【192】WGIPは「戦争についての罪悪感を日本人の心に植え付ける宣伝計画」ではない(その2)
「GHQの検閲は個人の手紙や電話にまで及んだ。進駐軍の残虐行為を手紙に書いたことで、逮捕された者もいる。スターリン時代のソ連ほどではなかったが、戦後の日本に言論の自由はまったくなかった。」(P422)
と説明されていますが、「検閲」が個人の手紙・電話に及ぶ、あるいは「戦後の日本に言論の自由はまったくなかった。」というような表現をされてしまいますと、戦前・戦後を実際に暮らしたことがない若者は大きな勘違いをしてしまいます。
あまりに誇張と事実の一面しか語られていません。
もちろん、信書・通信の自由を犯すことなどは許されませんが、これらGHQの「検閲」の目的と方法はどのようなものだったのでしょうか。
「これらの検閲を、日本語が堪能ではないGHQのメンバーだけで行なえたはずがない。」と説明されている通り、日本人の「検閲官」がいました。東京中央郵便局には600人ほどが手紙の検閲をおこなっています。
GHQの検閲済の印鑑が押された手紙なども多数ありますし、現在も所持されている方もおられます。
この検閲を統括したのがGHQの民間検閲局(CCD)です。
その詳細を説明するために、WGIPの目標についてまず、説明します。
「戦争責任を日本国民にどのようにして伝えていくか」ということを実現するために示したことは、
① 日本人を知る。
② 軍事的敗北をわからせる。
③ 日本軍の行った残虐行為を伝える。
④ 戦争の実態を伝える。
⑤ 東京裁判を受け入れさせる。
の5つです。
①の「日本人を知る」というところから入っているのがおもしろいところです。
民間情報教育局の企画作戦課長となったブラッドフォード=スミスは、戦時中から対日心理戦を担当した人物で、捕虜の日記や尋問を通じて、どのようなプロパガンダを兵士に対して行えば戦意を喪失して降伏するかを調べ、「投降ビラ」に反映させる、という仕事をしていました。
彼が学んだことは、「虚構」「誇張」はかえって疑いや反発をまねく、つまりウソは見破られる、ということで「戦闘状況」を正確に示す、ということでした。
アメリカ人には日本人は不可解で、文化・慣習などまったく異質…
よって、まず、これを知る、ということもWGIP(戦争責任を伝える計画)に含まれていたことは理解できます。
さて、CCD(民間検閲局)の目的は、
「最終目標は、日本人の思考を把握し、政策の立案や占領政策に生かすことである。」
と記されています。この点、CCDはWGIPの目的を実行していたことがわかります。
「検閲」を通じて、当時の日本人の意識、占領に対する民間人の考え方を集めて、占領政策に反映していきました。
一番大きなことは「天皇」についてです。これによって日本人の多くが天皇制の存続をのぞみ、天皇がナチス=ドイツのヒトラーのような存在ではなかったことがわかりました。
実際、マッカーサーが「天皇制」の存続を決めています。
そして次に、進駐軍に対してどのような印象を持っているか、ということで、日本人の多くが好意的で協力的であることもわかり、占領軍の規模・予算を縮小しても大丈夫であるという確信を得ます。
実際、進駐軍は当初約50万人でしたが、1948年には約10万人に削減されました。
さて、CCD(民間検閲局)のもとで進められた郵便検閲ですが、「日本人協力者」の証言が、近年になって出てくるようになり、NHKの「クローズアップ現代」でも取り上げられていました。
いったい何を検閲していたか、というと「検閲キーワード」は「闇市」及びそれを意味する類語・隠語でした。
武器や軍需物資が闇市に出回っていないか、食料品や生活必需品が闇取引されていないか、ということを監視し、占領下の物価安定を図るのが目的でした。
