こんにちは。
今回は、水上を歩くことについて述べます。
新約聖書 マタイによる福音書 十四章二十二節〜三十三節(拙訳)
それからすぐ、イエスは、群衆を追い払うまで、彼の弟子たちを舟に乗って、向こう岸に彼の前に行くように強いた。そして、群衆を追い払って、祈るために一人で山に登りはった。晩になったが、一人でそこに居てはった。
ところで、舟は既に湖の只中に居って、逆風のために波に悩まされていた。
しかし、夜の第四の見張り時に、イエスは湖の上を歩いて、彼ら(弟子たち)のところに行きはった。
そして、弟子たちは、湖上を歩いてはる彼(イエス)を見て、動揺させられて「幽霊や」と言うて、恐怖の故に大声で叫んだ。
しかし、イエスはすぐ彼らに話し掛け、言わはる。「元気を出しなはれ。我や。恐れるな。」
だが、ペトロは答えて言うた。「主よ、もしあんたやったら、水上であんたのところに来るように我に命令してください。」
すると、(イエスは)「来なはれ」と言わはり、ペトロは舟から降りて、イエスの方に行くために水上を歩いた。
しかし、猛烈な風に気付いて恐れ、沈められ出したため、「主よ、助けてください」と叫んで言うた。
すると、イエスはすぐに手を伸ばして彼(ペトロ)を捕まえ、彼に言わはる。「信仰の薄い者よ、何故疑ったか。」
そして、彼らの舟への乗り込み後、風は止んだ。
それから、舟の中に居った人たちは、やって来て彼を拝して言う、「ほんまに、あんたは神の子です。」
一、群衆は蚊帳の外
過去記事「種を蒔く人の例え」等でも主イエスは群衆を追い払ったと聖書にあり、ここでも主イエスは群衆を邪魔者として追い払いはった。この聖句の前は、女と子供を除き、五千人の男が五つのパンと二匹の魚を食べて満たされ、パンの欠片を集めると十二の籠が一杯になったという出来事の直後や。時間的に空くことなく、「それからすぐ、イエスは、群衆を追い払うまで、彼の弟子たちを舟に乗って、向こう岸に彼の前に行くように強いた。」とあり、主イエスは、群衆が自分たちに付いてけえへんように追い払うことをしつつ、弟子たちに舟に乗って、向こう岸に先に行くように強いたという事実が書かれてる。単に「先に行け」と言うたんやのうて、「強いた」ことから、かなり強めに御命令しはったということが分かる。ここでも、主イエスが、弟子たちと群衆とをはっきり区別しはったことが分かる。もし区別が無かったとしたら、群衆も同行を許しはったやろが、そうではなく、群衆を拒絶して追い払った一方で、弟子たちには群衆と共に居らせる事も無く舟に乗って向こう岸に行くように強いて群衆から離れさせはった。そして、弟子たちをそうやって突き放すのでもなく、主イエスよりも時間的に前に行くとのことで、後から主イエスが来はるということで、弟子たちが見放されてる訳でもない。なお、マタイ十四章では行き先が明言されておらず、マルコ六章四十五節では行き先がベトサイダとなってるが、これは当該筆記者の勘違いと思われる。ヨハネ六章十七節ではカファルナウムが行き先になっており、また、ヨハネ六章二十四節で群衆が後を追いかけてカファルナウムに来たとあることから、カファルナウムで正しいと思われる。
なお、市販聖書の翻訳は、「群衆を解散」と訳してるが、実際は追い払うという意味や。追い払うのは、その人たちを邪魔と考え、排除するという意図に基づく行動や。せやから、主イエスは多数派であって不信仰の群衆なんか邪魔でしかないとお考えであったことが分かる。もし群衆が仲間やと主イエスが思し召しなら、追い払うという行動は決してしはらへんかった筈やからや。せやから、神から拒絶されて追い払われるような対応を受けることになる多数派に馴染んでて安心してる場合やないで(神に選ばれぬ人間は、絶対に理解でけへんやろし、生き方や生活様式を神の律法に則るように変えようとせえへんやろが…)。