『日本国紀』読書ノート(209) | こはにわ歴史堂のブログ

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209】マスメディアへの批判が一面的で当時の世界や日本の空気を反映していない。

 

「当時のマスメディアは露骨なまでにソ連や中華人民共和国を称賛し、ソ連や中国に『言論の自由がない』ことや、『人民の粛清がある』ことなどは一切報道されなかった。」(P457)

 

と説明されていますが、まず当時の目線、「時代の空気」をあまりふまえていない説明です。

ソ連や中華人民共和国は、社会主義の優位性は、プロパガンダのみならず、実際的に経済など順調に進んでいました。付け加えるならば、マスメディアが、国交がない国の様子などを正しく把握するのは現実的に難しい状況にありました。

実際,中国は毛沢東が露骨な社会主義政策に転換するまでは、順調な工業生産と農業生産を続けていました。

内戦後の中国は、共産党独裁ではなく、人民政治協商会議といういわば連立政権状態で、きわめて穏健な路線にありました。「言論の自由」も「人民の粛清」はまだ始まっていません。

ソ連も1950年代は体制転換の時期です。1953年の「スターリンの死」以降、大きく政策が転換されていきました。50年代後半のソ連は、フルシチョフの経済改革が進み、人工衛星の打ち上げ、大陸間弾道ミサイルの開発、などなど、資本主義諸国に対する「目に見える形」での優位性を示していました。

こういう世界史的な背景をみれば、「ソ連や中国への評価」はマスメディアのみならず、政治家も感じていて、とくに保守勢力は危機感を募らせていくことになります。

 

「現代では信じられないことだが、昭和三〇年代には、朝日新聞をはじめとする左翼系メディアは口を揃えて、北朝鮮を『地上の楽園』と褒めそやした。在日朝鮮人の多くがその記事を信じて帰国し、その結果、祖国で塗炭の苦しみを味わうことになる。(北朝鮮は貧しいだけでなく言論どころか個人の生活さえ厳しく抑圧する独裁国家で、帰国者は差別と弾圧に遭った)。」(P456P457)

 

と説明されていますが、誤りと誤解を含む説明です。

まず「地上の楽園」という呼称はマスメディアの言葉ではありません。北朝鮮及び「朝鮮総連」による自称です。新聞の記事を信じて在日朝鮮人たちが帰国したのでもありません。

「帰国事業」というのが展開され、主としてその事業のプロパガンダを信じて多くの人々が帰国を決心しました。

この帰国事業を推進したのは二つで、北朝鮮及び日本の赤十字と、「在日朝鮮人帰国協力会」です。前者は人道的帰国、後者はまさに政治的帰国を促すものでした。

当時の日本は、朝鮮戦争の特需に沸きましたが、一方で貧富の差も拡大し、そのうえ「なべ底不況」に陥りました。

また朝鮮戦争による荒廃と、政情不安定な韓国に対して、まさに針の穴のようなか細い窓口から伝わる「千里馬政策」などの社会主義政策の「成功」に期待する(中国の50年代前半の経済成長と重ねてしまった)在日朝鮮人も増えていきます。(1970年代までは北朝鮮のほうが農業・工業生産は上回っていました。)

日本共産党や日本社会党にすれば、「帰国事業」は、社会主義の優位性をアピールする機会であり、日本政府にとっては、生活保護費の削減や在日朝鮮人と左翼運動が連携する危険性を緩和するチャンスであったことから、言わば左右両派の「思惑」から在日朝鮮人帰国事業が促進されたのです。

よって「在日朝鮮人帰国協力会」は社会党議員・共産党議員はもちろん、鳩山一郎や小泉純也、などが呼びかけ人となり、超党派の議員によって構成されています。

そして1959年1月、岸信介内閣は帰国事業を認める方針を打ち出しています。

帰国事業によって結果的に塗炭の苦しみを味わう原因となったのは、マスメディアの報道よりも、左右両派から帰国事業が推進されたためです。

帰国した在日朝鮮人が「塗炭の苦しみ」を味わう原因は、岸内閣を含めた超党派議員による帰国事業推進によるところが大きかった、ということを忘れてはいけません。

 

「…メディアは北朝鮮を礼賛する一方、北と対峙する韓国のことは、独裁による恐怖政治が行なわれている悪魔のような国と報道した。」

「…岩波書店は『韓国からの通信』という、韓国の悪いところばかりを糾弾する本(一部に捏造もあった)を何年にもわたって出し続けベストセラーとなっていた。」

(P458)

 

と説明し、マスメディアや出版社を批判されているようです。

百田氏は、韓国の李承晩軍事政権を擁護されているわけではないと思うのですが、

「悪魔のような」という修飾はともかく、当時の韓国は、日本に対しては「李承晩ライン」を一方的に設定し、戒厳令を発して反対派を弾圧しました。その後、朝鮮戦争によって国土が荒廃し、その後も国内の野党を弾圧していた政権です。

情報がほとんど入らず、朝鮮総連のプロパガンダしか得られない北朝鮮と、情報が入りやすく、明らかな軍事独裁と荒廃の目立つ韓国では、当時は韓国に否定的な論調になるのは当然です。

(それに「韓国の悪いところばかりを糾弾する本」というのは、現在でも多数出版され、ベストセラーにもなっているものもあると思います。)

 

「冷戦時代」の社会の思想の潮流というのは、やはり政権与党と野党の対立、政権ノ右傾化に対する批判勢力の左傾化、という二項対立が起きやすいものです。

左派勢力の誇張された批判やプロパガンダがあれば、同じ質・量の右派勢力の誇張された反論やプロパガンダもありました。

左右どちらの主張も、極端な議論に陥ったときは「事実をもとにされてきたというにはほど遠く」「特定のイデオロギーでねじ曲げられてきた」(P458)という側面を持っていたといえます。

それでも、「55年体制」は左右の「二大政党制」とはとてもいえない、「2/3弱与党と1/3強与党体制」というもので、保守優勢が保たれ続けていました。

この政治状況は、(冷戦終結までは)国民は与党の経済政策・外交政策に一定の理解を示しながらも、軍国主義の復活や極端な右傾化を嫌っていた結果であった、とみるべきだと思います。