『日本国紀』読書ノート(195) | こはにわ歴史堂のブログ

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195】WGIPは「戦争についての罪悪感を日本人の心に植え付ける宣伝計画」ではない(その5)

 

「GHQの行なった思想弾圧で、後の日本に最も影響を与えたのは、『教職追放』だった。」(P426)

 

と説明されていますが、「GHQの行なった思想弾圧」というのは不適切です。

戦争責任者や軍国主義を勧めていた者にとっては「弾圧」と思うのも当然かもしれませんが、戦時中の軍国主義をあおる書物などを没収するのはポツダム宣言にある「軍国主義の除去」に基づくものです。

戦後に書かれた書物の没収ではありません。戦前の軍国主義的な内容の書物の没収です。

たとえば、GHQの占領中に横田喜三郎の著した『天皇制』は、明らかにGHQの基本方針であった「天皇制の維持」「天皇の戦争責任否定」に反していますが、没収も弾圧もされていません。

「…横田喜三郎は、東京裁判の正当性を肯定している。」(P427)とありますが、これも不正確で、横田は東京裁判の翻訳官を担当し、審議・過程を詳細に知っていて、国際法学者の立場として、その法的不備を指摘しています。

 

「…多くの日本人協力者がいた。特に大きく関与したのは、日本政府から協力要請を受けた東京大学の文学部だといわれている。」(P423)と説明されていますが、「…いわれている」とあるようにまだ学術的には検証されていないことです。

「同大学の文学部内には戦犯調査のための委員会もあった」とも説明されていますが、

これは外務省からの依頼によるものです。仮にGHQの指示が背後にあったとしても、

あくまでも日本の手による問題解決を促すもので、「我々は、サイドラインを引き、ゴールを設け、ボールをトスする。彼らがそのボールを拾い上げ、それを持って走る。彼らがボールを落としたり、倒れたりしたときには助ける。しかし我々は特にプレーに加わるわけではない。」というCIE(民間情報教育局)の方針とも合致しています。

戦時中の特高や憲兵隊による露骨な弾圧、出版禁止、プレスへの圧力に比べれば極めて穏当なものです。

https://ameblo.jp/kohaniwa/entry-12450537290.html

 

さて、「教職追放」についてですが。

 

「『WGIP』を日本人に完全に植え付けるためには、教育界を押さえなければならないと考えたからだ。」(P426)

「代わってGHQが指名した人物を帝国大学に入れたが…」(同上)

「戦前、『森戸事件』(東京大学教授の森戸辰男が無政府主義の宣伝をした事件)に関係して東京大学を辞めさせられた大内兵衛(戦後、東京大学に復職、後、法政大学総長)…」(同上)

「戦前、無政府主義的な講演をして京都大学を辞めさせられた(滝川事件)滝川幸辰(戦後、京都大学総長)など、多くの者がGHQの後ろ盾を得て、『WGIP』の推進者となり、最高学府を含む大学を支配していくことになる。」(同上)

 

まず、いわゆる「教職追放」が開始された1947年には、「戦争責任を伝える計画」(WGIP)の「真相はこうだ」を初めとする一連の施策は終了(1946)しています。東京裁判が結審しているからです。「戦争責任を伝える計画」(WGIP)を推進する必要はもうありませんでした。

大内兵衛は確かに1920年の「森戸事件」に関係して罰金刑となり、失職しましたが、数年後、東京大学に復職しています。「第二次人民戦線事件」で検挙され、1944年に退官しているのでこの説明は誤りです。

また、「森戸事件」「滝川事件」を「無政府主義の宣伝」「無政府主義的な講演」などと評しているのは弾圧した戦前の政府の見解で、現在このようにこの事件を説明するのは不適切です。滝川の理論は、階級が対立する社会では、罪刑法定主義を徹底しないと、法が思想を弾圧する手段になりかねない、という説明で、この程度の話で「無政府主義」と断じて大学の人事に介入した戦前の「思想弾圧」の理不尽さがよくわかる事件です。

ちなみに大内兵衛にせよ滝川幸辰にせよ、戦前に思想弾圧された象徴的な人々の「回復」の一環であって、「『WGIP』の推進者となり、最高学府を含む大学を支配していくことになる。」というのは何の根拠もない言説です。

(細かいことが気になるぼくの悪いクセですが、「最高学府を含む大学」と説明されていますが、どうやら百田氏は「最高学府」が「東京大学」を意味する言葉だと勘違いされているようですが、「最高学府」とは「大学」のことです。)

 

「『八月革命説』とは『ポツダム宣言の受諾によって、主権原理が天皇主権から国民主権へと革命的に変動したもので、日本国憲法はGHQによって押し付けられたものではなく、日本国民が制定した憲法である』という説である。現在でも、この説は東大の憲法学の教授たちによって引き継がれ、その教え子たちによって全国の法学部に広く行き渡り、司法試験などの受験界では『宮沢説』は通説となっている。」(P427

 

と説明されて、宮沢俊義を説明しています。

これ、「八月革命説」を少し誤解されていると思います。主権原理が天皇主権から国民主権に移ったことは、まさに大転換で、これを刺激的な比喩として「革命」と説明しているのであって、日本国憲法の成立に正当性を与えるリクツでは無いはずです。

ましてや宮沢の造語、術語にすぎず、「日本国憲法はGHQによって押し付けられたものではなく、日本国民が制定した憲法である」とまで宮沢は言及していなかったはずです。

 

「『日本国憲法の制定は日本国民が自発的自主的に行なったものではない』と主張していたが、ある日突然、正反対のことを言い出した。」(P427)

 

と説明されていますが、これも誤解されています。

宮沢の説の「変化」は天皇の地位についてで、GHQの占領下の1947年で「天皇は君主」という立場の説明をしていたのですが、1955年には「君主ではない」と説明し、1967年の『憲法講話』(岩波新書)で「天皇は公務員」と説明していることだと思います。

 

「そして東京大学法学部からは、戦後も数多くの官僚が輩出している。『自虐史観』に染まった教授たち(一部は保身のためGHQに阿った)から『日本国憲法は日本人が自主的に作った』『東京裁判は正しい』という教育を受けた人たちが、文部科学省や外務省の官僚になるという方がむしろ、恐ろしいことである。」(P428)

 

と説明されていますが、そんなことはないと思いますよ。

東大にせよ京大にせよ、むしろGHQの民主化政策以降、法学部の中ではさまざまな考え方や立場の教授・学生が自由に研究し、主張をできるようになったと考えるべきではないでしょうか。戦前には「危険思想」「反体制」のレッテルを貼られた人物さえ、「復活」できる世の中になったわけです。

独立後は、さらに多様な学問の自由が展開されています。

憲法学では、東京大学の宮沢俊義の「八月革命説」に対して、京都大学の大石義雄は日本の歴史・伝統を重視したすぐれた憲法論を提唱し、一方の憲法理論を確立しています。

 

『「教職追放」は大学だけでなく、高校、中学、小学校でも行なわれた。最終的に自主的な退職も含めて十二万人もの教職員が教育現場から去った。』(P428)

 

と説明されていますが、根拠不明な説明です。

そもそも、これ、GHQはもちろん、CIE(民間情報教育局)は関与していません

判定はすべて現地に委任されていて、対象となったのは約5000人です。当時全教員は約60万人ですから全体の1%ほどです(『昭和史の謎を追う』秦郁彦・文春文庫)