この過去最悪の現代社会に疑問を持たず、疑問を持ったとしても結局行いや生き方も変えず、世の権威に盲従して毎日洋服を着て、化粧や耳飾りや毛染め等と身を飾る要らん事をしたり、太陽暦(グレゴリオ暦)に従って生活し、その他異教由来の習慣(復活祭、クリスマス、仏教式の葬式や法事、墓参りして供物を渡して祈るといった死者崇拝等)をやめず、神の律法に従わずに罪を犯し続けてる不信仰者で在り続けるようでは、神に敵対する多数派であり、地獄行きになって永遠の破滅という刑罰を受けますよ。何遍も言うてるとおり、救われるのは狭い門であり、狭苦しい道であるキリスト道や。群衆の一部となって似た者が多くて多数派に属して安心するような気質の者は不信仰で、臆病で、悪人であることを自覚し、手遅れになる前に悔い改めることを勧める。
二、孤独を厭うべきではない
上記聖句のとおり、主イエスは「群衆を追い払って、祈るために一人で山に登りはった。晩になったが、一人でそこに居てはった。」ということや。この場面のみならず、主イエスは、敢えて一人にならはる時が幾度かあった。それは好き勝手な事をするためやのうて、肉の欲を満たすといった悪しき目的でもなく、天に御座す父なる神に祈るためにです。これは、前の文脈で群衆を追い払った時は既に日が傾いていたさかい、晩になって以降のことや。主イエスは、暗い中を山に一人で登り、祈りはった。あんた方も真似するようにと言うつもりはないが、一人になるという点については厭うべきではないと言うておく。過去記事「聖書の終末預言 一」をはじめ、散々言うてきたとおり、主イエスに従順な真のキリスト者はあらゆる人から嫌われるんや。そういうこともあり、真のキリスト者が孤独になることは非常に高確率で起こることであり、一人になりたくない、孤立したくない等と思てる人は向いてへんし、不適格であると言えよう。自分以外の人々がすべて敵になったとしても、折れずに居られるかです。孤独に耐えられへんような人は、キリスト者は務まらへん故、無理でしょう。特に、現代日本人は群れるのが好きな人が多く、誰かと一緒でなきゃ何もでけへん、何処も行かへんという人が多いやろ。そないな気質ではあかんよ。「他人は他人、自分は自分」と割り切って周囲を気にしないという確固たる芯を持ってなあかん。孤立したり、人と違う事をして目立つのを恐れ、周囲を見て妥協し、周囲に合わせる等というような日和見主義者及び臆病者は、神から嫌われる。但し、性格や言動等に著しい問題があって、その事実を認めようとせず、何かしらの自らの落ち度により孤立してるのに、「自分は孤独だから救われるべき人間だ」と勘違いしてもろても困る。かような人間は、この世でも、後の世でもあかん。
ここで、主イエスが日が暮れる頃に、弟子たちに自分たちだけで行くようにと強いて、主イエスが弟子たちと離れた意義を考えてもらいたい。何故、主イエスはすぐに弟子たちに追いつこうとせず、お一人で山に登りはり、しばらくそこに滞在しはったのか。この行動には意味があった。主イエスは、「我は、我を遣わしはった方の業を日中である内に行わないかん。夜が来ると、誰も働くことがでけへん。 」(ヨハネ九章四節拙訳)と言わはった。つまり、日中は神が与えた恩恵期間を暗示し、暗い夜は悪の支配が極まって誰も神の業を行う事がでけへん期間を暗示し、伝道活動もそれに含まれる。それらの活動が誰もでけへんようになる夜は、大艱難期を指すであろう。
主イエスは、晩になるのと同時に、弟子たちと別れた。つまり、日のあるうちしか主イエスに頼ることが出来ず、大艱難期になったら、原則、主イエスは何もしはらず、頼ることがでけへんということや。つまり、恩恵期間終了後、原則、キリスト者は自分たちでどうにかするしかないということを暗示してる。また、主イエスは「未だ少しの間、光はあんた方と共にある。暗闇があんた方を捕らえへんように、光を持ってる内に歩きなはれ。実際、暗闇の中を歩く者は、何処へ行くのか分からへん。光を持ってる内に、光の子となるために、光を信じなはれ。」