模試に出てきた倭寇の話 | こはにわ歴史堂のブログ

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ちょうど大学受験生にとっては、夏休みくらいにおこなわれた模試が返され、その結果をもとに志望校を決めたり、教科の出来具合を確認したりと、そういう時期になっていると思います。

わたしが勤務する高校でも、模試を受けてその結果などが生徒たちの手元に届き、そしていろいろ志望校を決めていく、ということをしています。

さて、その模試の「日本史」で、次のような正誤問題が出題されていました。
(あ、模試の問題にケチをつけたり、問題が間違えている、というような話ではありませんから念のため。)

設問は「前期倭寇」と「後期倭寇」に関する正誤を判断するというものでした。

 X 前期倭寇は、中国人を主体とするものであった。
 Y 後期倭寇は、豊臣秀吉の海賊取締令によって衰退した。

 ① X 正 Y 正  ② X 正 Y 誤
 ③ X 誤 Y 正  ④ X 誤 Y 誤

「倭寇」は一般的に、前期と後期に分けて説明します。(過渡期としての中期を設定される研究者もおられます。)
Xは正誤問題ではよく出題されるところ。前期倭寇は、日本人が主体で、後期倭寇は中国人が主体です。ですから、「誤」ということになるんですよね。

ふと、Yの問題文を読んで思ったことなのですが…

おそらく作成者は、これを「正」とする問題文を作られたのだと思います。
実際、高校生が使用している教科書にも、ほぼこれと同じような文脈で記されています。

○ 秀吉の発令した「海賊取締令」はどのようなものだったのか?
○ そして、それが後期倭寇に対してどのような“効果”があったのか?

海賊取締令は、刀狩令と同じ1588年に出されたもので、

 「海の刀狩り」

と呼ばれるものです。三ヶ条からなり、ざっくり言うと、海賊に三つの選択をせまるものでした。

豊臣体制の大名になるか? 
どっかの大名の家来になるか? 
武装放棄して百姓となるか?

なんです。
「日本の」九州沿岸などの海賊衆に対して、「もう海賊行為しちゃだめよ」、「この三つのうちどれかを選びなさい」という法令です。

だとすると、中国人が主体であった後期倭寇と、関係無いやん?! ということになっちゃいますよね。

海賊取締令によって後期倭寇は衰退した、という因果関係はほんとにあるの??

ということになります。

海賊行為、というのは、実は「私貿易に従事する」ということも含まれていました。
海賊たちは海上輸送利用者に、独自に(勝手に)、警固料や輸送料を徴収し、それに従わないものを武力によって脅す、という行為もしており、それも「海賊行為」とされていました。

この法令は、私貿易や海賊輸送を、豊臣政権の枠組みに入れて、「公の行為」にする、というのが目的なんです。

ですから、ほんとは「海賊取締令によって後期倭寇が衰退した」というのは、ちょっと“間に”説明が必要なところなんですよね。

「海賊」たちの行動は、海のネットワークです。交易相手(私貿易をしてくれる相手)がいて、初めて成り立つものです。
海賊取締令によって、「日本側」の交易相手(ネットワーク拠点)を喪失することになるのですから、後期倭寇の活動に制限がかかってしまいました。

ただ…
世界史的な観点からみると、海賊取締令が秀吉によって出される前から、後期倭寇の衰退は実は始まっているんです。

後期倭寇と明帝国の「戦い」は1540~50年代にもっとも激しく展開されました。
明将の胡宗憲が倭寇の親玉、王直(日本に鉄砲を伝来させた船は王直のものと言われています)を捕え、さらに明将の威継光が倭寇討伐に成功し、倭寇は組織的な抵抗がもはやできない状態に陥りました。
この時点で、後期倭寇は衰退した、と考えてもよいと思うんですよね。

変な話ですが、「海禁」をするから密貿易がおこなわれ、海賊行為が助長されていた、とも思うんです。
1560年代に海禁が緩和され、商人たちの交易・出港が認められるようになると、密貿易そのものの意味がなくなり、倭寇の活動は終息していくことになりました。

(1920年代のアメリカではありませんが、禁酒令なんか出すからマフィアが活動を盛んにしていた、ということに似ていないともいえないですよね。)

日本史の教科書には、「海賊取締令によって、後期倭寇が衰退した」というようなニュアンスの表現が多いのですが、「取締令だけで」後期倭寇が衰退したのではない、ということはちょっとわかっておいてほしいところです。