とくに生活必需品に対する民衆の不満は占領政策にとっては見過ごせない「世論」です。アメリカの占領政策に対する他国の干渉をまねき、アメリカ本国の世論などにも影響を与えかねないからです。
「闇市」という言葉を手紙で見つけると、それを報告します。するとただちに日本の警察に通報され、その手紙を書いた人物が取り調べられる…
その「日本人検閲官」は「うしろめたさ」を感じていたという告白をされています。
「検閲」や「表現の自由」の弾圧はゆるされるべきものではありません。
その目的や結果がどうであれ、私はけっして肯定はしません。
しかし、一面的な「言論弾圧」を強調し、「言論の自由」が無かったと説明されるのは誤りです。
敗戦直後の1945年9月には『日米会話手帳』という簡単な文例をかかげたわずか32ページ本が売られ、1ヶ月で400万部の大ヒットとなります。
もちろん、この段階ではWGIPなどはこれに関与することができるわけでもありません。1945年12月に来日したアメリカ人記者マーク=ゲインの記した『ニッポン日記』(筑摩書房)を読めば、完全に瓦礫とかした町の中で、生き生きと生活する日本人の様子がみてとれ、進駐軍に対して従順で好意的であったことがわかります。
「陽気で」「いたずらっ子のような」アメリカ人のイメージは、米軍兵士たちが子どもたちに配るチョコレートやガムとともに広がっていきました。
占領軍への批判は厳しく取り締まられていましたが、総動員体制下のさまざまな規制は撤廃され、戦後の厳しく(無意味な)精神論に基づく「縛り」から解放され、文化・言論は自由な雰囲気が広がります。
映画や歌謡曲は、明るい未来や青春、恋愛を題材にし、「のど自慢」「素人演芸会」のような視聴者参加の番組がラジオに流れます。1946年からは国民体育大会が始まり、プロ野球も復活です。これらすべて戦時中に禁止、制限されていたことばかり…
「戦後の日本に言論の自由はまったくなかった」などは、とても大多数の一般庶民の意識ではありません。
しかし、これは都市部およびその周辺であったことも忘れてはなりません。
農村では(あるいは都市部の特定の階層の中では)戦前からの家父長制が残り、1946年4月には婦人参政権が認められた総選挙で39人の女性議員が誕生しましたが、まだ女性は家庭にいるべし、という考え方が根強く残っていました。
「検閲や焚書を含む、これらの言論弾圧は『ポツダム宣言』に違反する行為であった。『ポツダム宣言』の第十項には、『言論、宗教および、思想の自由ならびに基本的人権は確立されるべきである』と記されている。つまりGHQは明白な『ポツダム宣言』違反を犯しているにもかかわらず、当時の日本人は一言の抵抗すらできなかった。」(P423)
という説明は著しい曲解です。
GHQが検閲・出版禁止をおこなったのは戦時中、「言論、宗教および、思想の自由ならびに基本的人権」を阻害・弾圧していたこと、及び戦後に残るそれらの阻害要因の除去です。
「ちなみに『大東亜戦争』という言葉も使用を禁止された。(P423)」
「この時の恐怖が国民の心の中に深く残ったためか、七十年後の現在でも、マスメディアは決して『大東亜戦争』とは表記せず、国民の多くにも『大東亜戦争』と言うのも躊躇する空気がある。」
「いかにGHQの検閲、処罰が恐ろしかったかがわかるであろう。」
と説明されていますが、戦後の一般市民の感覚・空気をまったく反映されていません。
「大東亜戦争」という呼称を用いない、ということになっても大部分の庶民は、恐怖はおろか何とも思っていませんでした。
処罰を恐れるほど「大東亜戦争」という呼称にこだわるのは、限られた階層・思想の持ち主だけです。
むしろ戦時中、「大東亜戦争」を連呼され、「大東亜共栄圏」をうたい、国家総動員体制の下、苦しい生活に耐えた日々を思い出す言葉として使いたくない、という人々も少なからずいたことを忘れてはいけません。