(ヨハネ十二章三十五節〜三十六節拙訳)とも言わはり、恩恵期間内にほんまもんの光である主イエスに立ち返り、信じて生きなければ、光の子、即ち、神の民にはなられへんのであり、暗闇(悪魔や悪魔崇拝者の勢力)に取り込まれ、獣の刻印を受けて滅びる人間になってしまうということや。未だこの世で光があるうち、未だ真のキリスト者による伝道を見聞き出来るうちに主イエスという光を信じなはれ。後回しにしたり、軽んじたりしてると、マタイ二十五章の愚かなおとめの例え話のとおり、締め切られて、時機に遅れると、もはやどうにもならへんよ。いつまでも時間があると思うな。
堕天使である悪魔ルシフェルは、「光を掲げる者」という意味を持つ名であるが、これは主イエスという神の光に憧れて偽装する者であり、この偽物に騙されてはならん。この世の悪魔崇拝者の支配層も光、善なる人間を偽装するが、その実は悪や。世の権威(国際機関、国家元首、政治家、官僚、芸能人、学校教育、報道機関等)は偽り者やさかい、彼らを信じるな。世の権威への服従を説いた偽使徒パウロも同じくキリスト者を偽装する者であり、実際はファリサイ派の反キリストや。聖書を読み込み、パウロ書簡の偽福音や偽教義に惑わされず、主イエスの教えを当ブログや動画と共に学んで、実践していただければ幸甚です。
三、舟旅は人生そのもの
上記聖句のとおり、主イエスから舟に乗って先に行くようにと強いられた弟子たちは、彼らだけで舟に乗って出発した。しかし、主イエスが山にてお一人で居てはった間、弟子たちの「舟は既に湖の只中に居って、逆風のために波に悩まされていた。」ということや。まさに、この情景は、我々が置かれてる状況にも合致すると考える。主イエスが側に居らず、キリスト者が人生の海原に漕ぎ出して行く状況や。真のキリスト者は、この世では超少数派であり、多数派の不信仰者や異教徒(パウロ教信者を含む)から嫌われ、疎んじられ、かような逆風に悩まされてる事を意味する。また、偽キリスト者(パウロ教信者等)やのうて、真のキリスト者を目指し始めると、人生は順風満帆とは程遠くなり、多くの困難や苦難という逆風と波が来て、難儀する。もし我々が主イエスと共に居って、主イエスが常に横に居ったとしたら、すぐに「主よ、助けてください」と言うて助けを求めて、自力で頑張ろうと努力もせず、甘えて怠けるのではないか。その事も主イエスは理解してはる故、敢えて一緒には居らず、弟子たち(キリスト者たち)が自分たちで人生の海原に漕ぎ出して行くと、何処に向かえばええのか、どう漕げば目的地に行けるのか、逆風が来た時どうするのか等と、なるべく自分たちで問題に対処させ、考えさせ、工夫させ、乗り越えさせ、成長を促してるんやと拙者は考える。何もかも主イエスが手伝ってたら、主イエスのみが行動してることになり、人間自身は何もせず、もはやその人の存在意義が無くなる。せやから、苦労することがあったとしても、それは成長のために神が与えはる必要な試練や教育なんやと思い、逃げずに立ち向かうべきや。これは、親が子にする教育に似てる。神は、御自分が選びはった人間に神の民として相応しい品性を持たせるべく、後の世に行く前にこの世で鍛えはるんや。
しかし、神の教育とは反対に、この世の人間の親は、親として不適格な者が多い。必要以上に世話したり干渉したりするという過保護になったり、必要な世話や教育等も行わへん育児放棄をしたり、それら両極端にはならずとも何かが欠けた点が多い人間が親になり、そのせいで子供もおかしな人間になり、そないな人らが大人になって子供を持ち、また同じ事を繰り返すという悪循環が現代に蔓延し、おかしな人間が多くて辟易してる。更に、多くの人間が聖書を読まず、学ばず、神の律法を守らず、自分らの思うがまま放縦に生きてるから、神の目に適わず、滅びるんや。ええ加減に、この悪い世に合わせる生き方をやめ、聖書と主イエス・キリストを無視するという現実逃避するのをやめ、当ブログと動画から真剣に学び、実際に救いに向けて歩を進める事を勧める。拙者の言う事に傲慢にも逆らってても、何もええ事無いで。
