「弥四郎国重」なる人物を探る 2
楠板本尊の腰書(又は脇書)にある
「本門戒壇之願主 弥四郎国重 法華講衆等敬白」
との文章中の「弥四郎国重」なる人物を探ります。
⑤66世法主細井日達上人の文書
「其の対告衆弥四郎国重殿を熱原に求めれば、当時の信徒中、弥四郎の名は幾人かあったことは記録によって明らかであるが、最も此の場合、該当せられるのは、神四郎兄弟であって、むしろ神四郎が弥四郎であったと断定するのが至当である」(細井日達著「悪書『板本尊偽作論』を粉砕す」19頁)
※何の証拠も示されないで、日達上人は「弥四郎国重」は、熱原の法難の所謂『三烈士』(神四郎・弥五郎・弥六郎という熱原農民の三兄弟)の一人、神四郎であると言い出されたのです。
⑥大石寺編 1981年発行の「日蓮大聖人正伝」の文書
「御本尊の願主は熱原の人々を代表とする法華講衆を、大聖人の境界中の己心の弥四郎国重として表わされた。すなわち、高位・高貴の人々ではなく、死身弘法の信仰を貫いた熱原の農民を願主として、一閻浮提総与の大御本尊の図顕されたところにも、大聖人の仏法の本質をうかがい知ることができよう。」(「日蓮大聖人正伝 第17章大御本尊建立」388頁 大石寺編 1981年発行)
※大聖人己心の弥四郎国重は、死身弘法の信仰を貫いた熱原の農民だとしています。
⑦境持院日通筆「日蓮門下系図」なる画像より
出典元は冨士教学研究会談議所なる掲示板(投稿者:独学徒 投稿日:2007/02/04 )です。
画像Aは、境持院日通筆「日蓮門下系図」(興風叢書8)より、『弥四郎国重』に関する記述だそうです。
妙常日妙の項の記述を拝見しますと、
妙常日妙一一富木五郎常忍ノ後妻ナリ駿河国勢原弥四郎国重ノ娘ナリ初ハ南條伊豫守橘時定(定時の間違いか)ニ嫁□(キ)日頂上人ヲ産ム。定時早逝シ富木常忍ニ再縁シ日證(日澄)ト乙御前ヲ産ム。宗祖ノ滅後ニ終リ南條ノ領所富士ノ上野ニ住ス。後ニ旧舎寺トシ北山本門寺ト云。
と読めます。
つまり、日頂の母で富木常忍の後妻である、妙常日妙は、勢原(熱原ではない)弥四郎国重の娘であるとの記載である。
画像Bは、六老僧日頂に関する部分で、勢原弥四郎国重に関する記述があります。
日頂の項を拝見しますと、
日頂(伊豫阿闍梨)一一俗姓ハ橘氏■(父ハ)伊豫守時定母ハ勢原弥四郎国重の娘妙常日妙是ナリ時定早世シタ後富木五郎常忍ノ再縁シテ日證(日澄)ト乙御前妙一ヲ産ス後□離別ス乙御前ハ南条七郎五郎ノ妻ニナル七郎五郎早世シテ妙一尼トナル(以下略)
と読め、筆者の日通は、日頂の母・富木常忍の後妻、妙常日妙が、弥四郎国重の娘であるとの考えに定着しています。
◎伊予阿闍梨日頂上人(1252-1317年)は、富士郡重須に生まれ、父の死去によって母に従い鎌倉に住し、母が富木胤継(後の日常)に再婚した縁で養子となる。文永4年(1267年)、大聖人による得度で日頂と名付けられ、弘安2年11月25日に大聖人の計らいで、熱原法難で富士方面に居られなくなった日秀・日弁と一緒に、下総の富木日常の許に避難した。大聖人滅後、墓所輪番に参加せず日常から勘当され正応4年3月天台法華宗沙門と名乗ったが、正安4年3月、真間弘法寺(現、日蓮宗)を日揚に付して重須で日興上人に帰依した。翌乾元2年3月重須に正林寺を創建し、徳治2年6月日興上人に代わり鎌倉の了性房日乗に書を報じて法難を激励し、文保元年3月重須で66歳寂滅す(逝去年には異論あり)。
富木五郎常忍(日常、1216-1299)は永仁7年(1299年)3月84歳で没しています。
※楠板本尊が建立されたとする弘安2年(1279年)10月時、富木常忍は63歳、日頂上人は27歳であり、富木常忍の義父、日頂上人の祖父、勢原弥四郎国重は、おそらく80歳を超えている事でしょう。
◎ウキペディア「日進 (身延3世)」より、「境持院日通」の解説部分を記載しますと、
境持院日通は、日蓮の本弟子で六老僧の筆頭・日昭が開山した静岡県三島市の経王山妙法華寺(玉沢妙法華寺とも称す)の33世である。元禄15年(1702年)下総郡香取郡に生まれ、安永5年(1776年)に没した。日通は日蓮及び門下檀越の史伝に通じ、その著書は幅広い引用から詳細な考証を行ったものとされる。しかし一方で従来の所伝と異なる部分もある事から批判もあり、典拠の資料に乏しい箇所がみられるとの指摘もある。
※境持院日通の青年期を1730年とすれば、徳川幕府後期で、弘安2(1279)年の約450年後となります。
結局、「日蓮門下系図」(興風叢書8)により、弥四郎国重は実在の人物である、と確認できたのですが、御書に一切登場せず、系図から官職名も明らかでない高齢の人物(既に死去しているかも知れない)が、本門戒壇の願主として、永く名を残す事に無理があると、私は推考します。
画像A.及び画像B.は、次記事にあります。