師匠と我らとの関係 13(総勘文抄)

 

総勘文抄における弟子との関係 

 

 

「総勘文抄」の正式な題号は、「三世諸仏総勘文教相廃立」と云い、宗門で戒壇本尊とされる楠板本尊が建立された弘安2年10月の著作とされていますが、詳細は不明です。本来の勘文は朝廷に上申する意見書を言いますが、「三世諸仏総勘文」は、「三世のあらゆる仏の総意で決めた文言」との意味です。「教相」は釈尊の説法の立て分けを言い、方便の権教と実教の法華経があり「廃立」は権教を廃し、法華経を立てることを指します。今回は師匠からの御指導というより、深遠な日蓮仏法の初歩的解説といったところでしょうか。

 

 

「一代聖教とは、総じて五十年の説教なり。これを一切経とは言うなり。これを分かちて二つとなす。一には化他。二には自行なり。」(総勘文抄 新705頁・全558頁)

現代語訳:(釈尊の)一代聖教とは、五十年の間に説いた教え全体です。これを一切経と言うのです。この一切経を二つに分けます。一には化他(他を化するとの意で、利他と同意)の経であり、二には自行(自己の為に行じるとの意)の経です。 

※補足:化他と自行は、修行と法体の二義に約されます。修行に約す場合は、化他とは他人に法の利益を受けさせる為の教化・化導を言い、自分自身が法の利益を受ける為に修行することを自行と言います。法体に約す場合は、「化他」とは九界の衆生の機根に応じて説いた随他意の教えを言い、「自行」とは仏が自らの境地をそのまま説いた随自意の教えを言います。本抄の釈尊の一代聖教に当てた場合、「化他の法門」とは法華経以前の随他意の爾前権経を指し、「自行の法門」とは随自意の法華経を指します。

 

 

「一に化他の経とは、法華経より前の四十二年の間説き給える諸の経教なり。これをば権教と云い、または方便と名づく。これは四教の中には、三蔵教・通教・別教の三教なり。五時の中には、華厳・阿含・方等・般若なり。法華より前の四時の経教なり。また、十界の中には、前の九法界なり。」(総勘文抄 新705頁・全558頁)

現代語訳:一には化他の経とは、(釈尊の一代五十年の説法の中で最後八年の自行の法である)法華経より以前の四十二年の間に説かれた諸々の経教の事です。これを(法華経の実教に対して)権教といい、または(法華経の真実に対し)方便と名づけるのです。これは化法の四教の立て分けで言えば、三蔵教・通教・別教の三教であり、五時の立て分けでは華厳時・阿含時・方等時・般若時という、法華経より以前の四時の経教です。また十界の中では、仏界に対して、それ以前の九法界に該当します。

※自行の経について本抄で後述されていますが、化他の経と自行の経の立て分けは、この御文の方が詳しいです。天台所立の四教の立て分けでいえば、蔵(経[定]・律[戒]・論[慧]の三蔵教で六道内の因果を明かし戒が中心)・通(蔵教にも別教にも通じるとの意)・別(蔵通二教とも後の円教とも別との意)の三教が「化他の経」であり、円教(円融円満の意)が「自行の法」です。五時の立て分けの中では、華厳時・阿含時・方等時・般若時の経教が「化他の経」となり、法華涅槃時の経が「自行の法」となるのです。厳密に法華涅槃時の涅槃時に関していえば、涅槃経の中の〝円教〟の部分に限って自行に組み込まれていると考えられます。また、法華経二十八品が自行の法となることは当然として、開経の無量義経、結経の普賢経も「自行の法」の中に含められていると拝察すべきでしょう。

 

 

「一代の教主・釈迦如来、一切経を説き勘文し給いて言わく『三世の諸仏、同様に一つ語一つ心に勘文し給える説法の儀式なれば、我もかくのごとく、一言も違わざる説教の次第なり』云々。方便品に云わく『三世の諸仏の説法の儀式のごとく、我も今またかくのごとく無分別の法を説く」』已上。『無分別の法』とは一乗の妙法なり。善悪を簡ぶことなく、草木・樹林・山河・大地にも一微塵の中にも、互いに各十法界の法を具足す。我が心の妙法蓮華経の一乗は、十方の浄土に周遍して闕くることなし。十方の浄土の依報・正報の功徳荘厳は、我が心の中に有って片時も離るることなき三身即一の本覚の如来にて、この外には法無し。この一法ばかり十方の浄土に有って、余法有ることなし。故に「無分別の法」と云うはこれなり。」(総勘文抄 新709-10頁・全561頁)

