とうとうここまできたか、筆者よ。いや、もはや、筆者と呼ぶべきではないかもしれない。
何度も書いていることではあるが、某アイドルの恋愛不祥事によって、昔ほどにはアイドルについて真剣に考えることができなくなってしまった。故に、仮に今ライブを観に行ったところでレポを残すことなどできないだろうし、仕事が忙しいが故に時間面でもこれは叶わなくなってきている。だとしてもじゃあ、在宅でできる限りのことはできるじゃないか、と言われそうだが、結局その時間も仕事かAVを観るか、あるいは雑にテレビを観るか食事するかぐらいしかできなくなってしまっている。
きっと仕事が解放されれば、また平常運転に戻るのかもしれない。一応上司は、土日は休んでいいんだよ、と言ってはくれるものの、じゃあ、何故スケジュールを再考しないのか、それは結局何も言わなくても土日作業してくれるからという、超超超ブラックな甘えでしかないのではないだろうか。彼らを根本的に変えるとなれば、普通に土日は雑に外出して遊んで、で月曜からまた仕事、といった感じでやるべきなのだろうが、計2名の上長、1名はメンタルがえげつないほどタフなのでまず変わることは無いし、もう1名はそこまで精神的に負荷をかけたら本当に死んでもおかしくない。二者を忖度して、自主的に犠牲を選んだ。
そこまでしなくてもいいのだろうが、結局のところ、極度の御人好しなのだろう。本当に自分でも嫌になってくる。
ただ、じゃあ、とことん自分自身を極限まで追い詰めて、生きてみたら、さて、何が見えてくるのだろうか。
高所から飛び降りる未来か。首を吊って数分の走馬灯か。致死薬を求めて闇知識を収集するのか。
あるいは、転職か。ヒモか。ホームレス生活か。それとも、今のまま、毎日贖罪と称して絶望に耽るのか。
なかなかに絶望的になってきたじゃないか。ここまできて、生き永らえる人間というのも、きっと限られるだろう。
良い。とことん追い詰めてみようじゃないか。再び嬢に逢う瞬間を、反転的に最高の時間へと昇華させるためにも。
さて、いつも通り前置きが長くなってしまったが、今回書くのは、先週放送された『世にも奇妙な物語』についてである。
計4作品、放送されたものの、どれも筆者にリンクする内容だと感じたため、各作品ごとに徒然なるままに書いてみたい。
『お姫様クラブ』
内容としては、主婦でありパートで働く、50を超えた女性が、特殊クラブにのめり込むものだ。
のめり込む、と著したが、作中で当クラブに訪れた回数はたったの2回、過去も含めれば3回だけである。
筆者のブログタイトルからすれば、まずはアイドル応援における中毒性が重なるところがあるだろう。
TwitterでもInstagramでもTikTokでもSHOWROOMでも、あるいは友人からの紹介など何でもいいが、まずは推しと出逢うところが中毒の始まりである。アイドルの場合は、他接客業と比べれば、ライブという特殊な要素が絡んでくる。
ステージ上で歌って踊る姿。こればかりはどうしても、二次元より三次元の方がリアル性は当然強く感じるだろう。だとしても、三次元の場合はいつ推しが裏切るかわからないという恐怖もあるので、アイドルに何を求めるかで次元は各々選定する必要があるだろう。そして、ハロー効果な側面も踏まえて、中毒性という観点では、間違い無く三次元が圧倒的に強いだろう。
ライブアイドルに関しては特に注意すべきで、一番はその頻度の高さである。全部逢いに行くなどとしてしまえば、ほとんどの場合は破綻し得るものだ。昨今では、ライブベースで活躍するアイドルとなれば、月に15本程度は最低ライブやっているものだし、それに全て参戦してかつ物販も欠かさず回収するとなれば、どうしても金銭的に厳しいものがある。もっとも、高所得者などは例外的だろうが、そんな富裕層はそこまでアイドル応援にのめり込まずとも、マッチングアプリでも使って相手を見つけて結婚でもすれば幸せな人生が難なく歩めるというものだ。筆者もそんな人生選択は可能ではあったものの、何不自由無く上層で生きるよりも、多数派である下層に属して日常的に野次を飛ばしている方が性に合っていると判断して、この人生としている。
