「楠板本尊」建立当時の状況


「去文永十一年六月十七日に・この山のなかに・きをうちきりて・かりそめにあじちをつくりて候いしが・やうやく四年がほど・はしらくちかきかべをち候へど も・なをす事なくて・よるひを・とぼさねども月のひかりにて聖教をよみまいらせ・われと御経をまきまいらせ候はねども・風をのづから・ふきかへし・まいら せ候いしが、今年は十二のはしら四方にかふべをなげ・四方のかべは・一そにたうれぬ、うだいたもちがたければ・月はすめ雨はとどまれと・はげみ候いつるほ どに・人ぶなくして・がくしやうどもをせめ・食なくして・ゆきをもちて命をたすけて候ところに・さきに・うへのどのよりいも二駄これ一だは・たまにもすぎ。」(庵室修復書1542頁)建治3 56歳御作 楠板本尊建立24ヶ月前
通解:去る文永11617日に、この身延の山の中に、木を伐って、かりそめの庵室を造りました。四年程度経つ間に次第に、柱は朽ち、垣や壁は倒れ落ちましたが、修復もしないから、夜は火を灯けなくても、月の光で聖教が読めて、自分で御経を巻かなくとも、風が自然と吹き返してくれました。ところが、 今年は12本の柱が四方に傾き、四方の壁は一度に倒れてしまいました。こうなっては、凡夫の身は保ち難いので、月は澄め、雨は止まれと祈りながら、人夫がいないから弟子達を督励し、励んでいたが、食物がなくなって雪をもって命を支えてきたところに前には上野殿から芋を二駄、今また一駄をお送りいただき、珠よりもありがたく思っています。

※一時しのぎの修復もできない状況下で、その2年後に豪華絢爛な金泥文字漆塗り楠板曼荼羅を大聖人自らが建立されるでしょうか。


「この月の十一日たつの時より十四日まで大雪ふりて候しに両三日へだてて・すこし雨ふりてゆき(雪)かたくなる事金剛のごとし・いまにきゆる事なし、ひるも・ よるも・さむくつめたく候事法にすぎて候、さけはこをりて石のごとく、あぶらは金ににたり、なべかまは小し水あればこおりてわれ・かんいよいよかさなり候へば、きものうすく食ともしくして・さしいづるものも・なし。
坊ははんさく(半作)にてかぜゆきたまらず・しきものはなし、木は・さしいづるものも・なければ・火もたかず、ふるきあかづきなんどして候こそで一なんど・きたる ものは其身のいろ紅蓮大紅蓮のごとし、こへははは大ばば地獄にことならず、手足かんじてきれさけ人死ぬことか ぎりなし、俗のひげをみればやうらくをかけたり、僧のはなをみればすずをつらぬきかけて候、かかるふしぎ候はず候に去年の十二月の卅日より・はらのけの候 しが春夏やむことなし、あきすぎて十月のころ大事になりて候しが・すこして平愈つかまつりて候へども・ややも・すればをこり候に、兄弟二人のふたつの小 袖・わた四十両をきて候が、なつのかたびらのやうにかろく候ぞ・まして・わたうすく・ただぬのものばかりのもの・をもひやらせ給へ、此の二のこそでなくば 今年はこごへしに候なん。(兵衛志殿 御返事1098-9頁 弘安元年1129日 57歳御作、楠板本尊建立11ヶ月前)
通解:この月の11日の辰の時から降り出した雪が大雪となり14日まで振り続き、その後23日少し雨が降ると雪が固くなりまるで金剛の様ですが、今もって消えません。 昼も夜も寒く冷たい事は並外れています。酒は凍って石の様であり、油は凍って金に似ています。 鍋・釜に少し水が入っていると、それが 凍って割れてしまいます。 寒さはますます激しくなってきて、衣服は薄く、食物も乏しいので外に出る者もありません。
 庵室(又は御堂)はまだ半分作りかけの状態で、風雪を防ぐこともできず、敷物もありません。 木を取りに表に出る者もいないから、火も焚けません。古い垢のついた小袖一枚くらい着た者は、その肌の色が、厳寒のために紅蓮(ぐれん)・大紅蓮のようです。その声は阿波波(あはは)地獄、阿婆婆(あばば)地獄から発する異様な声そのままです。手や足は凍えて切れ裂け、人が死ぬことが絶えません。在家の人の鬚を見ると凍って瓔珞(ようらく、意味:仏堂・仏壇の装飾具)をかけた様であり、また、僧の鼻を見ますと鈴を貫きかけた様になっております。
この様に不思議なことはかつて無かった事です。その上さらに自分(日蓮大聖人)は去年の十二月三十日から下痢をしていましたが、今年の春・夏になっても治りません。秋を過ぎて十月の頃、重くなり、その後、少し治りましたが、ややもすればまた起こることがあります。そんな時に、あなた方 兄弟お二人から送られた二つの小袖は、綿が四十両も入っているのに、夏の帷子(かたびら)の様に軽いのです。まして、今までは綿の薄いただ布ばかりの様な衣服でした。どれほどつらかったか推量してみて下さい。この二つの小袖が無かったならば、今年、自分(大聖人)は凍え死んだ事でしょう。