四、主イエスのお出ましの時期
上記聖句では、「夜の第四の見張り時に、イエスは湖の上を歩いて、彼ら(弟子たち)のところに行きはった。」とある。これも市販聖書と異なる訳であると気付くであろうが、拙者の訳こそが原文に忠実や。まず、夜の第四の見張り時とはいつやねんという疑問があるやろから、これについて説明しよう。当時ローマ帝国の属州になっていたユダヤでは、ローマ式に倣い、夜間に四交代制の見張りがあった。第四の見張り時は、今の時間で言うと、午前三時から日の出時間までを指す。天文的な夜の暗さは、太陽が最も遠ざかってる真夜中頃が最も暗いが、ここでは暗さの度合いを問題にしてるのではない。聖書では、夜というのは闇(悪)が支配する時という意味を持ち、夜全体が悪の支配が強まることを意味する。派生してその夜が明けるのは、悪人による圧政の終わりを意味し、明るい希望の象徴や。黙示録二十二章十六節で、主イエスが、御自分で御自身のことを「明けの明星(bright morning star)」と言わはったとおりや。キリストの再臨は、まさしくこの世で悪魔崇拝者の支配層とその傀儡の政府どもが悪政をして大衆もそれに抗わず、改善の見込みも無いという酷い状態である夜の時、かような暗黒社会を主イエスが再臨しはってこの世を滅ぼし、悪いこの世を終わらせて、新しい天と新しい地の世界になって明るくなることを意味する。せやから、闇が支配する暗黒の世を終わらせて滅ぼす時に主イエスはお出ましになり、時期的には、夜中から夜明けに掛けての間という比喩と考えられる。少なくとも午前三時以降なんやから、日没して夜になってからだいぶ時間が経つことから大艱難になってすぐにキリストの再臨があるということはないだろう。この事実も軽く読み飛ばしてる聖書読者が多いであろうが、それではあかんで。そないな人は軽率であり、大事な事を見落とし、聖書の真理も理解せえへんのや。わざわざ時間帯の言及があることに注目せないかん。また、市販の聖書だけ読んでては「夜明け頃」等と誤魔化されてることが多い故、この事実に気付かず、原文を確認することの重要性や原文から訳してる拙者の翻訳の重要性も分かるだろう。第四とあることから、数字だけ合わせて午前四時としてる訳も安易であり、現代の時計の時刻を正確に断定するだけの材料は無い故、誤訳と言える。
そして、主イエスは湖(原語では海やが、この場所がガリラヤ湖と想定されるため意訳)の上を歩いて弟子たちのところに向かいはった。この水の上を歩くという行為は、聖書を通読した者ならば見覚えがあるやろ。創世記一章二節にある「神の霊が水面を動いてた」という聖句が想起される。まさしく、主イエスという神が水上を歩いてたのと一致する。かように、些細な点かもしれへんが、聖書には主イエスが神であるということを認識させるような行動が様々見受けられ、軽く読み飛ばして何とも思わへんようでは聖書の理解が浅いと言わざるを得ない。
五、水上を歩く奇跡
上記聖句に「弟子たちは、湖上を歩いてはる彼(イエス)を見て、動揺させられて「幽霊や」と言うて、恐怖の故に大声で叫んだ。」とあるとおり、通常、人が水上を歩くことはでけへんさかい、湖の上を歩く人が見えれば、特に夜間にかような情景を見れば余計に怖くなって思わず「幽霊や」と叫んだ弟子たちのような反応をするのはごく自然であろう。「しかし、イエスはすぐ彼らに話し掛け、言わはる。「元気を出しなはれ。我や。恐れるな。」」と、主イエスは弟子たちを安心させるべく声を掛けはった。状況的に、午前三時を回った時間帯の夜であり、主イエスは弟子たちのところへ向けて湖上を歩いて来はった。しかし、夜で暗い故によう見えへんかったのであろう。それ故、ペトロは、ほんまに主イエスなのか確かめるべく、「主よ、もしあんたやったら、水上であんたのところに来るように我に命令してください。」