【180】東条内閣の打倒は岸信介一人で実現したことではない。
第一次世界大戦中、ドイツでは「ルーデンドルフ独裁」ということが起こりました。
戦争というのが「総力戦」となると、もちろん政治とは一体不可分となりやすく、政治が主導するべき戦争が、歴史的には軍部が主導する戦争になってしまいます。
経済が戦争を決するのに、戦争が経済を決めてしまう…
それが「敗北の総力戦」の特徴で、この体制となったほうが敗北するのは、ほぼ間違いなさそうです。それは「東条独裁」の場合も同様でした。
もともと「戦争の勝利」という結果と目的をテコに東条は権力を集中していきます。
すでに1941年10月、東条は首相兼陸軍大臣となり、さらに憲兵隊の要職を腹心のもので固め、あたかも「私兵」のように用いて批判勢力・言論弾圧に活用しています。
実際、新聞社に圧力をかけるために憲兵を送りこんだり、戦争を批判している記事を書いた記者を執拗に特定し、徴兵して戦地に送ったりしています。
さらに1943年11月には新しく軍需大臣を設立してこれを兼任し、さらには陸軍大臣兼務のまま、1944年2月にはなんと参謀総長を兼任します。軍政・軍令の別はこのときに崩れ、政治・軍事両権を掌握しました。
しかし、戦局の悪化とサイパンの陥落により、その勢威に陰りが出てきます。
「この時、商工大臣であった岸信介(戦後、首相になる)は『本土爆撃が繰り返されれば必要な軍需を生産できず、軍需次官としての責任を全うできないから講和すべし』と首相の東条英機に進言した。東条は『ならば辞職せよ』と言ったが、岸は断固拒絶した。東条の腹心だった東京憲兵隊長が岸の私邸を訪れ、軍刀をじゃらつかせて恫喝したが、岸は動じなかった。結果、内閣不一致となり、同年七月、東条内閣はサイパン失陥の責任を取る形で総辞職となった。」(P399)
まず、細かいことが気になるぼくの悪いクセ、ですが、この時、岸は「商工大臣」ではありません。無任所の国務大臣の誤りです。
実はこのことは、後に重要な意味があることなので些細なミスではすまされません。商工大臣ではなく無任所国務大臣であったからこそ東条辞任につながるのです。
岸の拒絶が東条独裁を倒したかのような美談仕立てとなっていますが、実はこの話は、大きな活動の中の一つの動きにすぎませんでした。
戦局の悪化は、国内生産の限界となっていて、不足する物資の労働力・原材料の配分をめぐって政府と軍部、つまり「民需と軍需の対立」が顕著となり、さらに陸軍と海軍は船舶・航空機の生産、燃料配分で対立します。1944年2月、天皇みずからこの仲裁に入ってようやく妥協するようなありさまでした。
天皇は終戦末期に近づくにつれて、事後報告ばかりの軍部に不満を示し、時には政治・統帥部の作戦担当者よりも的確な判断を下しておられます。
(『朝日ジャーナル』編集部「棄民四十一年の国家責任」)。
これに対して、統帥部は、かえって天皇には虚偽、とは申しませんが有利な情報を伝えてその判断に誤った方向性をあたえていきます。
サイパンが失陥すると、東条独裁を倒すための「宮中陰謀」が進みます。
重臣・海軍・翼賛政治会が倒閣工作を進めます。これに対して憲兵を用いて反対派をおさえようとしました(この一つが岸信介への圧力の話です)。
教科書では、サイパン島陥落による責任、ということが説明されますが、実際はマリアナ沖海戦での400機近くの戦闘機、空母3隻を失ったことが大問題でした。
ですから、サイパン島陥落前に東条打倒工作が始まります。
その中心となったのが岡田啓介・若槻礼次郎・近衛文麿・平沼騏一郎でした。
6月27日には東条は岡田啓介に対して内閣批判を自重するよう「説得」しました。
説得とは、逮捕・拘禁をちらつかせたほぼ脅迫のようでしたが、なにせ岡田は二・二六事件を経験済み、その程度の恫喝は何とも感じていなかったようです(『岡田啓介回顧録』中公文庫)。
海軍でも、予備役海軍大将への戦局説明後、軍令部の記録で「今後帝国ハ作戦的ニ退勢挽回ノ目途ナク、戦争終結ヲ企画ストノ結論ニ意見一致セリ」と記されています。
窮地に陥った東条は、内閣改造を内大臣木戸幸一に求めてきます。
実は、これが宮中・重臣の狙いでした。
以下、東条解任工作を説明しますと…
もともと東条と「長年の盟友」と言われていた岸信介でしたが、マリアナ沖海戦後は東条を見限るようになっていました。
岡田はこのことに目をつけ、岸信介も重臣に接近します。
まず、木戸が東条に三つの改造条件を提示します。一つは東条首相の陸軍大臣・参謀総長の兼任を解く、二つめは海軍大臣の更迭、そして三つ目が重臣の入閣でした。
重臣を入閣させる枠をつくるためには大臣を一人解任する必要があります。
しかし、多くはすでに省付の大臣ですから、確実に東条は岸に辞任を求めるはずでした。
そこを見越して岡田は岸に対して「閣僚辞任を拒否してほしい」と要望していたのです。岸が憲兵隊長に対して強気に拒否できたのは重臣との裏工作だったからで、岸一人の意思ではありませんでした。
こうして岡田・木戸が連携し、岸を利用した東条打倒工作が成功したのです。
『岡田啓介回顧録』(中公文庫)
『米内光政』(実松譲・光人社)
『東条秘書官機密日誌』(赤松貞雄・文藝春秋)
『木戸幸一日記』(東京大学出版会)
歴史はたった一つの力で動きません。一定の方向に進むのはいろいろな力の「合力」の結果です。