※体調を崩され身動きもとれない大聖人が、小氷期の身延山中で、「楠板本尊」の材料調達が可能だったのでしょうか。


「五尺のゆき(雪)ふりて本よりも・かよわぬ山道ふさがり・といくる人もなし、衣もうすくて・かんふせぎがたし・食たへて命すでに・をはりなんとす、かか るきざみに・いのちさまたげの御とぶらひ・かつはよろこび・かつはなけかし、一度にをもひ切つて・うへしなんと・あんじ切つて候いつるに・わづかの・とも しびに・あぶらを入そへられたるがごとし、あわれあわれたうとく・めでたき御心かな、釈迦仏・法華経定めて御計らい給はんか」(上野殿御返事1562頁  弘安21227日 楠板本尊図顕の2ヶ月後)
【通解】(冬には)五尺(約1.5㍍)も雪が降り積もり、元々人も通わない山道が塞がり、訪ねて来る人もいません。 衣服も薄くて寒さを防ぐ事もできません。食物も絶えて命も既に尽きようとしている時に、生命(死)を妨げるご訪問で、喜んだり歎かわしく思ったりもします。(食べる物も着る物もなく)いっそ、一度に思い切って飢え死にしようと覚悟を決めていた時に、(白米をお送り頂いた事は)消えかけた灯に油を注がれた様なものです。なんと尊く有難い御志でありましょうか。 釈迦仏の法華経で決められた御計らいだったのでしょうか。

※大聖人が着物食物にも難渋している時に、豪華な「楠板本尊」を図顕される気持ちになられたでしょうか。


「坊は十間四面に、またひさし(庇)さしてつくりあげ・二十四日に大師講並びに延年心のごとくつかまりて・二十四日の戌亥の時御所にすゑ(集会)して・三十余人をもって一日経書きまいらせ・並びに申酉の刻に御供養すこしも事ゆへなし、坊は地ひき山づくりし候いしに山に二十四日・一日もかた時も雨ふる事なし、十一月ついたちの日せうばう(小坊)つくり、馬やつくる・八日は大坊のはしら(柱)だて九日十日ふ(葺)き候ひ了んぬ、しかるに七日は大雨・八日九日十日はくもりて・しかもあたたかなる事・春の終わりのごとし、十一日より十四日までは大雨ふり大雪下りて今に里にきへず、山は一丈二丈雪こほりてかたき事かねのごとし。二十三日四日は又そら晴れてさむ(寒)からず人のまいる事洛中かまくら(鎌倉)のまち()の申酉の時のごとし」(地引御書1375頁)弘安41160歳御作 与南部六郎(楠板本尊建立11か月後)
通解:坊は十間四面の広さで、孫庇をさしだして造りあげ、二十四日は天台大師の命日にあたり、大師講と延年の舞を心ゆくまで行い、同二十四日の午後九時頃に、御本尊の御前に集まって、三十余人の人々によって法華経の一日写経を修行し、それより以前の午後五時頃には坊落成の供養をわずかの事故もなく終えました。
 坊は、石や木をとり除いて、山を平らにつくることから始まったが、その地ならしの間、山は二十四日間、一日も片時も、雨が降ることなく好天気でした。十一月一日には、小坊を造り、馬屋を造り、八日には、大坊の柱を立て、九日・十日の両日には屋根を葺き終えました。ところが、その間、七日は大雨、八日・九日・十日は曇って、しかもその暖かなことは、春の終わりの様でした。十一日から十四日までは大雨が降り大雪となって、そのとき降った雪は未だに里でも消えていません。山では一丈も二丈も積った雪が凍って堅いことは金(かね)の様です。二十三日、二十四日は、また空は晴れて寒くなく、その為か、参詣者が多くその賑わいはまるで京都の市内や鎌倉の町の午後五時頃の様でした。