現代語訳:一代聖教の教主である釈迦如来は、一切経を説き、それを勘文して、「三世の諸仏が同様に、一つの言葉と一つの心で考えられた説法の儀式ですので、我もこの様に三世の諸仏と一言も違わない説教の順序を踏んだのです」と述べています。方便品には「三世の諸仏の説法の儀式の如く、我も今亦是くの如く無分別の法を説くのです」とあります。無分別の法(心で推量思惟できない、善悪・三乗等に差別しない、普遍的な法、つまり諸法実相の妙理のこと)とは一乗の妙法です。善悪を分別することなく、草木にも、樹林にも、山河にも、大地にも、一微塵の中にも、それぞれが十法界の法を具足しています。我が心中の妙法蓮華経の一仏乗の法は十方の浄土にあまねく行き渡って、及ばない場所は無いのです。また十方の浄土の依報と正報との功徳にあふれた荘厳な姿は、我が心の中に収まって瞬時も離れることが無いのです。我が身は、そういう三身即一の本覚の如来であって、この他には、仏の法はないのです。この一法だけが十方の浄土にあって、他の法はない。これを無分別の法というのです。

※日蓮仏法は「我が身が三身即一の本覚の如来である」と説く無分別の法なのです。

 

 

「二に自行の法とは、これ法華経八箇年の説なり。この経は寤の本心を説きたもう。ただ、衆生の思い習わせる夢の中の心地なるが故に、夢の中の言語を借りて寤の本心を訓うるなり。故に、語は夢の中の言語なれども、意は寤の本心を訓う。法華経の文と釈との意かくのごとし。これを明らめ知らずんば、経の文と釈の文とに必ず迷うべきなり。ただし、この化他の夢の中の法門も寤の本心に備われる徳用の法門なれば、夢の中の教えを取って寤の心に摂むるが故に、四十二年の夢の中の化他・方便の法門も妙法蓮華経の寤の心に摂まって、心の外には法無し。これを法華経の開会とは云うなり。譬えば衆流を大海に納むるがごときなり。仏の心法妙と衆生の心法妙と、この二妙を取って己心に摂むるが故に、心の外に法無きなり。己心と心性と心体との三つは、己身の本覚の三身如来なり。」(総勘文抄 新710頁・全561頁)

現代語訳:第二の自行の法とは、(釈尊の一代五十年の説法中で最後の)八年間の法華経の説の事です。この経は仏の寤の本心を説かれたのです。ただ衆生が夢の中の心地に思い慣れているので、その夢の中の言語を借りて寤の本心を教えたのです。従って、言葉は夢の中の言語であるけれども、意は寤の本心を説き教えているのです。法華経の文とその釈の本意はこういう事です。この事を明らかに知っていかなければ経の文と釈の文とに必ず迷うのです。ただし、この化他のために説いた夢の中の法門も寤の仏の本心に備わった徳用の法門であり、その夢の中の教えをとって寤の本心に収めるのですから、四十二年の夢の中の化他方便の法門も妙法蓮華経の寤の心に収まって、妙法蓮華経の心の外には法はないのです。これを法華経の開会というのです。たとえば衆流を大海に納める様なものです。仏の心法妙と衆生の心法妙と、この二妙を取って、ともに己心の中に摂めるているので、心の外には法はないのです。己心と心性と心体との三つは、己身の本覚の三身如来なのです。

※自行の法を持つ己身の本覚の三身如来とは、誰の事なのか。

 

 

「極楽とは、十方法界の正報の有情と十方法界の依報の国土と和合して一体なり。三身即一・四土不二の法身の一仏なり。十界を身となすは法身なり。十界を心となすは報身なり。十界を形となすは応身なり。十界の外に仏無く仏の外に十界無くして、依正不二なり、身土不二なり。一仏の身体なるをもって寂光土と云う。この故に無相の極理とは云うなり。生滅無常の相を離れたるが故に無相と云うなり。「法性の淵底、玄宗の極地」なり。故に極理と云う。この無相の極理なる寂光の極楽は、一切有情の心性の中に有って清浄・無漏なり。これを名づけて『妙法の心蓮台』とは云うなり。この故に、『心の外に別の法無し』と云う。これを『一切法は皆これ仏法なりと通達し解了す』とは云うなり。」(総勘文抄 新712頁・全563頁)