さて、話を戻せば、仮に沼ってしまえば、そこからの運命というのは悲惨なものである。ただ、あくまで筆者が経験したのはかれこれ6年前ぐらいに昔のことではあるので、今の時代で界隈などに属してのめり込んだ場合、本当に同等の闇堕ちになるのかは正直わからない。それに、そこは人それぞれだろう。筆者のように不器用な人間であれば、いとも簡単に破綻するというだけで、己の経験から一般論を導くべきではないだろう。なので、真に悲惨なのは、風俗各位に堕ちた人間であろう。
そんな感じで論点をずらしたいが、まさか筆者よ、Twitterのプロフ欄に「吉原」と書いてしまうほどに既に某嬢を強く想ってしまっているというのは、いかがなものだろうか。もちろん、ハロー効果、会話時間も込みで考慮すれば当然なのかもしれないが、だとしても、これまで紡いできたドルヲタ人生を一瞬で潰すほどに愛するというのは、さすがにやり過ぎなんじゃないか。
しかし、愛の操作というのは決して簡単ではないし、正直な話、昨今でも、アイドル界の不祥事や解雇というのは後を絶たないもので、今更そんな世界に再び使命感を抱くというのは、どうも馬鹿馬鹿しく感じてしまうものだ。
『推しの子』では、完璧なアイドルが描かれており、彼女たちを模倣する三次元アイドルも数多く見られるが、個人的な所感として、模倣するということはそれだけ空想世界に惹かれているということだ。だけでなく、自分たちの実力だけでは到達し得ない「偶像」、これを夢見ての模倣だとしたら、見事な逆転現象と呼ばずして、どう楽観視できるだろうか。
長くこの世界に生きた者としては、そう簡単に傷は癒えないものだ。
あとはやはり、個人的事情として、本記事冒頭にも書いたように、絶望以外の何物でもない課内状況であって、過労死をも覚悟したブラック労働のダメージを癒すことなど、果たしてどのアイドルができるだろうか。
となってくると、筆者がソープという風俗に堕ちるのも、幾分か理解できるに違いないが、本題はそこではなく、本作、お姫様クラブで描かれている中毒性が十二分に解っているにも関わらず、かつ、労基の都合上土日しっかり休みをくれる会社にも関わらず回数的にソープ狂いしていないのは何故なのか、というところを、今一度整理しておきたいと思う。
一つは、推しと据える某ソープ嬢が、そこまで出勤頻度が高くないためである。
今年の2月か3月までは、大学生だったこともあって週1ペースで出勤していたのだが、今では社会人となり、月2回程度の出勤頻度に下がっている。もちろん、話の限りでは週1または週2ペースで休みはあるので休みの日=出勤日というわけではなく、かつ、そもそもの話、彼女の言っていること全てが真実と断言できないのもあるが、疑うぐらいなら信じたいし、その方がソープという1対1の空間の悦びというのも自然と昇華されるはずだ。で、月2回出勤なら、破産はそう近くない。可能性はゼロではないものの、前述の通り、もはや生き続ける理由をも見失った筆者である。このまま堕ちても別に構わない。
そしてもう一つが、基本的に平日出勤であるということだ。
詳しい業態は聞いてはいないものの、土日休みであることが稀らしく、友人と遊ぶ日を合わせるのもなかなかに厳しいとのことだ。また、土日以外の曜日が休みとなれば、自然と、ソープ出勤となる曜日が土日以外、つまりは平日になってくる。
そうなるとさすがに、土日休みである筆者としては、逢える頻度が自然と下がってくるというものだ。一応有休は残ってはいるものの、たくさん使うと言葉には出さずとも嫌悪感を買ってしまうし、休日出勤で代休を確保するという方法が無いわけでもないが、とりあえず直近に関しては夏季休暇が待っているから大丈夫だし、筆者だけ休出するというのは協調性という観点から望ましいものでもないだろう。以上の理由から、嬢が平日出勤ならそれだけ逢いにくくなるということだ。
まあ、だとしても基本的に月1ペースでは逢うようにするつもりだし、孤独が常人ほどにつらいものだと感じない筆者とて、たとえば推しに2ヶ月以上逢わないとなれば、その愛が強い分だけ、精神的に堪えるというものだ。それに、今の筆者にとっては、彼女が確かに生きている、この瞬間も頑張って生きている働いている、というのが、明日を生きるモチベーションに繋がっている。