※やっと大坊が完成しましたが、それまで「楠板本尊」は何処に格納されていたのでしょうか。誰にも知られずに格納できる場所など無かった筈です。


「畏み申し候、みちのほどべち事候はで・いけがみまでつきて候、みちの間・山と申しかわと申しそこばく大事にて候いけるを・きうだちにす護せられまいらせ候いて難もなくこれまで・つきて候事をそれ入り候ながら悦び存じ候、さては・やがてかへりまいり候はんずる道にて候へども所らうのみにて候へば不ぢやうなる事も候はんずらん。
 さりながらも日本国にそこばくもてあつかうて候みを九年まで御きえ候いぬる御心ざし申すばかりなく候へばいづくにて死に候ともはかをばみのぶさわにせさせ候べく候。
 又くりかげの御馬はあまりをもしろくをぼへ候程に・いつまでもうしなふまじく候、ひたちのゆへひかせ候はんと思い候がもし人にもぞ・とられ候はん、又そのほかいたはしく・をぼへばゆよりかへり候はんほど・かづさのもばら殿のもとに・あづけをきたてまつるべく候に・しらぬとねりをつけて候てはをぼつかなくをぼへ候、まかりかへり候はんまで此のとねりをつけをき候はんとぞんじ候、そのやうを御ぞんぢのために申し候、恐恐謹言」(波木井殿御報 1376頁)弘安五年91961歳御作
通解:謹んで申しあげます。身延からの道中は、何事もなく、池上まで着くことができました。途中の山といい河といい、たいへん難儀な道のりでありましたが、御子息たちに守られて、事故なく、ここまで着けたことを、感謝するとともに喜んでおります。やがて帰る時には通らねばならない道でありますが、病気の身であることゆえ、もしものことがあるかも知れません。
 しかしながら、日本国中では居るところもなくて少なからずもて余している身を、身延の地で九年間にわたって帰依されたその志に対しては、言葉では言い尽くせないほど、ありがたく思っております。それだけにどこで死んだとしても墓は身延の沢に造らせたいと思っております。
 またあなたから付けていただいた栗鹿毛の馬は、非常に良い馬なので、いつまでも離したくありません。常陸の湯まで引いて行きたいと思ったものの、もしかしたら他の人に盗られるようなことがあるかもしれない、またその他、大変であろうとも思われたので常陸の湯から帰ってくるまで、上総の藻原殿の処にお預けすることにしました。しかし扱いなれない舎人をつけたのでは少々心配なので、常陸の湯から帰って来るまでは、いままでのこの舎人をつけておこうと思っています。この由を知っておいていただく為に申し上げました。恐恐謹言。

※もし、この時点で大切な「楠板本尊」が図顕されていたのであれば、留守居の波木井殿に不敬・盗みが無いようにお願いするでしょう。

結局、大聖人が御在世当時、「楠板本尊」は図顕されていなかったのです。

 

 

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 創価学会へ
にほんブログ村