ヒゲとゾウと足利義持 | こはにわ歴史堂のブログ

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朝日放送コヤブ歴史堂のスピンオフ。こはにわの休日の、楽しい歴史のお話です。ゆっくりじっくり読んでください。

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第22回は、「こんな将軍もおったのにゃ~」ということで、三人の「将軍」をとりあげました。

二人目は「足利義持」です。


え? だれ、それ??


と、思った人も多かったと思います。


室町幕府の将軍、と、いえば、尊氏・義満・義政・義昭が小学校の教科書ではとりあげられるもので、中学の教科書でも義持を取り上げているものは少ないと思います。


第四代将軍。第三代の義満があまりにインパクトが強く、すっかり影にかくれてしまったような印象ですが、実際、室町幕府の安定期は義持の時代であった、と評する研究者もおられるくらいです。

よく考えると、在任期間28年、というのは、室町幕府の将軍では一番長いんですよね…

もっとこの人の時代を評価してあげてもよいような気がします。


9歳で、父、義満から征夷大将軍の位を譲られ、その後も、父が朝廷に圧力をかけ続けて、どんどん出世させていきます。

16歳になるまでの7年間に、参議、権中納言、権大納言などをかけのぼります。位のアップもすさまじく、9歳で従四位、16歳で従一位… 父が太政大臣をしていなければ、つまり最年少太政大臣になっていた、ということです。


最初は正五位になるところだったのですが…


使者 お子様の官位が決まりました。

義満 ほう。で、何位?

使者 正五位でございます。

義満 え? ごめん、聞こえなかったわ。何位?

使者 あ、あの、正五位で…

義満 うん? ちょ、ごめん、聞こえなかったわ~ 何位?

使者 あ… その… ちょっともどってきまーす。


と、なってなんと詮議のやりなおし。


元服した子が従四位からスタートするのは藤原摂関家以外ありませんでした。

義満は「足利家」を藤原摂関家と同格にした、ということになります。

これはすなわち、足利家の貴族化の第一歩でした。


この後、義満は、義持の異母弟、義嗣を“偏愛”し、義嗣をどんどん出世させて、天皇の皇子と同じ扱いを宮中でさせるようになります。

義持は、父を嫌うようになりますが、義満の“野望”としては、兄の義持は征夷大将軍として武家の世界の統括者とし、弟の義嗣は太政大臣くらいにして貴族の世界の統括者とし、自らはその上に、あたかも天皇のように君臨しようとした、のかも、しれません。


父、義満が急死すると、父親のやってきたことをくつがえすかのような政策を連続させます。

父に贈られる予定の“太上天皇”の称号を辞退し、朝廷との距離をとろうとし、日明貿易も停止した。

能よりも猿楽を好み、父が重用していた世阿弥もしりぞけている…

最初は、父の否定、が、義持の政治そのものとなりました。


さて、義持の肖像画をみるとわかりますが、たいていの人は、「え? もみあげ、すごっ」とツッコミを入れます。

コヤブさんもゲストの方も、肖像が出たとき、「なに、このモミアゲ~」とツッコミが入りました。


実は、このヒゲこそ、義持のスタンスをよくあらわすものなのです。


武将は、戦時はヒゲをはやし、平時はヒゲを剃るのです。

というか、あごヒゲやもみあげを伸ばすことは戦時の武家のたしなみで、貴族はしません。

なんのことかと申しますと、兜をかぶった際、緒を結ぶと、ヒゲがあると締りがよくなり、兜が脱げにくくなるからです。

ですから、ヒゲをそらぬ、伸びほうだいにする、というのまさに戦時のことで


「いつでも戦いますよ」


という武威を示すことになります。朝廷とも距離をおきつつ(朝廷には参内せぬという決意)、いつでも戦うぞ、文句は言わせない、という意志表示です。

公武合体を図った父、義満に対して、義持は公武分離をめざしたのです。


さて、日明貿易を停止した、と、申しましたが、実は貿易の利、そのものを義持は否定していません。

明の「臣下」となることを嫌った(というよりようするに父のやってたことを否定したかった)のが理由で、商人たちの私的な貿易まで禁止などしていません。

実際、若狭国の小浜というところに、外国船が来航したとき(どうやらイスラーム商人らしい)、将軍への献上品を持ってきたのですが、喜んで受け取っています。


その献上品のリストをみると、


クジャク・オウム・インド象


え? ぞ、ぞう?? えらいもん運んできたな~ という感じです。


ゾウを献上された将軍、というと、徳川吉宗を思い出す人がいますが、実は記録上、最初にぞうさんをもらったのは足利義持でした。

いや、これ、実は、詳細な記録が無いのですが、どうもイスラーム商人の乗った南蛮船だったようで、父と対抗する、ということを考えると、


おやじが中国と貿易したんだから、おれはイスラーム商人(ヨーロッパ商人??)と貿易したるっ


くらいの“ねらい”があったかも知れないのです。(むろんこれは珍説です。)


象の来日は1408年で、1411年まで飼育され、朝鮮から大蔵経が贈られた返礼に、この象が朝鮮王にプレゼントされています。


実は、朝鮮に初めてゾウが届けられたのは、これが初めてで、朝鮮でもたいそう珍しがられました。

『李朝太宗実録』というものを読みますと、このときの話が出てきます。

太宗はこの象を気に入り、可愛がったことが記されています。


最初は、宮中で飼っていたようなのですが(マジかっ)、一日、五斗も豆を食うし、見物に来た貴族を踏みつぶした、ということから、別の専用の飼育場を作った、と、記されています。

どうやら、かなり、もてあますことになったようです。


ははぁ~ん… さては、足利義持も、ゾウの扱いに困ってやっかいばらいしたのかも…


大ゾウ経のお礼にゾウを贈ったら、太宗がタイソウ喜んだ、という話です。