故に、定期的に逢わないと詰むわけだ。もっとも、それほどに過酷に働いてしまっているというのが問題なのだろうが、転職サービスが多々存在する今日だとしても、どう転んでも仕事とは大変なものだ。なので、世間を見渡してもやはり、精神的に支えとなる存在はいた方が望ましいに違いない。それが果たしてソープ嬢であるべきか、というところは議論の余地はあるが、そのあたりは諸々落ち着いたらまた考えるでも遅くないだろう。それに、愛云々で考えれば、不毛に終わる可能性だって十分だ。
こうして執筆している最中でも、個室でのあの独特の香りが思い出されてしまう。それがあの店特有のパフュームなのか彼女が纏う香水なのか、はたまた彼女の体臭か、などと他ソープ店で童貞捨てている筆者からすればいろいろと考えてしまうのだが、作中でのふとした瞬間に舞う姿、まさにあの高揚感、夢のような瞬間というのが、かなり近しいものではある。
もちろん、別に筆者が踊っているなどというわけではないのだが、金を払って異性に逢って特殊なサービスを受けるという異空間へ通うことで得る「中毒性」というのを、解りやすく比喩描写すれば、ああいった感じになる。それを抑えるというのはなかなかに大変だし、筆者とて様々な要素が噛み合っていなければ十分、ソープ狂いに堕ちていた可能性はあるのだが、そこは今確かに享受している運命として、感謝を抱きながら、今後も定期的な嬢への再会で生き永らえることとしたい。
『小林家ワンダーランド』
タイトルの通り小林家が中心で描かれた作品で、父親がクビになり、主人公は社畜、母親はへそくりに努めて妹は長く続いている反抗期。ざっくりそんな感じで一家離散な状況からスタートするが、家で完結できるような新感覚のアトラクションを提供する、ということで、テーマパーク(?)を開くのであった。初めは好感触だったものの、1回体験すれば十分などという声や、他で同様にテーマパーク化な競合発生により、集客的にもかなり厳しい状況に追い込まれる。
リニューアルオープンするがそれも刺さらず、最終的に辿り着いたのが、主人公がチェンソーで傷付けられる、ということを売りにしたアトラクション一本に絞ることによって、他に無いエンターテインメントの提供を可能にして幕は閉じる。
個人的にまずはリンクするのが、社畜、という主人公の状況だが、本当に、どれだけ働いても、仕事が終わらない。
なので何かしら折り合いをつけて、たとえば、今日はここまで、みたいな感じで、無理をしない働き方を身に付ける、というのが一般的な解決策になる。もちろんそれをやってもいいのだが、前述の通り、すっかりソープ嬢に執心な筆者なので、仕事しているのが一番の節約、ということで歪に正当化してしまっているわけだ。それに、どれだけメンタルがやられても、ソープでの至福の一時で全てチャラになるので、アンデッドなループが成立してしまっており、社畜でもオールOKな人間と化している。
まああとは純粋に、どれだけ過酷に働いたところで、1日24時間しかないのは誰だって同じだし、眠くなったら寝るし、お腹空いたら食べるし、身体的に破滅的に生きているわけではないのは補足しておきたい。むしろ先週の暑さを考えれば、下手に外に出るよりも、家に居てエアコン点けてゆったり仕事している方が安全というものだ。まあ、動いてはいないので、健康的ではないだろうが、出掛けるのならそれはそれで、熱中症のリスクがあるので、対策をした上で臨みたいというものだ。
離散、というほどではないが、家族全体でそこまで仲良くないのも、どこかリンクしているように感じてしまう。
かといって、じゃあ、作品にあるように、家族みんなで何かやろう、と、父親か母親が打ち出したところで、正直あまり乗り気になれない筆者である。学生時代、というか、実家に居た頃はとことん学業主義な家庭だったし「遊ぶ」楽しさを教えてくれなかった。あとは、人付き合いに関してもだ。結果、孤独が心地いいと感じる人間へと育ってしまった。
なんだかんだで筆者以外の、兄も妹も、筆者ほどではないが、対人交流が比較的控えめな感じなので、対家族、というところでも、おそらく世間一般と比べれば極めてドライだといったところだろう。まあ、前述の通り、そこに居心地悪さは感じていないので、これはこれで全然いい。ただ一つ、もし筆者が家庭を持つ身になったとしたら、家族でいることの悦び、みたいなものをしっかり教えられるか、創れるかというのは極めて微妙なところだ。そんな理由もあって、やはり結婚はしたくない。
