一月万冊で、オリバー・ストーンさんのウクライナやロシアに対する見方が取り上げられていたのは、安易に陰謀論を信じるタイプの人がオリバー・ストーンさんの作品をネタにネット上で盛り上がっているのが見えたために、清水さんが何か言って平衡を保つ必要があると考えたことが原因だった感じですね。

 

清水さんたちはオリバー・ストーンさんの作品を検討して、正しい部分はどこで、不足しているのはどこかを指摘しています(清水さんたちから見て)。

 

しかし中心的な問題は、陰謀論を信じるタイプの人が、なぜそんな気持ちになるのか、ということかもしれません。

 

何かを信じる気持ちは別に悪いことではなく、信じる気持ちがなければ人間は生きられないそうです(アンソロジー「黙示録的な現代」を参照)。

 

そして一方に陰謀論を信じるタイプの人がいれば、反対側に政府の言うことを信じ政府に頼る人がいます。

 

政府や民族の代表者に寄りかかる心理は、以前の人間の発展段階を引きずっていて、民族と私が一体である感覚を持ち、私は民族と同じであり、私は民族の代表者と同じであるという感覚を持っている人がいると考えれば、理解するのはそう難しくありません。

 

陰謀論を信じる人は、政府を信じる人の反対で、政府の公式発表を信じずに、裏で何かが暗躍しているという話を信じます。

 

床屋談義とか井戸端会議の中では、無邪気に信じる気持ちを表明すると、あまり受けず、斜に構えて一般的に価値があるとされているものをこき下ろすと受けるところがあります。

 

なぜそうなっているかというと、中学生くらいの子供は、親を無邪気に信じていて、お父さん、お母さんの言いつけを、理由なく信じて、その通りにすべきだと考え、それを述べますが、少し背伸びをしている仲間から、その考えは子供っぽすぎるとバカにされたりします。そしてバカにされるのは体裁が悪いので、強がって親に対して批判的なことを言うようになり、そのまま大人になると、仲間内の会話で、あまり無邪気なことは言えずに、とりあえず否定的に語ってみるという作法が身についてしまうのだと思うのです。

 

こういう自然な発達段階を乗り越えるには、内省によって自分がしていることを見て、変に強がることのみっともなさに気づき、その何の意味もない事実の歪曲をやめる決意をする必要があります。

 

こう考えると、政府を信じている人は正常な中学生並で、いつも斜に構えた発言をする人は背伸びした中学生並ということかもしれません。

 

先に、背伸びした中学生が好みそうな世界観の傾向があり、それに合致するような言説が投げかけられると、すんなりそれを受け取る人が出てくる、ということかもしれません。

 

大人になっても中学生同然であること、あるいは背伸びした中学生同然であることは、恥ずかしいという気持ちは、別途存在し、中二病という言葉もあって、否定的にとらえられることがあります。

 

しかし中二病という言葉が指し示すものは、多くの場合、物質的生活の中で、安定的に生存できることを最大の価値と見、それ以外のこと(精神的達成とか)は幻想だという、唯物論的価値観に従って、物質生活を最適化する生き方を身につけるべきだという考え方だと思います。そしてこの物質生活の最適化を阻害する余計なものを多く持っているほど、子供っぽいとみなし、そんなことでは人生の落伍者になるぞ、と戒める考えから、いつまでも中学生みたいなことを言っていて恥ずかしいぞ、と言っているわけです。

 

人間の発達段階を考えると、中学生は、まだ完全に目覚めておらず権威を信仰する段階にあり、高校生以降に思考世界や理想主義が発展します。それで、自分で考えて生き方を最適化できるのは高校生からであり(それまでは基本的に自分の周囲にある流れに沿うしかない)、克己心が欠如している人を、中学生っぽいと言うのは正しいとしても、高校生以降の人間が、正しいこととそうでないこと、良いこととそうでないことを、いろいろ考えて区別していく試行錯誤をやるべきだという観点から言えば、余計な考えをたくさん持つのは、むしろ高校生以降であり、そんな試行錯誤が否定されてしまうなら、むしろ無邪気で周りの意向に沿って生きる中学生のような人が大量に生まれてしまうんじゃないでしょうか。

 

実際に、中学生っぽさから脱しようとするなら、無条件に誰かに依拠することをやめて、自分で選び取ったものを自分で信じるというふうに持っていくしかない、ような気がします。

 

