少し古い記事になりますが、ブログ仲間のMichkoさんのご紹介により、絵師キムボンドさんのブログのお話を致します。かつて界隈のアンチレイシズムの有志であられ、直接街頭におけるヘイトデモと戦った数少ない識者の一人でいらっしゃいました。
いろいろとありました (キムボンド卿のブログ 2015年12月3日記事より)
この記事のなかで、キムボンドさんは、ご自身の実体の経験則として、かつての見るに堪えないアメブロ界隈におけるネトウヨブログを例に、今まで私たちが相手にしてきたネトウヨたちのほとんどが、自身の「承認欲求」を満たすだけに行動してきたのであり、そのためにはヘイトや悪名を轟かせることも厭わない、あまつさえ「殺人」や「強姦」ですら良しとする風潮がありました。
それは在特会デモ然り、その会員ガルーダのように、ヘイトデモで泣いている女子中学生がいたら「そんなクソガキ見つけたら、拉致ってマワシてやんなさい(笑)」などと、およそ正常とは言えない、身の毛のよだつおぞましい暴言を平気で吐きます。
続いてキムボンドさんは、反差別の人々が、なぜ『ゼロトレランス』方式を取ったのか、対するネトウヨたちは、そのことについて「言論弾圧だ」「左翼の独善的思考」「公平中立に欠ける」「やつらこそ差別主義者だ」という具合に、数々の罵声の文言を浴びせつけますが、一方で自分たちの恐ろしい行為を棚に上げ、まことに身勝手極まりない言動を繰り返します。
ここで繰り返しキムボンドさんは、「自分の趣味や居場所を持たない孤独な人」ほど、そのような行為に手を染めると、直截的に述べていらっしゃいました。
そういう人たちにとって『ヘイトクライムこそ居場所』であり、承認されない自分たちの心の拠り所として、反差別界隈では冷遇されていたが、ネトウヨたちにあたたかく迎えられた『えびますとどん』の例しかり、この数年における界隈の状況を類推しても、キムボンドさんの言葉は心に響くものがあります。
そして、氏はそういうものに「思想的一貫性はない」と一刀両断し、己の承認欲求を満たすならば、寝返りはもちろんのこと、それによって在日コリアンがどんなに苦しみ悲しもうとも、一向にかまわない。だって自分さえハッピーならそれでいいもん、というまことに幼稚かつ身勝手極まりない心理によって、もはや『愛国』も『ナショナリズム』も彼ら彼女らにとっては単なるツールでしかなく、リアルで受け容れるものがなく、自分たちの「心の穴ぼこ」を埋めるためならば、ネットで傍若無人なふるまいをするに限るという構図になります。
この数年におけるネトウヨ界隈の「大きな離合集散」、『救う会』(巣食う会)と『在特会』とのゴタゴタ。それを取り巻く、大勢の緩やかなネトウヨ言説を支持する連中ら含め、「自分たちは在特会のような差別主義者じゃない」として、このアメブロ界隈においても似たような手口を使ってきたネトウヨ集団がごまんといました。
こうした「救いようのない状況」を目の前にして、キムボンドさんは一つの結論を出されました。
「ネトウヨはつまらない。相手にするだけ無駄」であり「だからネトウヨとは会話をしてはならない、理解してもいけない、ネトウヨだと分かり次第、距離を置け、可能なかぎり絶縁しろとも言える」として、ひとたび彼ら彼女らを相手にすれば、たちまち相手の傍若無人な暴言世界に引き込まれ、互いに罵り合い、アンチレイシズム側にとっても、印象はめちゃくちゃに汚され、何一つ良いことがないという事実です。
この件については、私自身も深く反芻しなければならない事実が多々あります。今までの自分の行い然り、近い例で、ネトウヨ『長渕』(岡田力=夜王)との接触においても、向こうが傍若無人な態度でいようとも、こちらは冷静さや品性を崩さず、適宜に反論することを心掛け、あまり傾倒して彼らのテーブルに引き込まれてもいけない、コメントも承認しすぎてはならない、場合によっては排除もあり得るとして、今後における自身の『行動指針』として、しっかりと認識していかなくてはならないと思います。
<参考資料>
・『キムボンド卿のブログ』 いろいろとありました (2015年12月3日記事)