をしてはならないと知ってるやろから、絶対に彼らに倣うことはせんといてください。同性愛や同性婚の擁護は、天の父なる神の御意志では断じてないさかい、同調してはならない。過去記事「同性愛、同性婚と獣の刻印」でも書いたとおり、この性的倒錯を容認する動きは西洋諸国から二十一世紀以後に急速に推進されてきたことで、これは世の権威や性的倒錯者が多い支配層の悪き企み(人々に律法違犯の罪を容認させ、正しい秩序や倫理観を破壊すると同時に、異性婚を減らして子供を持たせぬようにして人口削減にもなってるという悪魔の策略)であり、庶民に多様性を尊重しろだのと耳触りのええ建前で惑わして罪である性的倒錯を容認及び普及させ、神の怒りを買わせて喜んでることに気付き、この忌まわしい裁判所の判断や世の動向に反対する必要がある。悪魔と悪魔崇拝者である支配層はこの世の存続期間があまり残されてへん事を知っており、それは拙者が過去に述べた事とも一致しており、彼らは不法行為をやりたい放題し、暴虐も躊躇無く行い、これから益々悪化するであろう。賢明な真のキリスト者は、拙者の言う事が正しいのが分かりますよね。これに異議を唱える者や世の権威を恐れて臆病で何も言わへん者はあかん。
この世がおかしい、悪人や悪い出来事が多過ぎるって、拙者のブログや動画を見れば嫌という程、分かるやろ。この世に期待するんはやめましょう。手遅れになる前に聖書を読んでこれまでの言動と心の中をも改めて、万物の創造主であり、唯一の救い主(メシア)であられる主イエス・キリストに立ち返りなはれ。主イエスへの信仰と、キリストの再臨という希望と、愛を持って完全な者となれるように日々大切に生きましょう。一人でも多くの人が救われることを願っています。
以上