高杉晋作の虚像 | こはにわ歴史堂のブログ

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朝日放送コヤブ歴史堂のスピンオフ。こはにわの休日の、楽しい歴史のお話です。ゆっくりじっくり読んでください。

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高杉晋作。

一部の小学校の教科書、そして中学や高校の教科書では高杉晋作の事績が紹介されています。
最大の功績は、奇兵隊を組織し、それが後の近代的な軍隊制度に成長する“芽”となったことは間違いのないところでしょう。

ただ、小説やドラマでの高杉晋作の描かれ方が、あまりにも“誇張”と“虚構”に満ちていて、かえって、真の高杉晋作像を歪めてしまう、と、思うんです。
そういう話で彩らなくても、歴史的に評価されるべき人物のはずなんですよね…

吉田松陰の“弟子”でもあり、松陰は早くから彼の才能を認め、久坂玄瑞とともに、たいそうかわいがったようです。
伊藤博文も井上馨も、明治維新後の回顧録などて高杉晋作を高く評価し、その業績をとどめています。
ただ、明治維新のころに、そういう幕末に活躍して、しかも明治には生き残らなかった人々の“顕彰”が進み、ちょっと「講談」や「芝居」でおもしろおかしく、飾られすぎてしまう、ということになってしまいました。

吉田松陰が、処刑された後、小塚原に埋葬されたわけですが、ここは一般犯罪者の埋葬地で、長州藩にとっては、はなはだ不名誉なことでした。
桜田門外の変で井伊直弼が暗殺され、公武合体の空気が広がり、さらには時流が尊王攘夷に傾いて、長州藩と朝廷の「接近」が進むと、「松陰名誉回復」のチャンスがめぐってきます。朝廷からの圧力もあり、幕府は安政の大獄で処罰された者の名誉回復を認め始めました。
そこで、小塚原に埋葬された吉田松陰が「改葬」されることになったのです。

小説やドラマでは、このことを実現するために奔走したのが高杉晋作のように描かれているものがありますが、それはウソで、尽力したのは久坂玄瑞でした。

そしてこの改葬のときに起こったのが

 御成橋事件

です。

吉田松陰の遺骸を小塚原から運び出した後、上野の三枚橋にさしかかったとき、高杉晋作はこう叫んだといいます。

 「真ん中をとおれ!」

三枚橋の中央は、将軍が東照宮参拝のときに通過する橋で、当然、一般人は使用禁止の“御成橋”なのです。
橋役人の制止をふりきり、

「勤王の志士、吉田松陰先生の御遺骸である。勅命にてまかり通る!」

と、渡ってしまう。

お~ カッコいいっ

と、なりそうですが、これは史実ではありません。
明治時代の講談、芝居で上演された、よくできたフィクションなのです。
小説やドラマでも、あたかも事実であるかのように巧みに書かれているものだから、本当の話だと思っている人も多いエピソードですね。

ここから小説やドラマでは、一気にエンジンがかかって、もう「オラオラ晋作伝説」が暴走していきます。

“御成橋事件”におどろいた長州藩の藩主はただちに高杉晋作を長州に呼び戻します。

そしてそのとき、箱根の関所を、駕籠に乗ったまま強行突破! 小説などでは「江戸三百年の中で、白昼堂々、関所を破ったのは晋作だけである」と高く“評価”しているものがありますが、そんな話ももちろんなかったと思います。

で、高杉晋作が京都に入ると、ちょうど「うまいぐあいに」将軍家茂も京都にやってきていた。
天皇が、賀茂神社へ攘夷祈願に出かける、ということで将軍家茂もその行列に同行する。

で、天皇の列が過ぎ、みんなが土下座しているその中で、高杉晋作、おもむろに顔をあげたかと思うと、

 いよぉ~ 征夷大将軍!

と、歌舞伎役者に声をかけるように、大声を張り上げたのであった~

はい、そんな“事件”はおそらくありません。

小説によっては「天皇の行列だから将軍への無礼はとがめられない」と書いているのがありますが、いやいやいやいや、そんなことありまっかいな。
「旗本や御家人たちはくやしくて江戸にそのことを手紙に書いた者が多い」とか、御丁寧な説明も記されている小説がありますが、その「手紙」、あったら是非見せてください。
いや、見たいです。少なくても高杉晋作のこれらの逸話を史実として裏付ける重要な史料になるんですから。

これらの逸話は、みな、高杉晋作(の背後の長州藩)をおそれた江戸幕府の、幕末における無力っぷりを強調するための(明治新政府アゲ、旧幕府サゲの)創作と考えたほうがよいでしょう。

ちなみに、これらの“事件”の前に起こった「イギリス公使館焼き打ち事件」は、尊王攘夷運動の代表例として、

ヒュースケン暗殺事件(薩摩藩士)
東禅寺事件(水戸藩士・松本藩士)
生麦事件(薩摩藩士)

に並ぶもの(伊藤博文・井上馨・高杉晋作ら長州藩士による)として有名ですが…

これ、なんだか、無理矢理、ヒュースケン暗殺や生麦事件に並べられているような感じなんですよね。

そもそもこの事件の犯人は、当時は不明でした。明治維新が成立し、伊藤博文や井上馨が政府の要人となってから、自らの武勇伝として

「あれはおれたちがやったのよ」

と、吹聴し、「幕府は長州藩がやったんだと思っていたけど、長州藩をビビって手が出せなかったのさ」と説明しているものです。

実は、この事件、実は「イギリスの」公使館を焼き打ちしていないんです。
建設中で、まだ、イギリスに引き渡す前の建物。
ですから、イギリスにとっては、痛くも痒くも無い話。

実は、御殿山に公使館を建てようとしたら、けっこう反対が強かったんですよね。おまけに朝廷からも止めるように幕府に申し入れがあった…
で、じゃあ、違うところに建てよう、というわけで、イギリスに「変更していいですか?」と打診すると、「え~ なんでよ。そこに建ててよ。」と、けっこうモメてしまうんです。

弱ったなぁ… どうしよう…

と、思っていたら、「うまいぐあいに」、「何者か」がその建物を放火してくれた。

うわ、ラッキ~

と、なって工事が中止。イギリスも、再度のテロが起こるのも嫌だし、じゃ、もういいか、と、なった事件だったんです。

長州藩をおそれて犯人追及をしなかった、というのではありません。

イギリス側では「話がややこしくなったから、幕府が何者かによって放火させたに違いない」と当時は考えていたようです。

薩摩藩とか、有名な攘夷やってるやんっ
うちもなんかないの??

という感じで「イギリス公使館焼き打ち事件」をクローズアップさせたんちゃうん?? と、いえなくもない事件、というお話です。

何度も申しますが、あやしげなエピソードを必要としないくらい、高杉晋作は、重要な役割を演じている、ということを強調しておきたいと思います。

(このあたりの話は、集英社新書『司馬遼太郎が描かなかった幕末』一坂太郎さんの話が興味深く、たいへんおもしろい視点で記されているので機会があれば是非、お読みください。)