お客様より「五代目神田伯山先生について知っていることを書いたらどうか」というお勧めがあり、

大したことは書けませんが手元に資料がある限りしばらくの間お付き合いください。

思えば弊社の「神田伯龍独演会」には多くの「伯山会(伯山先生の後援会)」残党(と言っては失礼ですが、元伯山会のメンバー)がお見えでした。色々貴重な資料も頂戴しました。

残念ながら光陰矢の如し。そうしたお客様とお目に掛る機会も無くなりました。

ご意見、ご教示、ご批判大歓迎でございます。ご指導ご鞭撻の程をよろしくお願いします。

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五代目神田伯山(明治31年4月27日生*誕生日に諸説あり~昭和51年11月4日没) 

本名:岡田秀章

 

《声》

バリトン。惚れ惚れとする良い声。そして大音声。読み出しの聞き手に話し掛けるような優しさ柔らかさには知性の凄みを感じる程。

しかし時としてファルセット(裏声)になる時がある。間声にもすれすれなのだが、これが張扇の効果にも似て魅力の一つとなっている。

 

《読み口》

恐ろしく遅い読み口。生来の吃音者。音楽に乗せると吃音者もリズムを掴んでそれに乗って喋れる場合があり(芝居の吃又、輝虎配膳でも音楽に乗って吃音者が喋れるようになる場面あり)、さらには吃音の克服に至る場合もあるという。それ故に当初は浪花節に入門したのかもしれない。

 

読み口は極めて遅く、時に忘れたんじゃないかと不安になるほどの大間になる。癖として机の上で両手をニギニギする。これは、両手を握ってリズムを掴もうとしているものと推測される。門人神田昇龍もこのニギニギがうつっているので驚いた。

 

《江戸弁》

「かしこ参りました」(かしこまりました)、「ばやい」(場合、これは出羽錦の田子ノ浦親方も使っていましたね)を多用。

「……ってえと」も多用。これは一時師事した三代目小金井芦洲の癖で、やはり三代目芦洲門下の五代目志ん生も多用。

他には三代目芦洲崇拝者である五代目芦洲(後の櫻洲)も同様である。

「糞を食らって西を飛べ」は伯山のフレーズという人がいるがそうだろうか?

『関東七人男』で「糞ならばお手の物だと百姓共が肥柄杓を振り回す」という糞がらみの抱腹絶倒の箇所があるが、この点はご教示を請いたい。

 

《張扇》

張扇を使わない。講談は必ずしも張扇を使わなければならないものではない。五代目神田伯龍も殆ど使わなかった(もっとも小児麻痺で右手が使えない事情もあった筈。使う場合は左手で持った)。六代目神田伯龍も使わなかった。神田昇龍も使わない。

 

《持ちネタ》

若き日は國木田独歩の『酒中日記』、谷崎潤一郎の『お艶殺し』、『恐怖時代』等の新談(新作の講談)を得意とした。小説を台本にする能力とテキストレジの能力に長けていたことは疑いないが、当時多くの古典作品の名人が群雄割拠するなかで自らの活路を新談で模索したことも推測される。これらの録音が遺っていないのが惜しい。

 

新談で代表的なものは中里介山の『大菩薩峠』。中里介山存命中から無断で上演し、介山サイドから再三の抗議を受けながらも諦めず、ついには黙許という形になり、介山の弟中里幸作氏は伯山のお客になってしまった程。『大菩薩峠』はビクターに最晩年にスタジオ収録しておりLPとカセットで発売された。

さらに直木三十五、子母澤寛、三角寛、行友李風の文芸作品も見事に伯山調の傑作講談とした。

 

『関東七人男』、『新吉原百人斬』、『村井長庵』、『天保水滸伝』等々。

世話物、侠客物もあのノロい読み方なのに見事な啖呵になる。重厚な読み口で、人物の懊悩、呻きを見事に描写する。

特に負い目を持った人物、陰のある人物、ハンデを持った人々の演技に刮目する。正に一級品というべき名人中の名人。

 

お得意の『天保水滸伝』”笹川の花会”でその花会が盛況だったことを聞いて飯岡助五郎がムクレル。

「そりゃ、面白くねえなあ」なんていう言葉には実に愛嬌があった。

平手造酒の「おかずは何だ?」も同様。通り一遍で終わらないのである。

 

三代目伯山には敵わないからとの理由で『次郎長』はやらなかったが、別本による『吉良の仁吉』はやったし、次郎長スピンオフストーリーの『正太と安』は十八番であった。

軍談(修羅場)は読まない。あの調子だと読めなかったんではないかと推測される。

 

《複雑な師弟関係》

十代で浪曲師中川海老蔵(田中貢太郎の怪談集にも登場。しかし来歴不明)に入門。後年この浪花節時代を本人はまるっきり省略している。

 

後に二代目桃川若燕に入門し講釈師に転ずる(大正六年頃)。三年後、三代目小金井芦洲門下となる(大正九年頃)。さらに五代目神田伯龍門下になり、神田小伯龍から神田五山。

前列左から、五代目神田伯龍、四代目小金井芦洲、田邊南龍、邑井貞吉

立っている人、左から五代目一龍齋貞丈、七代目一龍齋貞山

 

本来ならば五代目神田伯龍の弟子なのに三代目神田伯山門下を自称するようになったのは、五山の姉が三代目伯山の妾になった(六代目伯龍談)からだという。

三代目神田伯山(五代目神田伯龍旧蔵の写真)

神田派四天王 五代目神田伯龍

神田派四天王 初代神田ろ山

神田派四天王 初代神田山陽

 

大正十年の山倉大六天の三代目伯山の掲額には、五山が載っている(下記写真)。直弟子扱いになっていることがわかる。

 

昭和二十四年十一月に、三代目桃川如燕を襲名。

桃川派の講釈師が桃川東燕(後の三代目桃川若燕)のみとなり手薄故に、桃川派の宗家である如燕を継いで再興させてくれという二代目桃川若燕未亡人の願いを汲んでの事と言う。ここで神田派と義絶。

 

昭和三十二年五月に神田五山に戻り、神田派に復帰。

同年八月に五代目神田伯山を襲名。本来は四代目に当たるが二代目伯山=初代松鯉養子の二代目松鯉が存命だったために、松鯉に敬意を表して四代目として扱い、一代飛ばして五代目となった。

右から二代目神田松鯉、神田伯治(六代目伯龍)、五代目一龍齋貞丈

(昭和40年9月本牧亭神田伯治改名披露(神田光庸から伯治に戻った際)口上)

 

しかし、後に松鯉が自ら四代目伯山を名乗るべく動いたため(六代目伯龍談。この経緯の順序が不明、あくまで一説としてお考え下さい)にここで五代目伯山と松鯉が衝突し、五代目は四代目を名乗るようになる(ここでは一貫して五代目として扱う)。以後没するまで伯山を名乗る。

 

伯山襲名には、長年の後援者であった鶴岡政次郎親分(現東海海運株式会社の創業者で、鶴岡興行部も擁し伯山は専属でもあった)の強い薦めがあった。

神田派復帰と伯山襲名に当たり、当時神田会会長として神田派の襲名と催事イベントを仕切っていた山田春雄親分とも話をつけて(金を払って)いる(下記写真)。