教科書から消えたもの 最初の年号「大化」 | こはにわ歴史堂のブログ

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え?? 最初の年号「大化」が消えた???

そんなことないでしょ。だって「大化の改新」という言葉があるし、それは教科書に載っているよ、という方がほとんどだと思います。

誤解のないように申しますが、「大化の改新」はしっかりと記述がされています。これはどの教科書でも変化はありません。

前にも申しましたように、蘇我氏を倒した事件は「乙巳の変」といい、それを大化の改新と言うのは間違いです。これが645年。

「翌年、全国の土地と人民を国のものとして(公地公民)、天皇がそれらを支配するという方針を打ち出しました。この一連の改革を『大化の改新』とよんでいます。」

というのが一般的な教科書(日本文教出版など)の説明です。

昔は、ここに、「最初の年号を『大化』と定めました」と記されていたのですが…

実は、これ以後の記録や、発掘された当時の木簡類からは「大化」という文字が確認されないのです。
すべて「干支」で表記されていて、「実用されていた」可能性がほとんどない、というのが目下のところの通説です。

この点、教科書はすばやく対応していて、

「大化という年号がたてられたとされていますが、木簡には干支年しか見えていません。現在に続く年号(元号)は、大宝年号から始まったと考えられています。」

そうなんです。「大化」が最初の年号ではなく「大宝」という年号が最初である、というように記述が変化しています。

「大宝」は、「大宝律令」が制定された年、西暦701年が元年となります。
どうやら、本格的な律令制度が整えられたときに、年号も定められた、というのが実際のような感じです。

ただ… 難しいところなんですよね…
645年から701年までの間のできごと、というのは、「定められたが使われていない」というものがけっこうあります。

天智天皇がつくったといわれた「近江令」は現在では定められなかった、ということが定説になって教科書から消えました。
同じ時期に、初めてつくられた戸籍「庚午年籍」は、つくられたけれど使用されてはいない、と、考えられています。
この時期につくられて発見もされている「富本銭」も、実際に使用されたかどうか不明…
「天皇」という名称も、丁丑年(677年)の木簡に「天皇」という記述がみられるものの、実際に使用されるのは701年の大宝律令から…

乙巳の変からの約50年は、前時代と次の時代の、まさにグレーゾーン…
そのうち「大化の改新」という言葉すら教科書から消えてしまうかもしれません。
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