「田沼意次の政治」というと、生徒たちは「わいろ政治」を連想するようです。
中学受験を経験している子たちですから、きっと塾で習ったのでしょう。
ちなみに、田沼意次の政治は小学校の教科書には出てきません。ついでに次の松平定信の「寛政の改革」も小学校の教科書には出てきません。(よってこの二人は中学受験には出題されません。)
中学校の教科書ではどのような表現になっているのか、というと…
・新田や鉱山の開発に努めた。
・株仲間を認めて営業を独占させ、そのかわりに一定の税を納めさせた。
・蝦夷地の開拓に力を入れた。
・長崎の貿易もさかんにしようとした。
で、最後の〆括りが、
「…しかし、一部の大商人と結びつき、わいろが用いられて政治が乱れました。」
ということになっているわけです。
それを受けて、松平定信が「政治をひきしめる」という流れで「寛政の改革」の話へと続けられていきます。
田沼「わいろ政治」
定信「政治のひきしめ」
こういう図式であることはほぼ間違いありません。
さて、江戸時代、「わいろ政治」というのは、どういうものだったのでしょうか…
ものすごいことを言いますと、江戸時代、「わいろ」というのは“罪”ではありませんでした。
というか… 賄賂を賄賂だと宣言して渡す者はいない、ということです。
というか… 「賄賂」は“習慣”でした。
日本は、「贈答文化」の国です。
結婚式や葬式、いろいろな機会に日本人は人に贈り物をします。
「お歳暮」や「お中元」はもちろん、お引越しのご挨拶などなど…
昔は、お稽古事などでも、お師匠さんには、お月謝以外にも「つけとどけ」というものをフツーにしておりました。
「日頃、お世話になっておりますので…」
と、「うまく」説明しておりますが、お礼をしているからお世話をしてもらえる、としたら、にわかに賄賂性がにわかに高くなります。
これ、日本だから“文化”や“慣習”となりますが、厳密に「法」を運用すると、「贈収賄」になりかねませんよね。
たぶん欧米ではアウトです。
田沼意次にかぎらず、当時の政治家たちは、フツーに“贈り物”を受け取っていました。
(そもそも、幕府の役人へ届けられる様々の方面からの“贈り物”を管理する役職もちゃんと存在していて、たとえば“鬼平”で有名な、長谷川平蔵は、火付け盗賊改めになる前は、この仕事をしていましたからね。)
この日本独自の“あいまいさ”の部分に対して、まぁまぁ、べつにかたいこと言わないでええやろ、と、するか、いや、この際、キッチリしようぜ、とするかで、政権の性質が変わるわけです。
そんなのは不正といっしょだ!
しっかりケジメをつけるのだっ
というのが松平定信の政治姿勢でした。
田沼意次は、それまでの政治家に比して、そういう“あいまいさ”の部分におおらかであっただけですが、厳密に法を適用すれば、これをアウトにできる、というワケです。
そもそも「田沼と定信」の政権交代は、“権力闘争”ですから、善も悪もありません。
松平定信は、徳川吉宗の息子、田安宗武の子ですから、世が世なら将軍になっていてもおかしくはない人物。それが、宗武が将軍の位につけず、定信も田安家から他家に養子に出されて将軍の位につくことを遠ざけられたわけで(その“陰謀”を企画したのが田沼意次と言われている)、定信にすれば、「改革」の第一は田沼失脚にあったわけです。
現政権の正統性を、前政権の否定によって担保する、というのはよくあること。
この流れの中で、田沼=腐敗、定信=清新、のイメージが定着してしまいました。
もういいかげんに、田沼=わいろ政治、というステロタイプから子どもたちを解放したいところです。
田沼意次の政治では…
鉱山開発のところでは、かの有名な、平賀源内が活躍しました。
蝦夷地の開発では最上徳内による探検が進みます。北海道ならびに千島がロシア領にならなかったのは、田沼が着手した北方政策によるところが大きいともいえます。
長崎貿易の奨励についても、田沼政権が続けばロシアとの交易を開始していた可能性もありました。
株仲間、というと、ついつい営業独占からインフレをもたらして庶民を困られせた、というマイナス面が強調されがちですが、「価格競争」がなくなったがゆえに、「品質競争」の段階へさまざまな工芸品、日用品の製造、販売を移行させることになり、後の開国にあたって、国際競争力が高い製品を日本に存在させることになった、ともいえるのです。(価格が同じだから、品質で勝負! ということになるんですよね。)
「改革」というならば、田沼時代こそ「改革」が進んだ時代で、松平定信の「寛政の改革」は改革ではなく、ネジを逆に回す保守・反動です。
松平定信の寛政の改革は、「寛政の反動」と名称を変えてもよいくらいです。
歴史の評価は、どの立場にたって考えるかによって大きく変わります。
田沼時代の説明は、なぜだか知らないですけど、多くの人たちが松平定信の側に立って評価していますよね。
白河の
清きに
魚もすみかねて
もとのにごりの
田沼恋しき
というのが、多くの庶民の実感だったと思います。