『日本国紀』読書ノート(169) | こはにわ歴史堂のブログ

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169】戦争目的が「石油を奪うため」と説明しながら「侵略では無い」というのは矛盾している。

 

「昭和一六年(一九四一)十二月八日未明、聯合艦隊の空母から飛び立った日本海軍の航空隊はハワイの真珠湾に停泊するアメリカ艦隊を攻撃した。日本軍は戦艦四隻を撃沈し、基地航空部隊をほぼ全滅させた。この時、在アメリカ日本大使館員の不手際で宣戦布告が攻撃後になってしまった。」(P385)

 

南雲中将率いる機動部隊は、1122日、択捉島単冠湾に集結していましたが、1126日にはすでにハワイに向けて出撃しています。

1126日はハル・ノートが出された日。12月1日に御前会議が開かれ、最終決定が行われていますが、結局は「帝国国策遂行要領」の一部修正のみで軍部は作戦を進行させています。

ハル・ノートが日本を戦争に追い詰めた、ということの意味は、ネット上でよく言われているよりも希薄なんです。

 

「この時、在アメリカ日本大使館員の不手際で宣戦布告が攻撃後になってしまった。」という説明も、宣戦布告が遅れて「奇襲」「騙し討ち」の汚名を受けた責任を大使館員の不手際のみに負わせるのは不正確です。

 

東郷外相は、対米交渉打ち切りの通告を、アメリカに手交する時間的余裕を計算して12月5日午後にワシントンの日本大使館に発電しようとしました。

しかし、開戦意図を直前まで隠すことを強く海軍から要求され(すでに出撃している攻撃部隊のタイミングに合わせるために)、通告は12月8日午前3時(真珠湾攻撃の30分前)と決定されました。

しかし、そもそも対米開戦のことはワシントンの大使館に知らされていませんでした。

暗号解読、浄書に手間取り、真珠湾攻撃から1時間余り遅れることになりました。

野村大使がハル長官に手交しましたが、大使館に帰ってから日本軍が奇襲攻撃をしかけたことを知ったのです。

それに、どうも真珠湾攻撃のことばかりが強調され、日本は奇襲するつもりはなく、大使館の不手際のせいだとする言説が流布されていますが、同日に行われたマレー半島の上陸作戦については、まったくの「奇襲」です。そもそもイギリスとは何の「交渉」もしていませんでした。

25軍の第18師団は、日本時間12月7日午後1130分、マレー半島コタバルに侵入、8日午前1月30分に上陸しています。こちらは真珠湾攻撃よりも1時間以上も前のことです。

また、第25軍第5師団はタイの承認無くタイ南部のシンゴラに上陸し、タイ軍と交戦しています。それを退けマレーシア国境に進軍し、さらに仏印からタイに近衛師団が侵攻したのです。

 

「日本がアメリカとイギリスに対して同時に開戦したのは、オランダ領インドネシアの石油を奪うためだった。そのためにはシンガポールのイギリス軍を撃破せねばならず、また手に入れた石油を日本に送るのに東シナ海を通るため、その航路を遮る位置にあるアメリカのクラーク基地を無力化する必要があった。真珠湾のアメリカ艦隊を叩いたのも同じ理由である。」(P385P386)

 

と説明されているのですが、「石油を奪うため」に英米と戦争をした、とはっきり断言されています。

また、「そしてこの戦争の主目的であったオランダ領インドネシアの石油施設を奪うことに成功した。」(P389)と述べられています。

そして、

 

「『大東亜戦争は東南アジア諸国への侵略戦争だった』と言う人がいるが、これは誤りである。」(P391)

 

と、コラムで説明されていますが、他国の石油資源を奪うことは「侵略」ではないのでしょうか。この説明では、「大東亜戦争は東南アジア諸国への侵略戦争だった」と百田氏自ら説明されているようなものです。

中立国タイを無断で通過して、宣戦布告無くイギリス領マレーシアに入り、ボーキサイトや天然ゴムの資源を確保し、インドネシアの「石油を奪う」。

これでは「東南アジア諸国への侵略戦争だった」と言われても仕方がないように思います。

 

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