今回、安田浩一さんの代表的著書『ネットと愛国』(講談社)を読んで、色々と考えされられたり、時には血圧が滅茶苦茶上がって大変なことになりましたが、個人的に気になった個所としては本書後半(314ページ以降)の在特会に加わる理由における、「在日コリアンの支持者」に注目が行きました。
この中で思ったことは、これらの人々が、なぜ同胞である在日コリアンを「売り渡す」カタチで、レイシスト側と一緒になってヘイトスピーチに加担するのか、また単に彼らが「悪人」であるからそうなるのだと一概には言えず、これは彼ら一人生の中で抱えた同胞社会、北や南の祖国の間で感じた疎外感や孤独、それ自体を踏まえて考えると、もし自分がそのような立場に置かれたら、絶対にそうはならないと言える自信はおそらくないと思います。
そうした人々の一人である朴信浩(48歳)も、在特会の「お抱え映画監督」として活躍し、戦前の「韓国併合」を正当化するアニメ映画を製作しているとのことです。
彼自身は今現在も『韓国籍』でありながら、在特会の記念大会や大きなイベントには必ずと言って良い程ゲスト出演し、壇上から「在日の悪行」を訴え、ときには北朝鮮の政治状況などをテーマに在特会主催の講演会でスピーチをしたりもします。
また本団体の前会長でもあった桜井(高田)誠も、在特会が「レイシスト集団」ではないことをアピールするために、この朴を引き合いに出すことが多く、「我々がレイシストでいうのであれば、なぜ朴さんに映画の監督を任せるのでしょうか」と述べたりもします。
本書籍の著者であるフリージャーナリストの安田浩一さんも、何度か朴に取材をして彼の意見を聴いたりしております。それによると、朴は同胞が多く住む大阪の生野区出身であり、韓国籍の在日コリアンであるということ。近畿大学の学生だったときに『留学同』に加入し、この留学同というのは正式名称『在日本朝鮮留学生同盟』といい、在日コリアンの学生組織であります。
在日コリアンの学生団体としては他に『在日韓国学生同盟』(韓学同)という組織がありますが、こちらは韓国籍中心であるのに対し、留学同は総連系組織の一つであります。
しかしながら、実際上は後者における留学同自体は対象範囲が韓国籍にも適用されており、それは現在の朝鮮学校の学生の多くが韓国籍が多数いることから類推できる事実や、『留学同』そのものの理念としての、北も南も関係なく、日本や海外の大学で学ぶ全在日コリアン人士に等しく付託するのが本来の在り方です。(ちなみに支援体系は完全給付制度に基づく)
朴の話にもどると、彼が近大に入学したのはちょうど韓国で光州事件(1980年に韓国・光州市で発生した、民主化を求めて民衆が蜂起した事件。韓国軍が治安出動し多数の死傷者を出した)から3年目。その頃はまだ、韓国の民主化を訴える日本のコリアンには北も南もなく、むしろ韓国の体制を支持する方が珍しかった時代です。
朴は迷うことなく留学同に参加したそうです。一足先に留学同に参加していた兄の姿が「まぶしく見えた」ことと、やはり光州で民衆に銃を向けた韓国の政治体制を許せなかったからであって、僕は「祖国韓国」の民主化のために活動しました。集会や講演会を企画するだけではなく、ときには夜の街で、電柱柱やガード下に貼られた、北朝鮮を非難する右翼団体のポスターの上から「祖国統一」と記されたステッカーを“重ね貼り”するなどの「裏仕事」もこなしたという。
だが、最も熱心に参加したのは演劇活動であり、歌と踊りで韓国の独裁体制打倒を訴えるのである。光州事件の真相究明を主張する演劇で、朴は舞台の上から「チョンドゥファン、ムㇽロガラー!(全斗煥は出ていけ!)」と叫んだ。当時、韓国の大統領だった全斗煥(光州事件の当事者)は、朴にとって「最大の敵」でありました。