競合意識、というところでは、アイドルも風俗も、それぞれ大変な世界であることは否めないだろう。
まずアイドルに関しては、昨今は何かと、未経験者よりも経験者の再雇用がライブアイドルでは特に目立っており、故に対競合で事務所やグループの強化というところが、コロナが明けてもなお必死に頑張っているといったところだろうか。個人的には十分素晴らしいことだとは思う。アイドル各位、やはり今いる環境がベストである保証は無いし、だからといってアイドルという職業や存在自体にヘイトを抱いてはほしくない。そう陥ってしまうぐらいなら、一刻でも早く、他事務所や他グループに移籍して、より支障の無い形でアイドルに励んでほしい。務める女性あってこそ、アイドルは成り立つと考えるからだ。
それはソープに関しても確かに同じことではある。ただこちらの場合は、コンセプトや活動形態、という言葉よりかは、グレードや世界観、と著した方が精確性の高い気がする。各店舗によって、どういった世界観でソープを捉えているか、空間を創りたいかというのは千差万別であって、これはグレードの選定にも絡んでくる。もっとも、場所としては吉原一択になるだろうが、古参なこともあって吉原は本当にしっかりしている。渋谷や歌舞伎町などの歓楽街を多々訪れている筆者ではあるが、広範なエリア一体でしかも単一の風俗種別、というのは、吉原が唯一と言っても過言ではないはずだ。
ソープに絞って書いてしまったが、情報サイトに載っている数からすればそこまで多いものではないし、他風俗も交えて議論した方が「競合」という言葉がよりしっくりくるだろう。他風俗、というか、風俗以外のグレーゾーンなものまで含まれば本当に様々なので、結局のところ少女個々人が、性的サービスまで許容できるかあるいはしたいのか、YES/NOどっちにしても具体的な内容や場所柄、出勤頻度や店の雰囲気など、はっきり言ってしまえば、そう安易に選定すべきではないだろう。
筆者が言っても説得力は無いだろうが、一度でもこのような世界で働けば、レッテルを拭い去ることができたとしても確かな過去としては刻まれるわけだし、それを背負って今後生きることができるのか、というのを真剣に考えた上で、就くかどうかは考えてほしい。別に全面的に否定しているつもりはない。ただ、後先を考えずに就いて将来激しく後悔しないよう、少女たちの幸福を願っての忠告である。どう生きていきたいのか、選択肢の多さは誘惑の多さでもある。なかなかに大変な時代ではある。
『視線』
ある目薬を差すと、全員から常に見られているような「錯覚」に陥る。モナリザ現象だと思ってくれればいい。
しかし同じ目薬を差している人同士では例外的にこれは起きない。それがきっかけで某男性と出逢う。
主人公は初めは不愉快に思っていたものの、慣れてくると逆に見られていないことが不快に感じ、某男性同様にタイマーごとに目薬を差すようになる。しかし、とある時に目薬の容器が割れて、使い続けられなくなるものの、長く疎遠になっていた母親がしっかり自分と向き合ってくれていることに気付き、目薬を使わずともポジティブに生きられるようになった。
が、最後の最後、先ほどの男性が主人公を殺そうとし、周囲からの視線を浴びて、再び主人公が欲求に目覚めて幕を閉じる。
最後のシーンの主人公の情動についてはあくまで想像でしかないが、確かに、人から注目されること、それこそ、作中で男性が言っていたが、ライブでアイドルが自分を見てくれることは嬉しいのかもしれない。
あくまで個人的な想いでしかないが、ライブを観に行ったとしても、あまりアイドルからは見られたいとは思わない筆者である。
どのアイドルがステージに立ったとしても、DDな筆者故に、そのアイドル目当てで来たファンの方々と比べればライトな存在であることには変わりは無い。アイドルとファンの結び付きの強さから考えれば「第三者」や「赤の他人」などと著した方が解りやすいだろう。また、アイドルファンというのは普通、アイドルからたくさん見られたいものだし、固定ファンまたは一途なファンであれば猶更といったところだろう。故に、筆者を見る暇があれば、馴染みな者たちを見た方が賢明だというものだ。
