一、数々の超古代文明の痕跡

 

 日本の旧石器時代のものとされる「カタカムナ文書」では、超高度な文明が超古代の日本にあったことが、昭和二十五年頃、物理学者の楢崎皐月(ならざきこうげつ)によって明らかにされています(詳細は「世界文明の起源だったカタカムナ玄学」👇

 

 

を参照されたし)。

 

 この「カタカムナ文明」ともいうべき高度な文明が超古代の日本にあった傍証として、まず、創建一万五千年の熊本県・日の宮幣立神宮の御神体「日文石板」は極めて珍しい金属と岩石が融合した材質でできており、炭素放射線十四年代測定法によると二〜三十万年前のものとされていますが、そこには「豊国文字」で「ひふみよいむなやこともちろら、ねしきるゆいつわぬそを、はたくめかうおえに、さりへてのますあせゑほけれ」と記されています。

 

 この意味は「大量の糸の原料となる真麻欄(まおらん)を採取し、それから取った縷(細い糸)を紡ぎ、衣料を整え、強い兵士を大量に育成せよ。そうすれば交戦してくる悪い部族の敵は彼方に退散する。神様がくださった広大な田畑を心してしっかり耕作せよ」となるとされています。

 

 

 さらに、全国約八百カ所からは「阿比留草文字」「出雲文字」「秀真文字」「守恒文字」「神山文字」「アイヌ文字」等約五十四種類のペトログラフ(岩絵文字)が発見されています。注目に値するのは、海外で見つかったペトログラフが絵画中心なのに対し、日本のものは文字が中心である点で、このことは超古代の日本に高度な文明があったことの証です。

 

 一方、これらペトログラフからは"ムー文明"の記憶が見られます。まず下関市彦島や角島、北九州にある沖の島、出雲の日ノ御碕沖等に、与那国島海底遺跡と類似する神殿跡やペトログラフがあることから、西日本を中心にムーの生き残りの「メネフネ族(先住日本人の海人族)」がいたことが推測されます。

 

 下関市教育委員会と九州大学の調査によると、彦島杉田丘陵のペトログラフには、「遠い世の父母より世に生まれ交わり、子々孫々栄え来たり。地の都となる世の来るまで、敵を倒し、我らを助け、突き進み、世も昼もみそなわす我らが日の神」と古代シュメール文字で書かれているとのことです。

 

 

 これらの痕跡とムー文明を結びつける傍証としては、ニュージーランド北方のポナペにある、一万二千年前の「ナンマドルの海底神殿遺跡」です。またハワイやイースター島でも古代遺跡が発見されており、上記日本の遺跡と類似している事から、太平洋上に大陸があった事も推測されます。

 

 

二、神代文字の世界的伝播

 

 ところで、「竹内文書」「宮下文書」「九鬼文書」等によると、太古の昔、天から天之御中主大神が降臨して国を開き世界を統治し、また日本人から黄人、白人、黒人、赤人(ユダヤ人)、青人(スカンジナビア人)ら世界の「五色(ごしき)人種」が分かれたとされています。

 

 

 実際、スイスの考古学者デニケンが、エクアドルの古代地下都市跡で日本の縄文土器と「アンデスの黄金版」を発見、これを出雲文字で解読した結果、「マヤやインカ文明を作ったのは、日本の古代海洋民である」と公表しています。

 

 一方、インド、エジプト、南米、アフリカなどの古代遺跡で、日本の神代文字を発見している日本学術探検協会の高橋良典氏によると、アヒル文字とハングルの類似性から「古代朝鮮も日本と同じ文字を使用しており、少なくとも約六千年以前から日本にあったアヒル文字を参考にして作った」と指摘しています。

 

 

 さらに、約二千年前に書かれた支那の「契丹古伝」によると、「漢字以前の文字を天字といい、天字以前をト(うら)字、ト字というのは殷字であり、殷は元これ倭国(日本)」とあります。

 

 ちなみに、「アジア」とは、古日本語の「アジナ」が訛ったもので、「アジナ」とは"分家"を意味し、当時、ユーラシア最大の領土を占めた支那(シナ)を意識していたものと言われています。

 

 なお、本稿では中国の呼称を「支那」としますが、これは、はじめての統一王朝を作った「秦(しん)」に由来し、英語のChina(チャイナ)に相当する正式な呼称だと判断したからです。

 

 またインドでも、インダス文明の遺跡モヘンジョダロで「豊国文字」「阿比留草文字」が発見され、さらにキリストが日本で習得した「イスキリ文字」、釈迦が日本から持ち帰った「梵字」が「サンスクリット語」となったことなど、多数の傍証が発見されています。