現代語訳:極楽とは、十方法界の正報の有情と十方法界の依報の国土とが和合した一体をいうのです。三身即一身の境界を指し、四土(四種の国土、①凡聖同居土・②方便有余土・③実報無障礙土・④常寂光土のこと)は不二であって法身の一仏の身に納まるのです。十界を身とするのが法身であり、十界を心とするのが報身であり、十界を形とするのが応身です。十界の外に仏は無く、仏の外に十界は無いのであって、依正は不二であり身土(身:活動の主体である衆生の身体、土:衆生がすんでいる国土)も不二なのです。十方法界が一仏の身体であるから寂光土というのです。だから、無相の極理というのです。生滅無常の相を離れているので無相というのです。「法性の淵底・玄宗の極地」であるゆえに極理というのです。この無相の極理である寂光の極楽は、一切有情の心性の中にあって清浄で煩悩を離れた境界です。これを名づけて「妙法の心蓮台(衆生の心は本来清浄であることを蓮台に譬えた、仏性のこと)」というのです。だから、心の外に別の法はないというのであり、これを知るのを「一切法は全てこれ仏法であると通達し解了する」というのです。

※西方十万億土の阿弥陀仏が常住しているという極楽浄土は方便であり、架空であり、現実には天国と同様、存在しないのです。真の極楽浄土は、他の御書にも

「浄土といい穢土というも、土に二つの隔てなし、ただ我らが心の善悪によると見えたり。」(一生成仏抄 新317頁・全384頁)

「浄土というも、地獄というも、外には候わず。ただ我らがむねの間にあり。これをさとるを仏という。これにまようを凡夫と云う。これをさとるは法華経なり。」(上野殿後家尼御返事 新1832-3頁・全1504頁)とあります。

この御文での極楽浄土は、“正報の有情(衆生)と依報の国土(娑婆世界)が和合して一体となる”とあり、各家庭の御本尊に向かって唱題する私達学会員の姿であり場所ではないでしょうか。

 

 

「善に背くを悪と云い、悪に背くを善と云う。故に、心の外に善無く悪無し。この善と悪とを離るるを無記と云うなり。善・悪・無記、この外には心無く、心の外には法無きなり。故に、善悪も、浄穢も、凡夫・聖人も、天地も、大小も、東西南北・四維・上下も、言語の道断え、心行の所滅す。心に分別して思い言い顕す言語なれば、心の外には分別も無分別も無し。言と云うは、心の思いを響かして声を顕すを云うなり。凡夫は我が心に迷って、知らず覚らざるなり。仏はこれを悟り顕して神通と名づくるなり。」(総勘文抄 新713頁・全563頁)

現代語訳:善に背くのを悪といい、悪に背くのを善と言います。だから心の外に善はなく、悪もないのです。この善と悪とを離れるのを無記というのです。善と悪と無記と、この外には心はなく、心の外には法はないのです。故に、善悪も浄穢(清い浄土と汚い穢土)も凡夫と聖人も天地も大小も東西も南北も四維も上下も、全て言語の道は断え、心行も所滅するのです。心で分別した思いを言い表すのが言語ですから、心の外には分別も無分別もない。言葉というのは心の思いを響かせて声に表したものをいうのです。凡夫は自身の心に迷ってそれを知らず悟らないのです。仏はこの心の働きを悟りあらわして、神通と名づけたのです。

※心の働きに迷えば凡夫、悟れば聖人・仏であり、悟りに顕した時、神通と呼ばれるのですね。

 

 

「一代聖教とは、この事を説きたるなり。これを八万四千の法蔵とは云うなり。これ皆ことごとく一人の身中の法門にてあるなり。しかれば、八万四千の法蔵は我が身一人の日記文書なり。この八万法蔵を我が心中に孕み持ち、懐き持ちたり。我が身中の心をもって、仏と法と浄土とを我が身より外に思い願い求むるを迷いとは云うなり。この心が、善悪の縁に値って善悪の法をば造り出だせるなり。(中略)心の不思議をもって経論の詮要となすなり。この心を悟り知るを名づけて如来と云う。これを悟り知って後は、十界は我が身なり、我が心なり、我が形なり。本覚の如来は我が身心なるが故なり。これを知らざる時を名づけて無明となす。無明は『明らかなることなし』と読むなり。我が心の有り様を明らかに覚らざるなり。これを悟り知る時を名づけて法性と云う。故に、無明と法性とは一心の異名なり。名言は二つなりといえども、心はただ一つ心なり。これに由って、無明をば断ずべからざるなり。夢の心の無明なるを断ぜば、寤の心を失うべきが故なり。総じて円教の意は一毫の惑をも断ぜず。故に、『一切法は皆これ仏法なり』と云うなり。」(総勘文抄 新713-4頁・全563-4頁)