もちろん、アイドルの活動推進における理想というのは、知名度獲得や人気上昇といったところだろう。運営側としても、その方が収益増に繋がるし、プロデュース事業の継続性を考えれば、アイドルにはそれを目指してほしいに違いない。
しかし、そこまで割り切って活動を推し進められるアイドルというのは、決して多くはないだろう。そこまで頑張れる逸材であれば、とっくに知名度は十二分に獲得しているだろうし、ライブアイドルというフィールドに絞って議論すれば、むしろそれは人間味が薄まってしまうことになり得ないだろうか。ライブアイドルの魅力としては、ライブ頻度の多さが肝心だが、これはつまり、推しに逢える機会の多さとイコールである。となれば、それを大事にできる者たちが、ライブアイドル、そしてライブアイドルファンを務めるべきであって、故に、この絆の継続性を考えれば、前述の大義というのは二の次に据えられるべきなのだ。
だとすれば、じゃあ、対バンライブのメリットは、と訊かれると、はっきり言ってしまおう。アイドルからすれば、無い。
イベンターからすれば、複数アイドルを呼んでその分収益、といった感じでメリットはあるし、アイドル運営からすれば前述の大義は共通して抱いているはずなので、こちらもメリットというが意義を抱いての出演である。
しかしアイドル当人からすれば、はっきり言えば、馴染みと逢えればそれで十分なので、それが対バンなのか、定期公演なのか、ワンマンなのか生誕祭なのかというのは、正直どうでもいい。むしろ、ファンというのは出番時間の長さやチケ代の安さ、さらにはイベント自体の知名度によって動員が左右される以上、これらの要素が多くクリアされたイベントになるべく多く出演したいといったところだろう。もちろん、アイドルだから歌もダンスも一応こなしはするのだが、これだけを志してアイドルに邁進すべきではない。それではせっかく物販まで来てくれるヲタクに申し訳なさすら漂ってくるものだ。
アイドルであれば、多くの人から視線を浴びたい、たくさん注目されたい、と願う存在だと、世間一般は想像しているかもしれないが、それはあくまで机上の空論に過ぎない。実際は、どんなに誇り高いアイドルだろうと、三次元である以上、彼女たちはアイドル以前に人間なのであって、馴染みか否かによる関係性の濃薄というのは排除し切れないものだ。
だからこそ、たとえそれが対バンライブであったとしても、あえて「見ない」選択をするというのも一つ、アイドルにとってプラスになる行動選択ではないかと、筆者は提言したい。なので、たとえ最前管理がスマホを弄って、それをライブの最中でアイドルが注意したり怪訝そうな表情を浮かべたりしても、その瞬間の気の迷いでしかない。
「見ない」ことは、無関心に限らない。聖域侵犯を避けるための、優しさである可能性も信じたい。
『虹』
さて、最後に放送されたのが、とある姉妹で一方が死んでもう一方が生き永らえながら見舞う、その最中に偶然、カメラ越しの死者に誘われた男性。二者は結婚して長く過ごすが、この最中の夫婦描写は無く、その女性も死んだ後から描かれている。
再び出逢った地に訪れるものの、逢えることなどは無く、明日を生きるためのメッセージと共に簡潔に締められていた。
そもそもそんなに長くない作品だったので展開させるのは難しいところだが、主役がジャニーズ所属だったところが一番印象に残ってしまっていた筆者だ。やはり、性別や知名度など関係無く、アイドルとは、極めて不安定な存在である。
先ほどでは恋愛不祥事を例に挙げたが、運営とアイドルの信頼関係、裏で何が行われているかなど、掘れば掘るだけ闇な世界だとは筆者も認識している。それでも、じゃあ、ファンは壊滅するのかというとそうではないし、アイドルに対して何に惚れているのか、となればそれこそ人それぞれだろうが、最近やっと久々に推しが見つかった筆者からすれば、応援する理由は単純だ。
「推し」だから。これに尽きるだろう。
じゃあなんで推しているの、と訊かれたら、こういうところが好き、などと要素化することは確かに可能だろう。
