【80】ゴローウニン事件の「評価」が誤っている。
「文化八年(一八一一)年には『ゴローニン事件』が起きる。これは国後島でロシア軍艦の艦長ゴローニンら八人を、南部藩士が捕まえた事件である。日本からすればロシアが行なった樺太や択捉島での略奪の報復だったが、ロシアと日本の間に軍事的緊張が高まった。」(P215)
と説明されています。
「ロシアが行なった樺太や択捉島での略奪」とは、前にお話しさせていただいた「文化の露寇」のことです。(ちなみに艦長の名前「ゴローニン」は昔の教科書に見られた表記で、現在では「ゴローウニン」と表記しています。)
例によって、細かいことが気になるぼくの悪いクセ、なんですが…
以下ゴローウニンの体験談『日本俘虜実記』・『ロシア士官の見た徳川日本』(講談社学術文庫)、リコルド『対日折衝記』(同)に基づいて説明しますと…
ゴローウニンの指揮する軍艦はディアナ号といいました。一行は、まず択捉島に上陸し、松前奉行所の役人と接触します。理由は薪・水を求めるためでした。
「文化の露寇」以後、老中から大目付に文書(ロシア打払令)が出されていましたが、この役人は「親切に」択捉島にある会所へ行くように指示し、わざわざ一筆したためてくれました。
現場は、ロシアに対して柔軟に対応していたことがわかります。
ところがゴローウニンは、択捉島から離れて国後島に進んでいきます(もともとの目的が探検だったからでしょうが、この理由が腑に落ちないところもあります)。おりからの時化を避けるように国後島の泊港に入りました。
ここには松前奉行管轄の陣屋があり、「打払令」に基づいて砲撃を行いました。
このとき、幕府は、各藩に北方警備の「役」を分担させていたのですが、当時の担当は南部藩でした。ですから正確には、「南部藩士が捕まえた」のではなく「警固の任にあった南部藩士が砲撃した」ということになります。
捕まえたのは松前奉行の役人でした。と、いうか正確には捕まえていません。ゴローウニンが薪水の補給を受けたいと申し出をしたところ(役人からもらった手紙を送った)、国後の陣屋は砲撃を止めて面会に応じました。それどころか食事の接待も受けています。
礼節をもって、とまでは言えませんが、紳士的な対応であったと思います。
日本の役人は「薪と水を与えてよいかどうか松前奉行の許可をとりたいのでしばらく待ってほしい」という回答をします。
ここから松前奉行側の記録とゴローウニンの記録の相違が出てくるのですが、松前奉行側は逃亡した、と記録していますし、ゴローウニン側は人質を要求されたのでいったん船に戻ろうとしたら捕まえられた、と、なっています。
ともあれ、ここからが「事件」となりました。
「日本からすればロシアが行なった樺太や択捉島での略奪の報復だったが…」と説明されていますが、「報復」目的で艦長を捕まえたわけではありません
副艦長は、この事態に、艦砲射撃で艦長の返還を要求しました。
なんと泊港で、砲撃戦がおこなわれたのです。
リコルドは、艦砲射撃を続けてかえって艦長に危害が加えられてもだめだと考え、救援を求めてオホーツクに向かいました。
軍管区の海軍大佐に事態を報告し、軍隊の出撃を要請するため、首都サンクトペテルブルクに向かおうとします。
(ロシアは極東にまとまった軍隊を常置していなかったことがわかります。)
ところがリコルドの要請は却下されました。
ロシアはナポレオンとの戦争の危機にあり(1812年がロシア遠征)、兵力を極東に回している場合ではなかったのです。
「ロシアの副艦長は本国に戻り、ゴローニン救出のために遠征隊を出すように要請するが…」(P215)
とありますが、リコルドは厳密には本国には戻っていません。戻る途中で許可が出ないことがわかり引き返したのです。
リコルドの考えたことは、「人質交換」でした。
「文化の露寇」で捕虜になっていた日本人を連れて、ゴローウニンとの交換を要求することを思いつきます。