 

三、大和朝以前の先行王朝と神武以前の"古天皇"

 

 そして、先述のペトログラフや古史古伝によると、大和王朝と神武天皇以前にも先行王朝や、スメラミコト(古天皇)がいたことが記されています。これを神々と王朝、天皇の関係で整理すると、元無極躰主(モトツミクライヌシ)に始まる「造化準備時代」、天津身光(アマツミヒカリ)に始まる「造化時代」、天之御中主(アメノミクライヌシ)に始まる「修理個成時代(白山王朝)」、国常立(クニトコタチ)に始まる「万国統治時代(富士王朝)」、饒速日(ニギハヤヒ)に始まる「鵜芽葺不合(ウガヤフキアエズ)王朝」、天照に始まる「神倭(大和)王朝」となります。

 

 但し、スメラミコトが「天皇」と記されているのは、初代・天之御中主天皇、高木天皇(高御産巣日神)、天地明玉主照天皇、国之常立男天皇、大斗能地王天皇、大綱手彦天皇、弥広殿造天皇、造化氣万男身光天皇、富金足中置天皇、神心伝物部建天皇、伊邪那岐天皇、天疎日向津比売天皇などです。

 ちなみに、「スメラミコト」は元々シュメール語で「シュメールの王」、即ち、スサダミコ(スサノオ)を意味していると考えら、シュメール文明と日本との関りを窺わせます。

 

 まず、神々が降臨?し、天皇として姿を現した「修理固成時代」の「白山王朝」ですが、竹内文書などによると、国名を「天之越根中津国」といい、富山県婦負郡久郷村御皇城山に歴代の皇祖皇大神宮が置かれていたそうです。スメラミコトのスメラは「皇」ですが、「白」と「王」からなっています。

 

 そこでは、おびただしい神代資料が発見され、とくに酒井勝軍氏によって発見、翻訳された神足別豊耡天皇からモーゼに与えられたという「モーゼの十戒石」の写し石は刮目すべきです。そこには、宗教、国家、人種を越え、天下万民が遵守すべき律法が書かれています。

 

 

 ちなみに、聖書では、モーゼはシナイ山で十戒を授かったといわれていますが、竹内文書では、アカバ湾から船に乗って来日し、皇祖皇大神宮で四十一日間修行をし、石川県の宝達山で天皇から十戒を賜り帰国、ユダヤ民衆に与えたとあります。つまり、ユダヤ教の発祥地は日本の「高天原」ということです。

 

 次に、豊後国の大守だった大伴能直が「山窩(サンカ)」の伝承を記録した「上記(ウエツフミ)」によると、「鵜芽葺不合(ウガヤフキアエズ)王朝の第二十五代、二十六代天皇は、皇子たちを世界に派遣し文字を伝えた。富金足中置天皇は一万五千四百八十五年前に、四百六十年間に渡って治世した」と有り、これらは大分県国東半島で発見された巨石上のペトログラフにも記録されています。

 

 また、秦の始皇帝が不死の薬を求めて日本に派遣した「徐福」が、富士山麓で書き残した「宮下文書」をもとに、三輪義煕が編纂した「神皇記」によると、神武以前に先行王朝が三つあり、初めは富士山麓にあった「富士高天原王朝」で、「大陸から九州方面に大軍が押し寄せて来たため、附地見島(九州)に海佐知毘古を元帥として送り、海軍を編成、王朝も阿蘇切枝間に移し千五百日目に全島の鎮圧を完了した(阿蘇豊国王朝)」とあります。

 

四、緩やかな連合国家「鵜芽葺不合王朝」

 

 その後、近畿地方で長髄彦(ナガスネヒコ)が反乱を起こしたため、日高佐野王が海路から久真野に上陸、湯野崎水門近くの二高の宮を行宮として賊軍を討ち、大和国橿原宮で即位、「鵜芽葺不合(ウガヤフキアエズ)王朝」が始まったと記述されています。

 

 しかし、この点に関して「記紀」によると、長髄彦と戦ったのは「磐余彦(イワレヒコ…後の神倭朝・神武天皇」であり、一方、「神皇記」のいう「日高佐野王」は"日高"とあることから「富士王朝」ないし「日高見王朝」の天皇である可能性が高く、また日高佐野王=神武天皇とすると、不合王朝初代天皇となって矛盾します。

 

 そこで、「白山王朝」→「富士王朝」→「不合王朝」→「神倭朝」という流れから考えると、富士山の爆発で阿祖山大神宮(富士王朝)は一旦崩壊した後、関東に都を移し「日高見王朝(後の東日本・日之本王朝)」を建てたと考えられます。