その後、大学を卒業した朴は東京に出て、本格的に演劇を学んでみたいと思い、まず有名どころである『劇団四季』の研究生に応募したが、書類審査で落とされます。しかたなくアルバイトを続けながら小さな劇団を渡り歩き、一時期、朴は東京ディズニーランドのダンサーもしていたそうです。
その朴が一度だけメジャー映画に出演したことがあり、2004年に公開された『血と骨』(崔洋一監督)でチョイ役でスクリーンに登場したが、その後の役に恵まれず、今でも葬儀屋でアルバイトをしながら、今後は監督として自主映画を撮り続けているそうです。
取材中、朴はコネや師弟関係が重視される日本の芸能界に対して呪詛の言葉を吐き続け、なかでも芸能界の「在日ネットワーク」に対しては、きわめて冷やかな視線を持っていた。
グラスを片手に彼は、「在日の連中、冷たいんですわ。役をくれ、手伝わせてくれと同胞が頼み込んでいるのに、相手にしてくれへん。芸能界の朝鮮人、あかんなあ。情が薄い。自分だけよければいいかいな」
ここで私はふと考えました。
たしかに彼が言っていることもわからなくはない。もし自分が同じ立場だったら、「同胞であるハズ」の人々からそのような扱いを受けたら、決して良い気持はしないだろうなと思いました。
しかし同時に、根本から考えてみて『芸能界』という完全実力主義の冷徹な世界において、単に「在日」だからとて優遇してしまうと、それこそ日本の芸能界から「やっぱりアイツラはズルしている」だのと言いがかりをつけられて、ネガティブな目で見られる恐れがありますし、ハッキリいって、そんな「ツール」に頼っている以上、朴の芸能界に対する目は大甘であり、自分自身の実力のなさを棚に上げた言い訳にしか聞こえませんでした。
私も在日の友人に、劇団四季からTV業界にデビューされたコリアンの方を知っていますが、その人はもともと稀有な才能と努力の両輪によって、最初はそれこそ多大な屈辱と小さな下積みを経て、監督との信用を得てドラマ出演というステージにまでこぎつけておられます。
少し残酷な言い方かもしれませんが、最初からコネ頼りで、キャリアもない人間が「在日ネットワーク」の不備を唱えるほど甘い世界ではありませんし、半ば同情の気持ちをありますが、朴の意見はやはり的外れだと思います。
本題にもどると、朴の批判は「同胞社会」全体へと向けられる。
「そりゃあねえ、在日朝鮮人、日本社会から嫌がられるのも当然ですよ。僕も朝鮮部落に住んでましたけどね、とにかく貧しいし、ひどいところでしたわ。僕ね、88年にはじめて韓国を旅行したんです。現地の韓国人に何と言われたと思います?パンチョッパリ、ですよ」(チョッパリは「豚足」を意味する言葉だが、豚の蹄は先が二つに割れていることから下駄の鼻緒を連想させ、それが日本人に対する侮蔑語となった。パンは半分の意味。つまり在日コリアンのことを言う)。
「僕からすればね、せめてトンポ(同胞)と言ってほしかった。韓国人はね、本音では在日をバカにしてるんですわ。そんな国、好きになれますか?」
ここについては、順を追って私なりに意見を述べますと、朴自身が最初に述べた「在日朝鮮人が日本社会に嫌われる当然の理由」として、「朝鮮集落のひどさ」を挙げておりますが、ハッキリ言って意味がわかりません。集落での貧しさにおける根底の原因だったり、それらが誕生した背景性の無視、そこに住む人々の人格否定につながっております。
第一「朝鮮集落」だけが在日社会全体を表すものではないし、「集落外」における在日コリアンにはそれこそ多種多様の人物がいて、私の友人である在日コリアンの母方の祖母のお父さんは、戦前における東京市警察署長と関係がある(家に直接訪ねたりもしてきた)、当時では考えられないほど「立場の高い朝鮮人」であったり、もともと頭が良かった為、経済的にも成功し、戦後においても日本人の庶民よりも裕福な暮らしを勝ち取っておりました。
