【82】幕府の19世紀前半の外交政策は「右往左往」していない。
「幕末夜・明治夜明け」というのは、明らかに戦後の歴史教育でよく見られた論調で、1960年代から80年代の学校教育や教科書を否定的に説明されているわりには、百田氏の歴史観もそこに止まっているように思えます。
「右往左往する幕府」(P216)
という題名でP216~P218にかけて説明がされていますが…
幕府の19世紀前半の外交政策は「右往左往」していません。
1810~1820年代のイギリスの対外政策は、当時のイギリス国内の状況を理解しているといろいろなことがわかります。
かんたんにいうと、産業革命以来の「生産過剰」によって、不況に突入しました。
1825年にはその頂点として最初の「恐慌」に突入します。これは実はアメリカも同様で、恐慌、とまでは言いませんが不況に陥ります。
民間レベルでは、この「生産過剰」を海外での交易によって、つまり輸出を振興して解決をしようという動きになっていました。
よって、「交易相手」を模索するようになります。
「文政の薪水給与令」を、ロシアに対しては撤回しながら、他の異国船については適用し、大津浜事件についても、幕府の役人が「侵略行為ではない」と判断して、薪・水・病人対応をしているのは、案外と世界の動きに適応している行動でした。
企まざる「正しい対応」だったのです。
1825年に幕府が「無二念打払令」を出しましたが、このとき、イギリスは最初の大恐慌まっただなかで、内政・経済問題が最優先でした。
それから30年代に入って、イギリス国内で政治的変化が生まれます。
第一回選挙法改正によって、産業資本家たちが選挙権を得て、政府は彼らの意見をくみ取った政治を行うようになります。
ここからイギリスは、従来とは違う目的の海外進出を行うようになりました。
「原料供給地」としての植民地、製品を売買する「市場」、に、世界の諸地域を色分けてしていったのです。
そして、その「色分け」に従わない国は、武力を行使していきました。
原料供給地として必要なところは軍事力で制圧して植民地にします。そこにある政権そのものをつぶし、一次産品が提供できる地域に「改造」します。
市場価値のあるところは、「自由貿易」を押しつけて武力で「開国」させ、交易に有利な条約を結ばせるのです。
「武力」の使い方も二通りでした。
アヘン戦争は、イギリスの自由貿易を押しつける手法で、植民地にする目的ではなく市場開放させるための戦争でした。
ですから、1842年に天保の薪水給与令を出したことは、正解なんです。
企まざる「正しい対応」をここでもしたのです。
「ところが天保一三年(一八四二)年にアヘン戦争で清帝国がイギリスに負けたことを知った幕府は、今度はイギリスおよびヨーロッパ列強の強さに怯え、同年、それまでの政策を転換して『異国船打払令』を廃し、遭難した船に限り給与を認める『天保の薪水給与令』を発令した。まさに右往左往の政策である。」(P217~P218)
別に幕府は「怯え」などしていません。そんなのは大河ドラマや小説の一場面にすぎません。
冷静に考えればわかりますが、文政の無二念打払令(1825)年から1842年の天保の薪水給与令まで17年もの間があります。
17年間続けた方針を世界状況の変化の中で変えたことは、右往左往していると果たして言えるのでしょうか。
錯覚、誤認、イメージで19世紀前半の幕府の政策が説明されてしまっています。