と返答した。当該発言で「もし」と仮定してることからも確信してへんことが分かる。そして、素性の不明な幽霊やのうて、主イエスならば、自分も水上を歩かせることも出来はるやろと思て、かように言うた。そして、ここで注目すべき点は、「命令してください」と、ペトロが主イエスに要求したことや。これは、ペトロが被造物である人間であり、命令を受ける側の格下で、主イエスに創造主たる神の権威を認めてる事を意味する。また、ヨブ記等を読んで分かるとおり、サタンは神にあれこれとする前に許可を求めてる。悪魔や人間が、神の許可を得ずして何でも好き勝手にする事を許可されてる訳ではないんや。不許可の事柄は、実際には行われへんという事を意味する。神の御命令とあらば、それは非日常的な事柄であろうが、超常現象であろうが何でも可能になる。
そして、ペトロの要求に主イエスは応えはり、「「来なはれ」と言わはり、ペトロは舟から降りて、イエスの方に行くために水上を歩いた。」と、ペトロは主イエスの御言葉を受けてから水上を歩けるようになった。あめんぼとは違い、人間が水上を歩くのは通常は物理的に有り得へんが、上記聖句のとおり、奇跡として実際に起こった。主イエスのみならず、ペトロも水上を歩いた。しかし、いつでも出来る訳ではないし、ペトロに水上を歩く特殊な能力があった訳でもない。聖句を読んで分かるとおり、ペトロは舟を降りる前に、主イエスに対して命令して水上を歩けるように便宜を図るように依頼した点を見落としたらあかん。主イエスが神であるからこそ、この奇跡は可能になったのであり、人間の力だけでは水上を歩くことは不可能やからや。それをペトロは知ってたからこそ、主イエスに頼み、その了承を得た上で、水上に歩を進めた。せやから、神の御意志でなければ、また、神の御言葉無くして、この奇跡は起こり得なかったということや。「神と一緒ならあらゆる事が可能やからや」(マルコ十章二十七節参照)という事実があるんやから、神の助力があれば何でも可能であり、水上を歩くという奇跡も可能になるんや。
それなのに、この事情を知らず、無知で愚かな不信仰者は神とキリスト者を試すべく、「キリスト者なら聖書にあるとおり水上を歩いてみろよ」とか「それが出来たら、信じてやる」等と思ってそうやし、実際に言う人が居そうですね。まさに、かような人間は、「他人を救っても、自分自身を救うことが出来ない。もしイスラエルの王なら、今、十字架から降りて来い。そうすれば、我々は信じよう」(マタイ二十七章四十二節参照)と言うた、当時のファリサイ派、祭司長、律法学者、通行人、十字架刑になった強盗たち等と同じであり、不信仰で、身の程知らずの高慢な者であり、やけに挑戦的な態度と言葉を放つ。ほんまに、自分自身を弁えへん人間というのは、本人たちは気付いてへんのやろけど、傍から見るとほんまに酷いで。そないな下劣な品性の人間やから、神に敵対する悪魔の子で、救われず、地獄行きになるんや。
何故、ペトロは舟から出て水上の主イエスの許に行こうと思ったのか。他の弟子たちと同じように、おとなしく舟に居て、主イエスが来るのを待っていてもよさそうなものでした。しかし、ペトロは自分から舟から出て水上を歩いて主イエスの方に行こうとした。ペトロは十二使徒の中でも筆頭であり、その自負からも彼は他の人たちと同じ事をしてる場合ではなく、自分が率先して他の模範となる行動をすべきと思ったのでしょうね。主イエスもその豪気を買い、ペトロに水上を歩くことを許可しはった。この舞台はガリラヤ湖であると想定されるが、原語としては、上述したとおり海であり、海とは聖書では多くの人々を象徴するものや。ペトロは、いつまでも他の兄弟と一緒に居るのではなく、一人でも行動出来るようになりたいという気持ちがあったんでしょう。それは神と信仰の兄弟たちと決別する意味やのうて、夜という闇が支配する時に自分一人になったとしてもキリスト者として適切に行動出来るという事を意味する。