 

 実際、他の文書によると、「不合朝」傘下には、北から「荒覇覇吐(アラハバキ)国」「日高国」「蔵王国」「飛騨国」「熊野国」「吉備国」「出雲国」「不弥国」「投馬国」「伊都国」「奴国」「熊襲国」などがあり、緩やかな連合体を形成していたが、最終的に「神倭朝」に統一されたとされています。

 

 

 だとすれば、次に問題となるのは、「神倭朝」の前の「不合王朝」の中心はどのような部族だったかという点です。結論から言えば、島嶼国である日本人の五十%を占める海人族(海洋民族・港川原人)を中心にしたものだったのではないか、そしてその棟梁(邪馬台国国王=鵜芽葺不合天皇)が、高度な「カタカムナ文明」を持つ長髄彦ら「カタカムナ人」だったと考えられます。

 

 

 勿論、その他民族の流入もあったので、日本人のルーツは、❶南アジア(四万五千年前)、❷南西諸島(三万五千年前)、❸シベリア(二万年前=アイヌ人ないしシュメール人)、❹華南、南西諸島(七千年前)、❺華北、蒙古、朝鮮半島(二千年前)となります。

 

五、太古の地球史とユダヤ人(原初日本人)の出戻り

 

 ところで、太古の地球の歴史を紐解くと、「ノアの大洪水」などの大きな地殻変動が起こり、人々の大移動が行われたようです。この事は竹内文書等の古史古伝の他に「聖書」、シュメールの「ギルガメシュ叙述詩」、インドの「マハーバラータ」にも記されています。

 

 更に地球が氷河期に入ったことで、食糧難に喘ぐ日本列島に居住していた縄文時代当時の日本人の多くは、食料を求めて世界各地に移動して行ったと推測されます。すなわち、太平洋を海流に乗って島伝いに東に移動したのが「クル族」、ユーラシア大陸を西に進んだのが「カラ族」です。

 

 

 実際、日本人が東に移動した痕跡が見つかっています。日本ペトログラフ協会の吉田信啓氏によると、熊本県芦北地方には「曽畑式水人がいて、約六千五百年前、北海道から沖縄に至るまで生活の痕跡を残しており、さらにベーリング海を渡って北米にも生活圏を拡大した可能性が高いと指摘しています。

 

 

 一方で、ユーラシア大陸を西に移動した「カラ族」は、現在のエジプトやパレスチナにまで達しました。当時のユーラシアの真ん中にはカスピ海のような大海があり、また現在の華中、華南地域はほとんど湿地帯で、華北以北も寒冷地化していたため居住に適さなかったと考えられます。実際、私もヒマラヤで取れる岩塩を使っています。

 

 ところが、西ヨーロッパを起点に東へ展開してきた「アーリア人(アトランティスの生き残り?)」が次第に勢力を増してきてカラ族と衝突、多くの戦いを経て、カラ族はメソポタミア(シュメール)、インダスと都を遷しながら東に移動し、最終的には日本を拠点にした「東大国(ティルムン)」を作ったことが支那の古文書「契丹古伝」に記されています。

 

 

 ともあれ、カラ族が最後に到達したのが"伝説の故郷"日本で、この中には物部氏(山窩)、海部氏(海窩)、安部(安倍)氏、忌部(いんべ)氏、斎部氏、乙部(おとべ)氏、綾部氏、卜部(うらべ)氏、秦(=ト羽田、羽田野、畑中、川端)氏ら古代ユダヤ十支族も含まれていました。つまり、彼らの渡来は日本への"出戻り(帰国)"だったと考えられます。

 

 彼らの"帰国"は、縄文時代後期から弥生時代、古墳時代にかけてさみだれ式に行われたようです。が、大きくわけて、大陸方面を南下してきた「前期出戻り組」の物部氏(山渡人)、ペルシャ、南アジア、東南アジアを海伝いにやってきた海部氏(海渡人)らと、「後期出戻り組」の秦氏の二グループに整理できます。

 

 

 このうち、「前期出戻り組」は、「日本列島居残り先住民」の海人族(安曇氏)やアイヌ族(阿蘇部)とは穏やかに合流を果たしたようです。理由は、「聖櫃アーク」や伊勢神宮、熱田神宮に保管されていると言われる「ユダヤ三種の神器」が、日本の「三種の神器」とペアの関係になっており、同族である証として示されたからと考えられます。

 