しかしその場合、まだ思考に慣れていない段階で、あれを信じたり、これを信じたりするので、間違ったことを信じる可能性があります。それで一旦信じたものを、後から考え直して、信じるのをやめて、別のものを信じる、といった自己改革を、継続的にやらなければならなくなるでしょう。

 

それで中学生の段階から進歩しようとし、実際にそうできている人は、意見や見方を作る時に、すぐに飛びつかずに、時間をかけてやるとか、後から自分の意見や見方を訂正できる力を持っている、ということになるんじゃないでしょうか。

 

世界観は、間違っている可能性があり、後から修正しなければならないかもしれないので、そこを信じていると、修正の必要が出てきた時にちょっとした存在不安に陥るかもしれません。

 

それで、人間の表層の、考え方とかではなく、存在の根本のような部分を信じることに切り替えることが良いかもしれません。

 

ただし本当にそうしようとすると、何らかの世界や自己の直接体験を必要とすると思います。深く感じ取ったことは、確信に結びつくからであり、単なる思いつきは、信じようとしてもなかなか信じ切ることが難しいと思うからです。

 

しかし直接体験であっても認識の歪みを伴っている可能性があるので、いずれにしても見方を改める事態はやってくるかもしれません。

 

普通は、世界や自己の直接体験は困難で、自己の行為や営みを後から振り返って、自己のイメージを得ているだけなので、自然にとっている見方に歪みがあると、後で訂正しなければならなくなります。

 

それで実際問題、自分自身が何かを信じているものの、それは確実に正しいとは限らず、後から別のものを信じるように変える必要性を持つかもしれない、ということを知っておいた方がいいかもしれません。

 

自分が何かを信じていることを意識できずに、前提に置いてしまい、世界中の人が同じことを信じているように感じたり、違う見方を述べる人が出てくると、完全に頭のおかしい人がいると感じたりすることは、無邪気すぎるでしょう。また、自分が何かを信じていることに気がついておらず、単に正しい見方をしていると感じていると、別の人が違うことを信じていると、この人は事実を認識するのではなく、荒唐無稽なことを信仰している、と考えるかもしれません。これは認識の困難さを知らないか、努力の末、正しい認識に到達したと考えるがゆえに、違う考えの存在を認めない立場に立ち、他の人の話をまともに聞かなくなっている人だと言えるかもしれません。

 

信仰は、認識の面で自己を向上させていく道の中で、疲れた時に休む場所としてある、と言ったらいいのかもしれません。次の段階に進んだ時に、振り返って、前に足場と考えていた場所は虚妄でしかなかったと感じるとしても、その時にはそこしか足場として使うあてはなかった、ということになるでしょう。

 

 

ここまでに、背伸びした中学生タイプの人が、仲間内であまり子供っぽいことを言うとバカにされるので、背伸びしていると考えましたが、違ったパターンもあるかもしれません。

 

推理小説で、この人が犯人じゃないかと思っている人が実はそうではなく、真犯人として別の人が浮上してくる、ということがあった時、ああそうだったのか、とすぐに信じる気持ちになることがあります。でもそれも違って、さらに別の真犯人が出てくることがあるでしょう。

 

そうやって本当の犯人にたどりつき、陰謀の全容が解明されると、何が真実だったかが明らかになるわけですが、最初の段階で、真実と思っていたことが覆されて、別の真実が姿を表した時、すぐにそれを信じる気持ちに、人間は自然になるところがあるんだと思います。

 

あまりに無理がある推理だったらどうかわかりませんが、それなりに本当らしい体裁があれば、これまでの真実と新しい真実を比較考量して冷静に判断する人はまれで、新しい方に持っていかれる人の方が多いと思います。

 

ここでは、賢い人は自分にはない推理能力を持っていて、それを使えば自分にはわからなかった真実が明らかにできるという発想が背後に隠れていて、これは権威主義の一種、自信のなさの一種だと言えます。

 

それで大事なことは、自分がまだ未成熟であっても、自分の判断にそれなりに自信を持つ必要があるということです。間違っているかもしれないが、とりあえず自分で考えてみて、周りに流されないようにすると決意することが必要になるでしょう。

 

あんまり未熟だと、自分で考えたことに自分で嫌気がさして、他の人の考えを丸呑みしたくなるかもしれませんが、少しずつ進歩して、自分もなかなか悪くないというところまで到達しなければならないのだろうと思います。