切ないラブソングに関しては、=LOVE『ラストノートしか知らない』、つばきファクトリー『でも...いいよ』、などがあり、秋冬の気候的な寂しさや厳しい寒さと重ねて、深夜に聴いて溺れる感情に浸るのが程よいだろう。

しかし、だとしたら日中、もしくは意中の相手以外の誰かと会っている最中、もちろんそれは異性に限らず、同性の友達なども当て嵌めて構わないが、その時間も、同様に溺れていられるかというと、なんだかしっくりこない。

 

かなりポップに寄せて、まさしくアイドルソング、な感じで攻めてもいいのだが、それはありきたりすぎて、ライブアイドルや地下アイドルの類いも含めて議論すれば、飽和極まりないものである。そこには当然、音楽としての新奇性は無く、あくまでライブ空間ですっかり定型化された声援を叫ぶ以外の何物でもない。もちろんそれもそれで有意義かもしれないが、コロナが明けた今日とて現場活気が復活とはお世辞にも言い難いアイドル現場の現状からして、アイドル音楽に求めるべき要素というのはそこではなく、令和やZ世代など、今の時代に適合したものであるべきだと、筆者は考えるのである。

 

そんな前提を敷いて本楽曲と向き合えば、本当に良く仕上げられていると、感慨深く感じるのである。

 

今の時代、人は何故アイドルを応援するのか、と問われれば、もちろんそれは推しがいるから、が至上にはなってくるだろうが、ではそれだけなら自己完結で十分だろう。そう割り切って推し事に専念している者もいるだろうが、友人や知人に紹介するケースも決して少なくない。それはやはり、魅力を知ってほしい、のもあるが、共通的な話題を作りたい、これをさらに踏み込んで著してみれば、知り合いと過ごす何気ない空間にアイドルという存在もまた一コンテンツとして据えたい、ということだろう。

 

そうだ、今の時代、ヲタク同士のコミュニティ、というよりかは、アイドルとは無関係で構築済みのコミュニティに対して刺さるかどうか、が鍵を握っているような気がしてならない。もちろん、構築済みコミュニティ故に乱択よりかは共通項が多い人たちではあろうが、あくまでその程度に過ぎないため、万人受けとまではいかなくとも、いやそれ以上に、前述を振り返れば、日常に据えたところで違和感が無いか、というところが肝心だろう。このあたりは少々言語化が難しい。

 

MVを観た限りでは、こうした日常によく焦点を当てているように感じた。よくあるアイドルMVとしては、この日常性の創造として学校を据えるものだが、制服姿というのがどこかコスプレ感を生んでしまい、あと筆者個人としてはピンサロやイメクラなども思い出してしまう。おそらく、低価格で用意した制服というのが風俗店のそれと同程度のクオリティだからだろう。

反して本MVでは、一般人における友達間での交流としての空間作りがとても良い。筆者はあくまで男性なので女子たちが成す空間たるものを知らないが、ああやって睦まじく他愛も無い会話をする時間というのが、どこか羨ましくもなってくる。会話の結果として残るものがどうこうかは置いといて、少なくともあの瞬間は、楽しそうだ。コミュニティを縛って設けて強制化している女子の群れたるものも今日とて存在しうるので結局はこれも絵空事かもしれないが、いずれにしろ、情緒ある空間である。

 

普通の女子の感覚というのもまた知り得ない筆者だが、少女たちの人生において、大半は日常、そして残ったほんの一部であどけない恋をするのだろう。もちろん恋100%な人生というのもアリだろうが、年頃の女子というのは、学業だの青春だの、やることがたくさんあって忙しい。様々な日常をこなして、どうにか生成できた一部分に過ぎないだろう。

ただ、今、こうしてアラサーとして生活が安定して時間にある程度の余裕が出てきた身から言えば、恋100%で人生を送ることはできるし、だからこそ、中学や高校時代というのは、恋愛は恋愛として特別なもの、日常の延長の一部分として、ぐらいの塩梅が丁度良い気がする。その方が、将来振り返って一層と甘酸っぱさが増して、眩しい思い出になることだろう。

 

そんな忙しない少女の日々というか、リアルな情景を描いて、かつメロディーや歌詞についても重過ぎないのが、本当によくできている。昔はここまでアイドル音楽が完成度高いものではなかったし、そもそもアイドルという存在が嫌煙されているものでもあった。しかし今日、FRUITS ZIPPERをはじめ、様々なアイドルが多面的に支持され、広く愛された結果、一層とハイクオリティな音楽、そして作品が紡がれるようになった。もっとも、低層のアイドルに関してはまだ闇だし、アイドルという存在の全てを肯定できるわけでもないが、それでも、アイドルを信じて務め、応援する者がいる。それだけでも十分、嗚呼、アイドル界が今日こうして続いてきてよかったと、しみじみ入り浸ってしまうわけである。

 

そんなわけで、今回も評論的に執筆したわけだが、以前何度か著した通り、筆者には複数の人格が存在し、その中でも評論、少女、狂沸がメインなものとなっている。少女人格からすれば、ふるっぱーほどの超有名アイドル、特に瑠夏は空想時代から知っているので一度話してみたいが、やはり結局はアラサー独身男性として見られてしまうし、仮に人格表出させたところで声帯を経て発せられる声を自ら耳にした時点で簡単に崩壊する。なので、こうして家で一人で堪能した方が聖域展開が崩されずに済むというものだ。そして狂沸人格からすれば、まず声援は程々な火力だろうし、そこに火力を足したところで何もメリットにはならないだろう。時代錯誤甚だしいというものだ。ということでこちらも外に出てしまえばまず人格を本アイドルに対しては出すことは無い。とまあ、複雑な想いがあって、いくら高く評価できるアイドルとはいえライブ参戦しないという決意なのだが、だからといって、彼女たちを体面的に愛するのは決して自分である必要は無い。だからこそ、託したいのである。

 

結局は筆者も筆者で、某嬢を一途に愛すると決めてしまったし、なんだかこの生き方が一番落ち着いている。しょうがない。出逢ってしまったのだから。そのため、一昔前と同様にふるっぱーに限らずアイドルを愛せる自信が無い。そのあたりも託したい理由の一つだが、まあ正直、こんな記事を啓発目的で仕上げたつもりはない。後付け程度だ。

ただシンプルに、感動した。素晴らしかった。そんな衝動こそが、今回執筆に向かわせた原動力に過ぎない。(2867字)