 なお、古代日本と古代ユダヤとの関係を示す傍証としては、例えば、仁徳天皇陵等の古墳は、古代ユダヤ三種の神器の「マナの壺」の形をしており、丸い部分が女性性、角い部分が男性性を表し、両者で男女という「二元性の融合」を表していると言われています。

 

 

 また、三重県・伊雑(いざわ)の宮にはキリストの「罪状板」が安置され、さらに、伊勢神宮の内宮の下ではキリストの血が付いた「聖十字架」も発見されたと言われ、伊勢神宮で先祖代々宮大工をしている人の話では、西宮市に「萬谷」という明治天皇の御落胤がいて、知人(中野学校出身特務将校)と共に神殿に入って確認したそうです。

 

 そのほか、エルサレム宮殿の門には「十六菊花紋」が、一方、青森県の三内丸山遺跡からは「六芒星(ダビデの星)」が、同じく青森県新郷村(旧戸来村…ヘブライ村)にはキリストの墓があります。

 遺伝子的にも、日本人の四十五%に見られ、中韓人には見られない「YAP(-)ハプロD系遺伝子」は、世界中に分散した古代ユダヤ十支族とその末裔のチベット人や中南米のインディオなどに見られるE系統と同類であると言われています。

 

 

六、ピラミッド(日来神宮)は日本が発祥地?

 

 ところで、世界的なフランスの考古学者J・ヴァレーン博士は、エジプトのピラミッドを研究、興味深い見解を発表しています。「この建造物は、地球上の大聖者が他の進化した天体の神々と交信するための場、つまり、地球よりも遥かに進歩した神人と、人類を救済するために地球に降臨した天孫族をつなぐ神殿である」。さらに、東方に向かって座するスフィンクスの左足の下を掘り下げ、石碑を発見。そこには「光は東方より来る。東方の一小国より、全人類の滅亡を救う大救世主が現れる」との記された碑文を発見、解読しました。

 

 ちなみに、竹内文書でも、「三月十六日、吉備津根本国に詔す。大綱手彦(鵜芽葺不合王朝十二代弥広殿作天皇(イヤヒロトノツクリ)の叔父)、天皇霊廟、亦名メシア、日の神、月の神、造主神、日来神宮」とあるが、この「日来神宮」が世界最古のピラミッドを指すと指摘しています。

 

 そして実際、青森の黒又山、岩手の五葉山、富山の尖山、長野の皆神山、京都の日室ヶ獄、徳島の剣山など、聖地とされる兵庫県の八幡山を中心に十六等分、つまり、十六菊花紋の角度で分割された方向にピラミッドが存在しています。

 

 また、同じく竹内文書によると「上古第二代・造化氣万男身光(つくりのしきよろずおみひかる)天皇の時、十五人の息子と一人の皇女を十六の国に遣わし、日本を中心にした十六放射の形を作って定め、天皇の十六菊花紋とした」とあります。

 

 

 ちなみに、「十六菊花紋」は、バビロンのイシュタル門、スペインのアルハンブラ宮殿、アッシリアのニムルド遺跡の石像、古代エジプトのラムセス二世の妻の胸像、同じく古代エジプトのプスセンネス一世のミイラが履いていたサンダル、ツタンカーメン王のサンダル、アフリカ西部ペナンの古代石板、マヤ遺跡の石像、エルサレムの嘆きの壁にあるメシア草など、多くの古代遺跡、遺物にも刻まれています。

 

七、関東・日之本王国

 

 さて、先ほど、「磐余彦(神武天皇)」と長髄彦が大和で戦ったと述べましたが、「記紀」によると長髄彦は戦いに強く、神武の三人の兄を倒した後、「饒速日(ニギハヤヒ)」の裏切りで殺されたとされています。が、饒速日は物部氏の祖神であり、実在性は低いと考えられます。

 

 その後も長髄彦は生き続け、大和国(邪馬台国)を放棄した後「日高見国」に移り、関東を拠点にした「日之本王朝」を建国します。「日之本」とは、日の出に近い場所、つまり関東地方を意味しており、埼玉古墳群では「三種の神器」が発見されています。

 

 また、支那の唐代の古文書「旧唐書」によると、「倭国と日之本国は別の国」とあり、当時、日本には「倭国(大和朝)」とは別の王朝があったことを記しています。 

 

 

 ただその後、「和田家文書(東日流外三郡誌)」によると、「日之本王国」は内部分裂から大和朝の分断工作と侵攻を受け、一部は大和朝の傘下に(内物部)、長髄彦らは東北地方、さらには津軽に逃れ「荒覇覇吐王国」に合流、後の「安倍(安東)王国」の土台を作ります(外物部)。