これは、現代を生きる我等も無関係やないし、いずれこないな事は必要になります。上述したように、いつまでも他人と群れて安心してる場合ではないと言うたとおりで、一人でも立派にキリスト者として行動出来るようにならないかん。勿論、非常事態ではない限りキリスト者は集う必要があるが、兄弟の集い(教会)という舟の中に居れば安心してても、いざ一人になったら、心細くて何もでけへん、何をしてええか分からずぼさーっとしてるようでは困る。それでは赤子同然やからや。自分の頭でしっかり考えて、世の情勢がもっと悪化して集まれへんようになったとき、一人になったらどうするか、ということも見据えておかねばならん。一人になった途端に何もしなくなるとか、それまでの歩みを止めたり、不信仰者や異教徒だらけの世俗社会に馴染んで道を逸れて脱落するとか、そうなるようではその程度だったということになる。ペトロは、まさに夜という艱難時に舟から出て、一人で多くの人々が居る世間で揉まれながら、神である主イエスを目指して行こうとしたんや。キリスト者なら、かような態度を見習うべきや。それをこの文章から読み取れなあかん。
六、疑いは御法度
主イエスやペトロが水上を歩いたとか、当該事象の外形だけを見て感心してるだけでは、まったく的外れや。奇跡を見聞きして単に「すごい」と思て終わりでは話にならん。そこが最重要な点ではないし、文章化して、聖書読者に教訓を与えるために起こされた奇跡であると思わなあかん。そして、その後にもより注意を向けないかん。上記聖句のとおり、ペトロが主イエスに命令するように要求し、その後でペトロは水上を歩き始めたが、「しかし、猛烈な風に気付いて恐れ、沈められ出したため、「主よ、助けてください」と叫んで言うた。」とある。ペトロは風に気付いて怖くなったとある。この風は、黙示録七章一節でも書かれてる風と同じ単語が使用されてる。ペトロは、この風に気付き、恐れ、沈められ出したとある。市販聖書では「沈み始めた」とあって能動態としてるが、原文では受動態である故、誤訳と言える。風とは、詩編百四編四節より神の使い、創世記一章二節からも神の霊の意味もあり、イザヤ書四十章七節より「主の風(霊)が吹いた」ということからも分かるでしょう。ペトロは、その猛烈な風に対して恐れを抱き、その風に沈められかけ、主イエスに助けを求めて叫んだんや。その後、「すると、イエスはすぐに手を伸ばして彼(ペトロ)を捕まえ、彼に言わはる。「信仰の薄い者よ、何故疑ったか。」」とあり、主イエスはペトロを捕まえて、信仰が薄い、何故疑ったかと、たしなめはった。せやから、ペトロは彼自身が意図して沈んだんやのうて、外部の風の力によって沈められ出したということや。ここから分かるのは、ペトロが水上を歩く途上で、猛烈な風に気付いて、恐れ、それ故に沈められ出したんやから、もしペトロが猛烈な風も恐れず、主イエスを心から信じていれば、沈められることはなかったであろうということや。要するに、神がペトロを試しはったんや。主イエスは、ペトロが恐れた理由に信仰が薄いことと、その根本が疑いにあると言わはった。よって、信仰において、疑う事が非常に悪いと分かるだろう。多くの人々が思てるであろう、「世には悪が多いから、神なんて居ないのではないか」、「神が存在するかどうか、よく分からない。目に見えないし、確かめられないから不明。」等と心無い言葉を平気で言う人間が多い。こないな人は何も理解してへんさかい、かような間抜けな事を厚顔無恥で言えるんや。何も分かってへんのです。基本的に、霊は目に見えへんし、人間の肉眼なんて何でも見ることがでけへんのも科学的にも知られてるのに、なんで目に見えへんというしょうもない理由で神の存在を否定するのか。もうこの時点で非論理的で、主観的で、愚かなんですよね。顕微鏡でなければ見えへん微生物等が存在してるのに肉眼では見えへんし、光も可視光と限られた範囲しか人間の目では見えへんとおり、人間の目なんか全能ではないんやから、「目に見えないのは存在しない」と安易に片付ける人は愚かや。せやから、かような事を言わぬように、思わぬようにしなはれ。
