教科書から消えたもの 正倉院 | こはにわ歴史堂のブログ

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朝日放送コヤブ歴史堂のスピンオフ。こはにわの休日の、楽しい歴史のお話です。ゆっくりじっくり読んでください。

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いやいやいやいや! 正倉院は教科書に載っているでしょ!

はい、そのとーりです。すいません。
問題は、正倉院に関する、いろいろな説明が消えてしまった、ということです。まずは、教科書には書いていないけれど、多くの人が誤解している話をしますと…

 正倉院の宝物は国宝ではない

ということです。
正倉院は、奈良の歴史建造物などがユネスコの世界遺産に登録されたときに、いっしょに世界遺産となり、そのときになってようやく「国宝」となりました。
ところが、中にある正倉院の宝物は、1点たりとも「国宝」ではありません。
宝物は皇室財産で、国宝指定を適用されないのです。もし、「正倉院の宝物は国宝だ」と教えられたとしたら、それは間違いです。

ちなみに金閣も国宝ではありません。上にのっかている鳳凰だけが国宝で、あとは焼失しているので国宝指定を解除されていますから…

さてさて、正倉院は、「校倉造」という独特の構造でつくられています。
木と木を組み合わせて、通気が可能なように「隙間」がつくられている…

校倉造そのものは中学入試・高校入試でもよく問われるのですが、かつては教科書にはこういう説明がありました。

「校倉造は、中の宝物を湿気から守るためのしくみで、乾燥すると木が縮小して隙間が広がって通気がよくなり、湿潤すると木が膨張して隙間がなくなって湿気が入るのを防いでいた…」

昔はこのように書かれていたので、教師や塾の講師はこのように説明しておりました。
でも、2000年に入って、正倉院の建築学的研究がかなり進み、校倉造による木の枠組みは、湿気によって膨張・縮小しない、ということが確認されました。
建築史家の鈴木嘉吉氏、正倉院元事務所長和田軍一氏も否定されていますし、HPの「正倉について」の中でも、別の理由による保存の話がとりあげられています。
(詳しくは拙著『日本人の8割が知らなかったほんとうの日本史』をお読みください。)

正倉院は国宝なのに、正倉院が守る宝物は国宝ではない、という、ややおもしろい状況になっています。

ところで、歴史ファンの中には正倉院の宝物、というと

「蘭奢待」

に、まつわるいろいろな話を思い出す方も多いと思います。

蘭奢待は正倉院の薬物棚にある、世界でも有数の名香(焚くとたいへんよい香りがするお香)といわれているもので、この切り取りには朝廷の許可が必要とされています。
権力者がその権力の証として、これを切り取らせた、という逸話が小説やドラマでよく取り上げられています。

足利義満、足利義教、足利義政、織田信長が切り取らせた、というと、ああ、そうだろうなぁ~ この人たちならやりかねない、と、歴史ファンなら腑に落ちているところでしょう。

ところが、2006年に大阪大学の調査で、「あんがいとたくさん切り取られている」ことが判明しました。
明確にわかるところで38ヶ所。同じところを削いでいる場合もあるので50回以上とられています。
歴史小説では、「蘭奢待」を切り取らせる、というのが傲慢な権力の証であるかのように強調されているため、とくに織田信長の逸話として「信長以外では、蘭奢待を切り取ったのは足利義満と義教で、その傲慢さがよくわかる」みたいに説明されていますが、ちょっと意識的な「改編」のように気がします。

切り取った一人に

土岐頼武

が、います。

はぁ?? だれ、それ?? となりそうですが…

頼武は、美濃の守護大名の土岐政房の長男で、後継者となるはずでしたが、父は弟の土岐頼芸を溺愛し、弟に家督を譲ろうとしてしまいます。

ここで土岐家の相続争いが勃発します。

頼武を支持する派と頼芸を支持する派にわかれて戦うのですが、もうここまでくると戦国時代ファンには、ピンとくると思うのですが…

土岐頼芸は、斎藤道三に追放された人物です。

頼芸をささえた長井新左衛門が斎藤道三の父。

頼武派と頼芸派は、となりの越前の朝倉氏をまきこんで内乱を続けます。この争乱の中で、長井新左衛門が死去し、その子、規秀が頼芸を助けて頼武を追放し、頼芸を美濃の国主にすることに成功しました。

この長井規秀こそ、後の戦国大名「斎藤道三」です。

え?? そんな話なん? 司馬遼太郎の『国盗り物語』とは違うのでは??

はい、そのとおりです。現在ではここまで戦国時代の研究が進んでいて、司馬遼太郎の『国盗り物語』はほぼ架空のストーリーで、いわゆる長井父子、という二人が司馬遼太郎の「斎藤道三」ということになります。

その後、頼武は、朝倉の援助をうけて美濃国に再入国して大桑城に拠点をおきました。
土岐頼芸が、父の法要をおこなうと(後継者である正統性を主張するという意味)、頼武もこれに対抗して法要をおこなうため、朝廷に願い出て「蘭奢待の切り取り」の許可を得ます。

蘭奢待のお香を用いて父の法要をおこなう、というとそれは朝廷が認めたことになるからですね。
このお礼の手紙を朝廷に送っているのが、歴史に残る頼武の最後の記録… その子の頼純は、この後も頼芸と戦い、その中で、長井規秀(斎藤道三)が力を伸ばして、やがて頼芸にとってかわる、ということになります。

蘭奢待の話から、とんだ脱線に発展してしまいました。