しかし、如何せん、説明的だ。もっと直感的に解る同志を募ったところで、どこか微妙に思想や価値観が違ってくるものなので、推しているアイドルが仮に同じだったとしても、推しに抱く感情や理由などは必ずしも一致しないというものだ。
だとしても、少なくとも共通項は多々存在するわけなので「ヲタ友」として十分成立はするだろう。なので何が言いたいのかというと、どう好きになるか、とか、どう推す、などのベクトルを互いに強制すべきではないということだ。
推しに出逢ってしまえば、それこそ結婚したいなどと考えてしまうのかもしれない。
ただ筆者の場合は、幾度とブログで議論に挙げて多々考察し分析を行い、結局、相手の幸せを第一に願う、これで決着した。
なので、それがもし結婚だったら結婚してもいい、ぐらいの温度感でしかない。個人的にはこれで十分だ。
そもそも、結婚こそが一番の幸せ、とも言い難い時代になっているし、世間を見渡しても、生涯独身を選ぶ割合が増え続けている。政府が掲げる少子化対策も、インパクトも内容も中途半端だし、ざっくり言ってしまえば「結婚したい」とポジティブに思えるような方針が提示されていないのが問題だろう。だとしても、一般的には、人間とは孤独を嫌い人生誰かと添い遂げたいと願う生物だし、已む無く結婚するという人が一定数いるのもまた今後変わり得ないものではあるだろう。
アイドルを応援する、というのは、生物的により優れた個体を残すため、などという見方もできなくはないが、アイドルやファンの全てが規約を越えた濃密な関係を求めているわけではないし、いたとしても極めて少数だろう。なので、結婚云々と織り交ぜて議論するというのは好ましいものではないが、だとしたらじゃあ、依然として鎮火しない事務所に属するアイドルが、結婚だのなんだのな作品に出ているのか、と突くことも不可能ではないが、藪蛇極まりないので、この程度で留めておこう。
性別とか知名度とか、そういうの関係無く、アイドルについて議論するというのは、やはりコロナが明けた今日、エンターテインメントの制約も無い以上、そこまで価値あるものではないだろう。あくまで、一娯楽として、ライトに扱うというのが筋だというものだろう。逆に言えば、批評とか評論とかいうスタンスでライブ参戦すべきではない故、仕事が立て込んでいてそれどころじゃないとなれば、やはりライブ参戦というのは避けるべきだろう。聖域侵犯でもある。強く律して生きていこう。
ということで、先週放送された『世にも奇妙な物語』をベースに、筆者の近況や思考というのを、議論を通して徒然書いてみた次第だが、最後に、今回の記事タイトルの真意としては、梅雨最中で貴重な晴れ間とはいえ、気温を見れば夏真っ盛りな危険な暑さであり、故に無理して外出してしまうとむしろ良くない、などと言い訳しての「避暑」である。
ちょうどこの6月末となれば、クールの分け目ということで、テレビであえば特番はかなり充実している。
もっとも、それらが各視聴者にとって望む内容かというと人それぞれだろうが、先週末に関しては、筆者個人としてはかなり満足できた。今の時代、各種配信サービスももちろん素晴らしいが、テレビに立ち返ってみるのも悪くないだろう。
まあ一番は、テレビなんぞ観なくても、予定がたくさんあって家に居る暇など無い、と掲げられれば立派なのだが、前述の通り、殺人的に仕事が立て込んでいる筆者であり、課内状況を見渡しても改善される見込みが"一切"無い、故にソープ依存することで精神的担保としているがそのためには節約が求められるため雑に外出するのも躊躇ってしまう、などといった感じで、様々な理由が絡み合って、結果出不精と化してしまっている筆者である。こんな己を、果たして誰が予想できただろうか。
とはいえこれも前述の通り、何ら後悔はしていない。厳密に言えば、どう行動選択したところで、全てにメリット/デメリットが存在する。あくまで今現在の筆者としては、それらが全てイコールになっているために、周囲の状況や環境など諸々含めて、自分の運命がどう転んでも「どうでもいい」というのが、正直なところである。すっかり自分自身に関心が失せてしまっている。
感覚としては、本当に「余生」だとか「終活」とかいうレベルである。
これほどに達観してしまっているからこそ、自然と避けられてしまうのだろうか。(10666字)