そして、「疑うな」と言うと、「カルトだ」等とこれまた莫迦げた野次が飛んできそうやさかい、予め言うとく。確かに、カルト宗教の手口で、かような物言いがあろう。何故なら、信者を繋ぎ止めておくためにも信者に考えさせず、疑問を抱かせず、盲目にしておく必要があるからや。しかし、拙者は盲目的に信じ込むようにと言うてるんやないで。せやから、カルト等と中傷される筋合いは一切無い。拙者は過去記事でも書いたとおり、聖書を複数回通読するように述べてるし、こちらの集まりに来る前にそれを済ませることを義務付けてもいる。即ち、聖書に詳しくなるようにと勧めてるんや。もし盲目にさせるのが目的なら、他人が聖書に詳しくなって、拙者が反聖書的なことを言うたり、行動をすれば、それを咎められるようになるんやから、聖書を読むようにと他人に推奨せえへんであろう。中世時代の欧州のカトリック教会こそがまさにカルトの典型例であり(カトリックは中世のみならず今もその性質は大差無く、そこに居るようでは救いは無い)、カトリック教会にだけ救い有りとし、聖書の普及を許さず、翻訳すら禁じ、違反した者を逮捕して処刑してた歴史がある。かように、聖書という神の御言葉や世の真理を広く知られることを恐れ、聖書を人々に広く読ませず、カトリック教会に信者に来させて司祭や司教やローマ教皇等の言う事をだけに聞き従わせ、支配したんや。しかし、拙者は自分の言う事を疑うな、すべて従え等と言うたことも強要したことも無く、拙者はいつも聖書の御言葉を引用しながら聖書の真理に基づいた発言しかしてへん。何遍も言うたとおり、もし拙者の主張のうち、聖書に反したものがあれば、聖書の御言葉(パウロ書簡を除く)を証拠として論証しに来るように言うてるが、今まで誰からも反聖書的であると論理的に反証されたことは無い。そう出来る根拠も理由も無いからや。しかし、世間は反キリストだらけであり、反聖書的な言動をする人間が多い故、拙者から弾劾される。それは、拙者は自分が正しいと言うてるんやのうて、ただ聖書の真理や主なる神が正しいと主張しており、それに反する事や人が誤ってる、偽りであると弾劾してるんや。
また、疑うなと言うのは、主イエスを疑うなということや。聖書を隅々まで読んでもらえれば分かるだろう。聖書の通読もしたことがない者が、当ブログに物を言うたり、反対するのは説得力が無い故、かような者の戯言は受け付けまへん。疑うという行為は、悪に対して警戒するのは当たり前で、必要で、良い行いであるが、善に対しては悪い行いや。疑うのは、否定的な考えであり、信用していないことに起因するからや。つまり、神を疑うのは、神を信用してへんことを意味し、即ち、不信仰に他ならなへん。聖書に明記されてるとおり、主なる神は、人間が不信仰であることを罪としており、神の掟に反することも罪としてる。創世記冒頭にもあるとおり、アダムとエバが神の言いつけに逆らい、蛇である悪魔が言うた嘘に聞き従った結果、死がもたらされた。神は、予め必ず死ぬと戒めておいたにも拘らず、それを信じず、人間自身の考えや悪魔の意見の方が正しいと思い込み、神の言いつけを疑い、従わず、その結果、死んだ。この歴史的事実からも、神に従うのは当然であり、滅びずに永遠に生きたいのなら、それは必須と言える。神に疑いを持つことが不信仰の始まりでもあり、不信仰の証拠となり、最後には滅びる。故に、神は疑うことや不信仰を嫌いはる。主イエスは、ペトロの心にわずかでも疑いがあった事を指摘しはり、疑わぬようにたしなめはった。疑いは、信仰を揺るがし、身の破滅を招くからや。
また、拙者の聖書を基にした伝道を疑う者も多数居るが、上述したように、正当な根拠も無いのに疑って聞き従わぬのなら、永遠の破滅の刑罰を受けても文句は言えへんで。