 

 ここにいう「安倍(安東)王国」は、その後も続いた大和朝との戦いを経て、磐余彦と和睦した長髄彦とその兄・安日彦(アビヒコ)によって作られたものです。

 

 ちなみに、この長髄彦の兄・安日彦(アビヒコ)が安倍氏の始祖(安倍晋三元総理の祖先)と言われており、私とは同族とになります。

 

 一方、長髄彦は政体を磐余彦に譲った後(記紀の「国譲り神話」)、大陸に渡り中央アジアにあるシュメール人の本貫に「長髄国」をつくったと、古代支那の地理書「山海経(せんがいきょう)」に記されています。

 

 この長髄彦の後裔は、その後北方騎馬民族スキタイ族の棟梁として東遷、日本の緩衝国家高句麗国を建てます。が、聖徳太子の側近・小野妹子の功績により、当時最大の脅威であった、同じく長髄彦の後裔が創めた支那の「髄」と国交が開けたため高句麗を終焉させ(藤原氏の祖先が王族であった百済も同じ理由で終焉)たのち、最後の高句麗国王・東明聖王朱蒙(明国を創めた朱元璋は後裔)は、兄の第二十九代欽明天皇(ヒロニワ=広開土王)とともに帰国(”里帰り”)、「長背(ながせ)王と賜名され「連(むらじ)=大臣」の「姓(かばね)」を与えられます。

 

 なお、安倍氏の一部は大和朝廷の中にも入り、安倍仲麻呂、安倍晴明、そして「後三年の役」で流罪となって肥前国(佐賀県)の水軍松浦党党首として平家方として活躍した後、源頼朝の迫害を逃れた安倍季任(あべすえとう)は現在の長門国(山口県長門市日置村=同族である私の実家もある)へと落ちました。

 

  因みに、既述のように、同族である我が祖先の高句麗王族(長髄彦後裔)と半島に軍事留学していた安倍一族は半島在住当時は、東方すなわち「日の出る国」にルーツを持つため「日乃本(日本)族」と言われ、この関係から帰国し定住した地を長門国大津郡“日置”村と呼ぶと聞き及んでいます。 

 

八、神武天皇に関する仮説

 

 一方、こちらも謎の多い「神武天皇」についてですが、神武天皇はモーゼ、聖徳太子(厩戸皇子…うまやどのおうじ)はイエス・キリストという奇説があります。前述したように、青森県の戸来(ヘライ)村にはキリストと弟・イスキリの墓が現存しています。

 

 竹内文書によると、キリストは十八歳のとき来日、皇祖皇太神宮の神主・武雄心親王から五年間、歴史や天文学、神業などを学び、狭野尊天日嗣天皇から「向こうで死んではならぬぞよ」との命を受けエルサレムに戻りました。が、迫害に会い再び来日、百十八歳まで生きたと書かれています。

 

 一方、モーゼですが、神武天皇の正式名称は「カム・ヤマト・イワレ・ビコ・スメラミコト」ですが、ヘブライ語では「カム・ヤマトウ・イブリ・ベコ・シュメロン・マクト」と発音し、意味は十支族の一つのエフライム族の王=サマリアの王です。

 

 また、ヘブライ語の「モー・シェ」は、エジプト語では反対に読み「セ・モー」→「ゼ・モー」「ジ・ムー(ムー人)」「ジンム」と転訛(てんか)したものと、イスラエルのユダヤ民族研究家ヨセフ・アイデルバーグ博士やアビグドール・シャハン博士が指摘しています。

 

 ただ、私見によると、神武天皇(磐余彦)は北部九州一帯に集住していた先住縄文人「アマ族(カタカムナ人)」である「安曇=安住(あずみ)族」の出身で、隣接する山口県中東部には「厚東(あとう、ことう)」、その西部には「厚狭(あさ)」の地名があり、先述の通り北部の長門市旧大津郡日置村には安倍氏と我家の実家が、さらに、下関市彦島にはアマ族の集住地である「海士郷(あまのごう)」という地名があり、周辺の海域を「玄界灘」といいます。

 

 ちなみに、長州(長門国)の「長」も我家に由来し、『日本の苗字七千傑』によると、現在の山口県の名に使われている「山口氏」も我家の分流です。

 

 なお、釈迦は、皇祖皇大神宮で天之越根尊より指導を受け、インドに戻り仏教を説いたが、五十二歳で涅槃に入るとみせて日本に再度来日、天寿を全うしたといいます。釈迦の墓は青森県の梵珠山にあり、実際、古くから不思議な発光現象の目撃談が伝わっています。