しかし、これはものすごく特殊な例であることは言うまでもありませんが、こういう事例を含めて在日社会は成り立っているのです。
また北九州の「朝鮮集落」にしても、そこはかの有名な大天才孫正義が暮らした場所であり、朴が言うように「単に貧しいから嫌われる」という理由はそもそも意味をなしていませんし、彼自身の視野の狭さを露呈したに過ぎません。
次に、朴自身が本国の韓国人から「パンチョッパリ」と呼ばれた件については、これはべつだん朴に限らずほとんどの在日コリアンが知りえる問題であり、北と南の祖国の人々とは違う存在者としての「コリアン」、いわゆる「在日人」として生きることは、私自身、別にそれで良いのではないかと思っております。
わざわざ本国の人間からそのような物言いを仮に言われたとしても、卑屈になる必要はまったくない。むしろ、それをはねつけるくらいの「在日としてのプライド」があれば良いと思いますし、朴自身が韓国を訪れてもはや27年以上も過ぎていて、その時から段違いに国際化した現在においての韓国の姿は、今の日本以上に寛容性が増した国です。
事実、何日か前の朝日新聞のオピニオンで、ミャンマー難民の方が欧州やアジア・アメリカを含めた「受け入れてもらいたい国」ランキングで、一位がカナダ、二位に韓国であると現に述べられていました。(ちなみに日本は最下位でした)
また、朴が同胞社会を嫌う「もう一つの理由」として、北朝鮮による『拉致問題』を取り上げました。
彼曰く、「なんやかんや言うてもね、朴は北朝鮮が『やってない』と言っている以上、それを信じていたんです。総連の手足として動いてきた人間の悲しい忠誠ですよ。でもね、結局は北の仕業だってこと、認めてしまったわけでしょう。そりゃあ日本人、怒るわな。もうだんだんイヤになってきますな。在特会の主張?まあ、仕方ないんとちゃいますかね。ここは日本ですしね。朝鮮学校にカチ込むのも、時代の流れなんとちゃいますかねえ」と述べました。
本記事冒頭でも、彼らのような人間たちに一定の同情心を感じておりましたが、この個所については正直怒りを覚えずにはいられませんでしたね。
今まで彼は同胞社会でそれなりに疎外感を感じて、不満は感じていたのだろうが、そもそも拉致問題と在日コリアンの存在は完全に「別個の問題」ですし、何よりそれによって「在特会の論理」(レイシズム)を肯定したこと。ましてや、「ここは日本で時代の流れだから」という意味不明な口実に、彼らが子どもたちの通う朝鮮学校(小学校)に突っ込むのも無理はないとか述べる時点で、朴自身の知性の欠陥というか、偏見や逆恨みに基づく一方的な決めつけに心底呆れさせられました。
その後の本書の記述を追っても、結局は夢破れ同胞社会でも居場所をなくした「可愛そうな自分」を前面に出して、手前勝手な理屈で在日コリアンへの逆恨みをし、才能のない自分を唯一買ってくれた『在特会』こそが理解者だと信じ込み、内輪の傷の舐めあいが何とも痛々しい限りです。
たしかに在日コミュニティから外れて、孤独なコリアンの人々は数多くいると思います。
だからと言って、レイシズムに加担することはまず考えられません。
中には、余程の事があって在特会の会員になった人もいるのかもしれませんが、すくなくとも朴については、彼は何か決定的な勘違いをしていて、彼自身が居場所は「与えられるモノ」だと考えていて、それが本来自らが「作り出すモノ」であることに気が付いていないことが、そもそもの発端ではないかと思います。
〈参考文献〉
・安田浩一著『ネットと愛国(在特会の「闇」を追いかけて)』 講談社