七、風を支配する神
上記説明より、主なる神は、風を起こされる御方であることが分かったやろ。上記聖句の「そして、彼らの舟への乗り込み後、風は止んだ。それから、舟の中に居った人たちは、やって来て彼を拝して言う、「ほんまに、あんたは神の子です。」」より、主イエスが舟に乗り込みはったら、風が止んだことから神がその試練を終えたという事を意味し、主イエスが風を支配してる事も意味する。過去記事でも紹介したとおり、ヘブライ十二章五〜六節、申命記八章五節、箴言三章十一節〜十二節に、神は愛する者(神の民)を懲らしめ、鍛え、鞭打ちはるという内容が聖書に書かれとる。神の民は、神から甘やかされたりはせえへんのや。せやから、キリスト者が苦難に直面するのは当たり前であり、逆に何の苦労も経験してへん人は神の民ではないという事が分かる。この世は試用期間と拙者が前から例えて宣べ伝えたとおり、神から神の民としてほんまに適格なのかどうか試されるんや。それをきちんとやり遂げてこそ、永遠の命に相応しい存在として神から認められるようになるだろう。反対に、この世で神の目に適う行いをしてへん人間は、地獄行きになるだろう。律法違犯をしてても何とも思わず、主イエスが禁じはった異邦人の道に行くという西洋かぶれやその他外国かぶれの格好や生き方をしてるようでは救われるのは厳しいのは当たり前ではないか。せやのに、これに反発して、行いや生き方を変える事を頑なに拒む人間が非常に多い。これは、この世の多数派が救われへん事を意味するのも当たり前ではないか。
主イエスの終末預言のとおり、終末時代はノアの時代のようなんやから、ノアの頃を思い出すがよい。過去記事「聖書の終末預言 三」で述べたとおり、ヤシャルの書に言及があるとおり、ノアは長期間伝道をして大衆に悔い改めを説いていたが、大衆はノアの悔い改めの呼び掛けに耳を貸さず、各自が放縦に生きて神に従わずに悔い改めを拒んだ。大雨が降ってきて、洪水の危機が目前になってから慌てて、ノアが造った箱舟に入れてくれと押しかけても拒絶されたように。現代も形を変えただけで、まったく同じ状況や。拙者の呼び掛けに応答する人間は非常に少なく、たとえ目にしたとしても莫迦にし、カルトだのと根拠も無い誹謗中傷をされてる。世の多くの人間が地獄に行って想像を絶する苦しみを永遠に受ける羽目になっても拙者には関係無いさかい、別に構へんのやが、出来ればそうなって欲しくないさかい、呼び掛けてるんや。神に奉仕するためと隣人愛から当ブログを二千十七年からずっと続けており、動画やキリスト道のサイトも作成し、何も対価を受け取らず、すべて無償で提供してきた。それでも多くの人々は無視したり、軽んじたり、反発して汚い野次を飛ばしたり、陰口を叩いたり、誹謗中傷したり等と散々な仕打ちを受けてる。神はあんた方のそれらの悪い行いをすべて記録しはっており、あんた方の罪は積もりに積もってる。膨れ上がって返済しきれへん程の巨額の借金のようで、それに見合った罰は如何程になろうか。そこまで考えてへんから、愚かな事をするんやろけど、愚かさの代償は高うつくで。
風のみならず、すべてを支配しはってる主なる神を敬い、畏れよ。主イエスに従うようにと拙者は言うてるんであり、拙者の下僕や弟子になれと言うてるんやない。ほんまにその浅はかな考えは勘違いでしかなく、即刻改め、二度とかような野次や中傷をするな。
この世がおかしい、悪人や悪い出来事が多過ぎるって、拙者のブログや動画を見れば嫌という程、分かるやろ。この世に期待するんはやめましょう。手遅れになる前に聖書を読んでこれまでの言動と心の中をも改めて、万物の創造主であり、唯一の救い主(メシア)であられる主イエス・キリストに立ち返りなはれ。主イエスへの信仰と、キリストの再臨という希望と、愛を持って完全な者となれるように日々大切に生きましょう。一人でも多くの人が救われることを願っています。
以上