一方、ゴローウニンは、箱館(現在の函館)に連行されて尋問を受け、松前に送られていました。
松前奉行自らが取り調べをしますが、現場と奉行所の感覚がここで相違していました。
現場は、ゴローウニン一行が薪・水を要求したが、取り調べ中に脱走し、砲撃事件に発展した、と考えていたのですが、松前奉行は、「文化の露寇」の延長にあると考えていて、前回の「文化の露寇」の「犯人」を捕まえた、という認識でした。
ゴローウニンは、それは誤解であると申し立て、全く関係が無い、ということを説明しました。
「現場-松前奉行-幕府」で、それぞれこの事件の理解の温度差・事実認識が違っていて、「上」に行くほど事件が大げさに解釈されていたことがわかります。
松前奉行は、取り調べの過程で、ゴローウニンと「文化の露寇」は無関係である、と理解し、釈放を決定して幕府にそれを願い出ました。
なかなか話のわかる男です。
江戸時代、現場の役人は、なかなか優秀な人物が多かったように思います。
ところが、幕府からの回答は、「拒否」…
松前奉行も、この判断を気の毒と思ったようで、最初は牢獄に入れられていたのですが、武家屋敷にお預け、になり、さらには外出の許可も出されるくらいの待遇に変化しました。
ところが、ゴローウニンは、焦ってしまいました。このままでは永久に帰れないのではないか…
で、なんと脱走を図ってしまい、山中をさまよって飢えているところを村人に見つかり、再度捕まって投獄されてしまいました。
一方、副艦長のリコルドは、ほぼ「走れメロス」状態です。
交換する人質を連れて国後に来たものの、すでに函館へ艦長は送られた後… 人質の交換を要求しますが、なんと日本側は人質を受け取ったものの、ゴローウニンはすでに処刑された、と言います。
なかなかリコルドは賢明な男だったようで、この役人の話をウソと見破り、別の方法を模索します。
リコルドは非常手段に出ます。
このとき、国後島沖を航行していた日本船を拿捕し、乗っていた人々をオホーツクに連行しました。この連行された人物の一人が、高田屋嘉兵衛です。
リコルドは事情を説明し、「交換の人質」というより「仲介人」として嘉兵衛を遇します。
高田屋嘉兵衛は、リコルドとは交流を深め、ロシア語などを学びます。
リコルドからゴローウニン事件の経緯と解決策を相談されていた嘉兵衛は、「文化の露寇を公式に謝罪すれば、ゴローウニンは解放されるに違いない」と説きました。
リコルドは再び国後に向かい、国後の陣屋と交渉を開始しました。
高田屋嘉兵衛がこの仲立ちに日露間を往来します。
幕府側も、これ以上ロシアとの問題がこじれるのを恐れて、「文化の露寇を侘びればゴローウニンを釈放する」という文書を出します(『魯西亜船江相渡候諭書』)。
こうしてリコルド、高田屋嘉兵衛の「奔走」でようやくゴローウニンは釈放されて事件は解決をみました。
この「交渉」は、かえって日露の関係を接近させ、ロシアは「国交樹立と国境画定」の話し合いをしたいという旨を幕府に伝え、回答は一年待つ、としました。
幕府は、国交については拒否しましたが、なんと国境画定協議には応じると回答することを決めたのです。
その内容は、択捉島までを日本領、得撫島を中間地帯としてどちらも立ち入らず、新知島までをロシア領とするものでした。
ところがその回答が届く直前、リコルドとゴローウニンは、かつてのレザノフと同じことになるのではないか、と懸念し、期限の一年も経過した、ということもあり、いったんロシアへ退去してしまったのです。
結局この交渉は、1853年のプゥチャーチンの来航に持ち越されるのですが、日露和親条約で速やかに国境画定ができたのは、この「交渉」と「国境原案」がこの段階ですでにできあがっていたからです。
幕府は、ロシアとの関係が改善されたことをうけて、直轄地にしていた蝦夷地を1821年、松前藩に還付しています。したがって、
「これにより日本とロシアの関係が改善されたわけではなかった」(P216)
というのは誤りです。