現代語訳:一代聖教とはこの事(仏の心の一法)を説いているのです。これを八万四千の法蔵と言うのです。これは全てにわたり釈尊一人の身中の法門なのです。従って八万四千の法蔵は我が身一人の日記の文書なのです。この八万法蔵を我が心の中に孕み、懐き持っているのです。(それなのに)我が身中の心で、仏と法と浄土とを我が身より外にあると思い、外に願い求めていくのを迷いというのです。この心が善悪の縁に値って、善悪の法を作り出しているのです。(中略)この心の不思議を説き明かすことを経論の肝要としているのです。この心を悟り知った人を名づけて如来というのです。これを悟り知ってみると、十界は我が身であり我が心であり我が形なのです。それは本覚の如来は我が身心であるからです。これを知らない時を名づけて無明とするのです。無明とは「明らかなること無し」と読むのです。我が心のありさまを明らかに覚らないからです。これを悟り知る時を名づけて法性という。故に無明と法性とは一心の異名です。名と言とは二つであるけれども心はただ一つの心なのです。だから無明を断じてはならないのです。無明である夢の心を断じてしまえば寤の心をも失ってしまうからです。全体として円教の意は一毫の惑(わずかな煩悩)をも断じないのです。だから「一切の法は皆これ仏法である」というのです。

※補足:己身本覚の三身如来とは、「己心」が現実にあらわれている自分の心で「如是相・応身如来」に当り、「心性」がその自分の生命の性分で「如是性・報身如来」に当り、「心体」が自分の生命の体で「如是体・法身如来」に当ると拝されます。

 

 

「この十法界は一人の心より出でて、八万四千の法門と成るなり。一人を手本として一切衆生平等なること、かくのごとし。三世の諸仏の総勘文にして、御判たしかに印したる正本の文書なり。」(総勘文抄 新714頁・全564頁)

現代語訳:この十法界は一人の心から生み出されて八万四千の法門となったのです。(この様にこの法門は、)一人を手本として一切衆生に平等にあてはまるのです。これは三世の諸仏の総勘文であって御判をたしかに押した正本の文書なのです。

※仏法の法則は、生命の変革を成し遂げた一人が手本となって万人に通じると仰せなのです。

 

 

「我らは迷いの凡夫なりといえども、一分の心も有り解も有り、善悪を分別し、折節を思い知る。しかるに、宿縁に催されて、生を仏法流布の国土に受けたり。善知識の縁に値いなば因果を分別して成仏すべき身をもって、善知識に値うといえども、なお草木にも劣って、身中の三因仏性を顕さずして黙止せる謂れあるべきや。この度必ず必ず生死の夢を覚まし、本覚の寤に還って生死の紲を切るべし。今より已後は、夢の中の法門を心に懸くべからざるなり。三世の諸仏と一心と和合して妙法蓮華経を修行し、障り無く開悟すべし。自行と化他との二教の差別は鏡に懸けて陰り無し。三世の諸仏の勘文かくのごとし。」(総勘文抄 新729頁・全574-5頁)

現代語訳:私達は迷いの凡夫であるとはいっても、一分の心もあり、理解する力もあり、善悪をも分別し、時節を考え知ることもできます。ところが、宿縁に促されて、生を仏法流布の国土に受けたのです。善知識の縁に値えば、因果を分別して成仏できる身なのに、善知識に値っても、草木にも劣って、身中の三因仏性をあらわさずにそのままにしてしまう理由があるでしょうか。このたび、必ず必ず、生死の夢を覚まして本覚の寤に還って生死の紲を切るべきです。今から以後は、夢の中の法門を心にかけてはいけません。三世の諸仏と我が一心が、和合して妙法蓮華経を修行し、障りなく開悟すべきなのです。自行と化他との二教の差別は、鏡に懸けて曇りはないのです。三世の諸仏の勘文はこの通りです。

※本抄の総勘文とは、三世の諸仏が一同に勘え究めた究極の教法を説いた文です。日蓮大聖人は、化他方便の権教を廃し、自行真実の法を説いた法華経を立てる事が三世諸仏の判断であるとされています。

 

 

◎三世諸仏の説法の儀式として、化他方便の権教を廃し、自行真実の万人成仏の法華経を立て、後世の仏法流布の国土に生まれた私達に世界広宣流布を託されたのですね。